柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

輝ける闇


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手強かったぁぁぁ!!

 

読み終えるのに2~3ヵ月かかってしまった。

 

朝の30分にも満たない読書時間ではしかたのないことだが、あまりに重く、濃ゆく、臭い、静かな熱を持った、人生を賭けた美しい戦争だった。

 

戦争小説というと、悲惨でありやってはいけない禁忌のものであり、忌み嫌われ、目を背け、蓋をしたくなるようなものの印象があるが、

 

本作の冒頭は、まるでバカンスを楽しんでいるかのごとく、陽気で、銃や兵器こそ手には持っていれど、まるでそこはこの世のパラダイスであり、

 

満ち足りて、物はあり余るほど有り、戦争をしているという現実と隣り合わせなはずなのに、あっけらかんとしている。

 

戦争と一口にいっても、一面的に悲惨である、というわけでもないのかというのは衝撃だった。

 

栄養疲れという言葉が出てくるが、それがまさにベトナム戦争を象徴している。

 

一貫して描写が美しい。何故だろう。

 

土や泥の臭いもするし、マラリアの危険と隣り合わせで衛生的ではないし、手にはずっと鉛の重たさがある。

 

しかし、木々は青々と生い茂り、水源は豊かにあり、そして常に描かれている時間帯が黄昏時なのだ。

 

一日で最も美しい時が、ゆっくりと終わっていく時刻である。これは純文学ではあるが、小説ではない。ルポだ。

 

それほどまでにリアルが描かれており、文体や語り口が実にその世界に入り込みやすいように、ある意味では客観的に突き放して、しかし、作者の愛情と親しみの深さから、むしろ引き寄せられるような。

 

日本での太平洋戦争が陰の戦争であるなら、開高健ベトナム戦争で見た戦争の姿はアメリカ側の陽の戦争だったのだろう。

 

だからこそその闇に輝けるとして題とした。続編の夏の闇先に読んだのだが、開高健は戦争に魅入られている節がある。

 

パラダイスと死線を抜けた先には、それを刺激や快楽として思い出したいという悲しい男の性がある。

 

ヤンサンでおっくんがぶちのめされて、文学の道へと進めなくなったとまで言わしめる作品は、どれ程のものかと思ったが、確かにこれはヤラれてしまう。

 

戦争というものを経験していない若造たちが何をしたって太刀打ちできない領域だし、こんなに豊かな戦争はベトナム戦争が最後だったんじゃなかろうか?

 

今はウクライナへの侵攻が進んでいるが、そこで生まれる文学はもっと無機質で悲惨な風に描かれるのだろう。

 

戦争は絶対にダメ!と抑圧されればされるほど、混沌を望む人達は反発するだろう。

 

ヤンサンで言えば、カオスとローの理論。フロムで言えば退行とヒューマニズムの前進により、説明されるが、人生がロックンロールなら、違う形を模索しつつも、結局は同じこと(規模は変わっても)の繰り返しなのではなかろうか。

 

一人の人生単位で言えば、例えば夢を持てて、叶えようと努力をし、夢が叶ったとする。

 

そうしたとき、その人はまたカオスに堕ちようとするのだろうか。実は必死に踏ん張っていて、踏ん張りきれない人たちが、痴漢をしたり、買春をしたりするんだろうか。

 

その漏れはごく少数なのだから、大半の人は夢を叶えれば、その城を守ることか、広げることに全力を尽くすだろう。

 

エネルギーのやり場や、持っている気質やコンプレックスがそうさせるのかもしれないが、開高健はそんな信じられない大人とは真っ向から違う、正反対でもないし、強いわけでもないが、逞しく生きている。

 

その逞しさは正の逞しさではなく、強かさに通じるものかもしれないが、男としてこんなハードボイルドな生き方は、物語ではなく生き様として体現しているのが素晴らしい。

 

よくぞこんな作品を世に残してくれた。


この生き方が戦争を生き抜いた者の物語ではないリアルとしての文学の闘い方だと思うと、昭和の最後の生まれとしてすこし誇り高い気持ちになれる。

ゲド戦記を観て宮崎吾朗監督へ送った手紙

宮崎吾郎

拝啓

 白色の強い今年の桜もすっかり葉桜に変わり、着々と命萌ゆる季節になりつつあります。次回作に向け、制作奮闘中と思いますが、いかがお過ごしでしょうか。

 

 僭越ながら、吾郎さん(と呼ばせて下さい)の初監督作品『ゲド戦記』を拝見させて頂きました。

 

ゲド戦記は、子供の時分で、金曜ロードショーにて、初めて視聴致しました。

 

その当時は、何を表現しているのか全く分からず、あまり楽しんで視聴できなかったことを、覚えています。

 

それから時が経ち、大人になってもう一度見返した時、なにかきっかけのようなものを感じ取り、一度、原作小説も読んでみようと、思い立ちました。

 

本を購入して、ページを捲ると、吾郎さんの描いたよりも前の、ハイタカの幼少時代の話から始まり、ストーリーが進むにつれ、どう吾郎さんのゲド戦記に繋がっていくかが、気になりました。

 

源流に近いファンタジーの世界、物事の真の名(理)『魔法』に心を奪われつつも、同時に、深く暗い悲しみと、闇も感じました。

 

それは、吾郎さんのゲド戦記を観ても感じました。それまでのジブリには無い、人間の暗さ。原作も、映画にも感じる、『憧れ』だと私は感じました。

 

ゲドが魔法使いに憧れたのと同じく、吾郎さんの父、宮崎駿さんへの強い憧れと、挫折だったのだと、そう思います。

 

遅ればせながら、どうしてこのファンレターを書いたかと言うと、三度目のゲド戦記を観て、私なりに気が付いたことを、伝えたいと思い、筆を取った次第です。

 

気づいたこと、気づかされたことは、この作品がエンターテイメント作品ではなく、吾郎さんのクリエイターとしての苦悩を、現した作品だと言うことです。

 

大変に失礼にあたると、自分でも理解していますが、私は原作小説のシリーズを、全て読んでから、この手紙を書いているわけではありません。

 

アレンが、ハイタカが、テルーが、実際はどんなキャラクターで、吾郎さんがどういう違いを着けて、描いたのかを知りません。それでも、吾郎さんの描いたゲド戦記が、吾郎さんだけにしか描けないものだと言うことを、確信しています。

 

それは同時に、『宮崎駿』を超える存在になれるのが、吾郎さん以外にいないと、そう強く心に予感しました。

 

まず、この作品に込められたメッセージ。登場人物や魔法が、何を表しているのか。

 

主人公のアレンは、まさに、吾郎さんそのもの。

 

王である父の偉大さに怯え、卑屈になっていた王子アレンが、内に秘めた闇を抱えきれずに、剣を取り、殺めようとした、というところが、宮崎駿さんの父としての大きな背中に、息子としての苦悩と格闘が、まざまざと感じられました。

 

その後、苦節を乗り越えても尚、澄んだ広い心で、世界を見続けているハイタカとの出会い。

 

アレンは、ハイタカにも父の面影を感じています。強く大きな賢人。ハイタカはどちらかと言えば、クリエイターの方の「宮崎駿」の姿のように感じます。

 

ハイタカにも、様々な暗い過去があります。それは「宮崎駿」がこれまで、世の中の評価や期待、それに加えた批評に翻弄されつつも、アニメ監督として作品を作り続け、戦い続けた姿に重なります。

 

アレンは父を殺め、逃げ出し、自分の影に怯える一方で、ハイタカに命を救われ、魔法と共に世界の理を知ります。

 

それは死と再生の相反するもの。勝手な解釈をさせて頂きますが、その二つを一人の人(宮崎駿さん)から、同時に感じ取った吾郎さんからこそ、映画『ゲド戦記』が出来たなら、やはりこの作品は、「宮崎駿」の息子の「宮崎吾郎」にしか描けなかったものだと思います。

 

物語の中でのキーパーソン。傷と痛みを抱える少女テルーは、言うなれば、アニメーション(アニメ)を表していると、感じました。

 

その「アニメ」とは、今までジブリの作ってきたアニメ、と言うのに近いです。

 

昨今のアニメには無い、アニメの正常さと言うのが良いでしょうか。アルプスの少女ハイジや、世界名作劇場未来少年コナンに感じる正常さです。

 

明るく楽しく、それでいてきれいで、どこか人間のリアリティーより、創作としてのキャラクターを感じる、生き生きとした人物たち。

 

そんなアニメの素直な部分を、テルーは現しているのだと思います。

 

そのテルーが、暗く(それでいて志高く)心を閉ざしているのは、現代のアニメには、穢されない聖域のような、清らかさがあるからだと思います。

 

私は、現在の深夜帯にやっている、いわゆる『深夜アニメ』も好んで観ています。

 

その中で、キャラクターとうのは、媚びたり、味付けをしたり、物語上必要である舞台装置である、と言うのが多くなった印象です。

 

それでも、エンターテイメントとして、物語が進化(変化)した形だと思います。

 

対して、テルーの正体であった気高い竜の姿。それは本来アニメが持つ、本質的な偉大な力の象徴だと思います。

 

悪漢に襲われるテルーを、狂気じみた理由で、助ける、と言うより、命を投げ出して、運命にゆだねようとするアレンに、テルーは初め、命を粗末にすることを嫌います。

 

それは吾郎さんが、アニメに向き合った時に感じた、アニメからの大きな壁、拒絶だったのではないでしょうか。

 

吾郎さんも、アニメを作るにあたって、その部分は、大変に苦悩したと思います。

 

それまで「宮崎駿」が作ってきた、ジブリっぽい人物たちは、俗っぽさからは相反しています。

 

宮崎駿」のインタビューなどを拝見すると、そう言った部分は、執拗に毛嫌いしているようにも思います。

 

その姿勢があったからこそ、これまでのジブリがあり、これからを担うものとすれば、どう向き合って言ったらいいのか。

 

想像に難いです。同時に、吾郎さんが、どういう決断と結論を出すのかは、非常に気になるところです。

 

次にテルーと対照的な、悪役でもあるクモ。

 

これは、現代のアニメーションを表していると思います。永遠の命を欲さんとするクモの、どんどんと膨れ上がっていく欲望は、俗世の刺激と成果だけを求める、俗っぽさ(クモ自体は俗っぽくない)があります。

 

人の弱みを握り、手練手管を使って、アレン、ハイタカ、テルー、テナーをも毒牙にかけようとする姿は、まさに欲望の化身。

 

しかし、クモの動機は、終盤にかけてあやふやになっていきます。

 

ハイタカを貶めたいのなら、目の前でテナーを傷つけ(殺す)ればいいし、途中からハイタカのことなど、どうでもいいようにも思います。

 

クモが最後にやろうとしたことは、アレンに絶望を与えること。

 

テルーを人質に取って、殺めることで、現代のアニメが、古き良きアニメを殺したことを、意味しているのだと考えました。

 

そして、それでも尚、アニメは死ぬことなく、竜のような偉大な存在になって復活する願いが込められていたのだと思います。

 

このゲド戦記の世界で、魔法は、アニメの与える影響力と考えます。物語の中で、魔法の力は次第に弱まり、真の名すら忘れされてしまう描写がありました。

 

それは、アニメの与える正常な力の弱まりを、表しているのではないでしょうか。

 

その中で、魔法で鍛え上げられたアレンの剣は、吾郎さんのアニメ監督としての才能(敢えてこう言います)。

 

自分の才能との向き合い方が分からなかったからこそ、アレンは最後の最後まで剣が抜けず、心を決め、その時が来て、抜き払った時、クモの腕を断ち、形を保てなくさせ、最期は復活したテルーの竜の炎によって、浄化した、ということなのだと、勝手に解釈しています。

 

ただ、言いたいことはまだあります。私も、創作に携わる者として、クリエイターは出来ないことがある、というのは弱点になる、と考えます。

 

それは、「宮崎駿」の息子、「宮崎吾郎」とすれば、一番に感じるところだと思います。

 

宮崎駿」の魅力。それはワクワクする王道ストーリーと、個性豊かなキャラクター、圧倒的な世界観にあります。

 

物語の随所に、手に汗握る展開があり、何度も見て、分かっていたとしても、涙する程、感動するポイントが幾つもあります。

 

キャラクターも、尊敬と憧れの念を抱き、悪役でさえ、愛され、或いは恋までさせてしまう。どこまでも広がる世界の壮大さ。

 

その全部を曝け出さず、一部分だけを切り取っているという憎さも、心振るわせます。

 

そう言った部分、「宮崎駿」の武器を、「宮崎吾郎」は上回って行かねばなりません。

初めから正面を切って太刀打ちできるか、と言われれば、誰だって慄いて道を譲ってしまうでしょう。

 

未だに「宮崎駿」の領域に達しているクリエイターは存在していないと思います。その中で、対抗する、とすれば、私はこの作品で言えば、クモの部分。

 

現代アニメの俗っぽさに活路はあると思います。深夜アニメを作っているクリエイターの中でも、誰しもが、「宮崎駿」の『良さ』を追い求めています。

 

その良さは、その作り手なりに形を変え、要素であったり、法則であったり、演出であったり、間であったりします。

 

ゲド戦記の中にも、その片鱗はありました。アレンが野犬に襲われ、「お前たちが僕の死か……」と言うシーンに垣間見えます。あとは技術の問題だと思います。

 

ラピュタの親方のシャツが弾け飛ぶシーンや、サンがアシタカに干し肉を口映すシーンは、普段の生活の中で、何が自分にとって良いモノかを考え続けていれば、自ずと開けてくると思います。

 

結論、ゲド戦記をエンターテイメントとしての面白い、面白くないではない、思いを込めた作品と位置付けるならば、「宮崎駿」にも出来ない、血の通った物語でした。

 

私も、創作に携わる人間として、その姿勢に見習いつつ、今後、吾郎さんの作る作品が、非常に楽しみでもあります。

 

これからも、『宮崎駿』には出来ない、『宮崎吾郎』作品を作って下さい。

                                     敬具

親についての話

私の両親について話したいと思う。

 

私の父は(診断はしていないが絶対に)アスペルガーだ。

 

母はそのことを今でも理解せずに、父は普通の人とはちょっと違う、なんで常識的なことが普通に出来ないのだと未だに疑問を持っている。

 

父の話をすると憂鬱になるので、母の話からしよう。私の母は、とにかく明るい。

 

母が幼い頃に両親と死別しており、母が兄弟の母代わりになって、幼い頃から家事をやっていたそうだ。

 

そう言うこともあって、口を開けばうちは貧乏だ、とか今の子供は恵まれていると言う。

 

家では母に逆らうものは誰もいない。反発することはあっても、結局のところ母のこれまで生きてきた実績を掲げられると、誰も何も言えなくなる。

 

母はあまり頭が良くない。論理的に話したとしても、持論を展開して相手の話を受け入れない。

 

母の中で、今までの実績から自分の常識が正しいということに疑いようがなく、簡単に他人の意見に迎合しないのが自信の源になっている。

 

母はニワトリのように三歩歩いたら忘れてしまう。私のように障害があるわけではないが、言ったこと、聞いたこと、昨日のこと、入れた知識などをすぐに忘れてしまう。

 

もちろん、それで日常生活が滞ってしまうことはないが、母自身忘れっぽい性格を自覚していて、私が学生だった頃から、毎日手帳に予定やメモを書いている。

 

母は自分の育ちが人と違うことを分かっているのか、集団から突出することがあった。

 

正義感も強い。自分がこうだと言ったことは曲げない。芯の強い人だと思う。

 

その反面、身体は丈夫とは言えない。年中調子が悪くなると、すぐ風邪薬を栄養剤のように飲む。

 

内臓も強い方じゃない。昔、父の勧めで毎日ウコンを飲んでいたら、胆のうに胆石が溜まってしまって、摘出したことがある。

 

母は自分で決めたことなら抜群の芯の強さを発揮するが、自分の分からないことで、相手から確信をもって勧められるものに対しては、疑いつつも従ってしまうことがある。詐欺にあわないか心配だ。

 

そういう点で、いつも父には酷い目に遭わされている。私が小学生の頃、母はPTAの会長になった。

 

本人はやりたくなかったけど、周りが推すから仕方なくやったと言っていたし、実際やってみると、会長になれなかった男親の役員に僻まれたり嫌がらせをされたと言っていたが、

 

母の性格上、PTAの役員になった時点で、他の親と一緒になって、足を引っ張り合ったりするのが嫌だったから、だったら自分一番上に立って、指揮してやろうと思ったのだろうと私は考えている。

 

PTAで何をしていたのかは、今になっても母は話したがらないので分からない。

 

ただそういう気質が、私にも遺伝したのか、私も成人式の時に、実行委員長を務めて、初めて人の上に立つ経験をした。

 

実際自分のような人間がいなくても、それなりに会は運営されたのだと思うが、自分自身が主役になる式で、一番上に立つ景色というものを見たかったという点は、きっと母に似たのだと思う。

 

自分が上に立っていれば、何かあっても自分が対処すればいいのだと思ったし、周りがやる気がなくとも、自分が代わりに働けば、何とかやり過ごせると実行委員長をしている時に思った。

 

母は、自分の子供が学校で過ごしている内に、自分達親の不正やズルを見逃すことが出来なかったのだろう。

 

私の卒業式の日に、壇上に立って涙を流していたことから、相当の苦労があったのだろうということが子供ながらに窺えた。

 

母がPTA会長を務めている際にも、父が激高して家で酒を飲んで暴れるという事件があった。

 

父はプライドだけが高い人で、母のやっている大変な仕事をそうとは見ずに、父の親元を離れて、今住んでいる私の実家で、母が自由にすることを許すことが出来なかったのだろう。

 

母は、前の家では父の後ろを三歩下がってついてくるようにしていたらしいが、結局自分を隠しきれず、そんな母の一面を見て、父は自分の家長としての立場が危うくなると、本能で感じ、暴れたのだろう。

 

私の父は、とにかく仕事一筋の人間だった。というかそれだけしか出来ない人間だった。

 

私が障害を負ってから、様々な障碍者の方を見るようになって、父もアスペルガーを患っているから、普通じゃないんだということが分かった。

 

子供の頃はとにかく怒りっぽかった。プライドだけが高く、母と言い合いになるとすぐに俺なんか死んだ方が良いんだ!と言って出て行ったりする。家族そろって楽しく外食なんて出来た試しがない。

 

母の影響を受けてか、父のご機嫌を取るような兄弟ではなかった。今でも意味不明なことで父が癇癪を起こし、楽しい雰囲気が台無しになることが頻繁にある。

 

そんな状況で、父は常に孤独な人だ。父の生い立ちを聞いてみると、父親が蒸発して、父はシングルマザーの家庭に育ったそうだ。

 

私の祖母に当たる、父の母も母の話によると、父以上にわがままで口汚く、厄介極まりない存在だったそうだ。

 

父が食べ物の好き嫌いが多いのも、祖母の影響を受けているのだろう。私の祖母の記憶はあまりない。

 

私の物心がつくかつかないかという辺りで、亡くなってしまったからだ。母曰く、祖母がいなくなってから、父の暴走に拍車がかかったそうだ。

 

父はオタクだった。家にはガンダムのビデオや、マガジン、ジャンプなどの週刊誌が常に置いてあった。

 

その中でも手塚治虫火の鳥が好きらしく、先日私の部屋の、家族兼用の本棚で全集を見つけた。

 

そんなオタクでアスペルガーの父が、何故母を射止めることが出来たのかは謎だ。

 

私の中の、激しさは父譲りなのだと思う。父は、昔はヘビースモーカーだったし、酒は安酒を浴びるように飲んでいたし、バンドマンだったらしい。

 

それに車の運転が荒い。車は速く走るものだと思っており、直線になればアクセルをベタ踏みにして、止まる時はきつくブレーキを踏む。

 

そんな運転だから、私たち兄弟はどこか出かける時に、必ず車酔いしてしまって、道端で吐いた。

 

それでも父は自分のやりたいことを優先し、どこへ行っても子供が楽しむより自分が一番楽しんでいた。

 

そんな父を私たち兄弟は親と思ったことがない。

 

姉は実家を離れそういう悪感情を抱かなくなって、父の悪行を忘れているかもしれないが、一緒に住んでいる私と兄は、未だに父との確執があり、特に兄は父を病人と決めてかかり、話をしようともしない。

 

自分の親が良い親だったかと聞かれて、良い親だったと答えられる家庭がどれほど多いのだろう。

 

今になってみれば、比較的仲良くやっている方だと思うが、子供の頃は何でこんな親の元に生まれてきたのだろうと、自分の出生を呪っていた。

 

二人とも学がある方ではないので、両親から勉強を教わったことはない。兄弟間で勉強を教え合ったということもなかった。

 

団塊の世代の少し下の世代の両親は、子供との接し方が分かっていないように見受けられた。

 

父はとにかく自分が稼いで家にお金を入れて、3食食べさせ、雨を凌ぐ家と、寒さを温める服を着せるだけに腐心していたし、母も家庭の内情に構っていることはなく、常に外側に力を向けていた。

 

現在、私たち3兄弟は皆働いておらず、また社会で生きていく術を身に着けていないように思う。近所の幼馴染と比べると、自分達だけが実家に残り、他の人は立派に社会に適応しているようにも思う。

 

親の育て方が悪かったんだ、自分達は普通の家庭じゃなかったんだと、未だに心のどこかで言い訳をしてしまう。

 

もっと勉強しておけばよかったなどと思うくらいには、うちは普通の家庭だった。

 

両親のせいばかりではないが、年を取ると遺伝というものを強く感じる。家の兄弟がどちらかというと、メンヘラ気質になったのは、父の影響があるのではないかと最近思う。

 

母の血がそれを少しでも中和してくれたのだと思うが、その分中途半端に正義感が強い子供になった。

 

子供は親の背中を見て育つというのは、よくわからない。父は自分のことに夢中で、食事中でも自分のパソコンに向かってばかりいた。

 

そんな父を母はしょうがない人だと言って許してしまっていたので、特に兄はそれで構わないんだと思うようになったのかもしれない。

 

私たちは父や母を反面教師にしようと結束していた。それでも年が離れていると、所属する環境も変わって、強く結束は出来なかった。

 

31年生きてみて、今の自分の立ち位置を見直すと、確かにこの親にしてこの子だなと思う。

 

こうして自分の不出来を親のせいにする辺りが特にそうだ。良い親というのは、どういうものだろうか。

 

私の両親が子供を愛していなかったとは思わない。自分たちのやり方で愛していただろうということは分かる。

 

結果論で言えば、子供が自立して親元を離れ、自分達も家庭を持ち子供を育てれば、親の教育は間違っていなかった、ということになるのだろうか。

 

そうだとしたら、家の親は三分の一正解で、三分の二間違っている。子供の成長が親だけのせいでは決してないというのは分かっているが。

 

宮崎駿の「魔女の宅急便」で描かれる、キキの親は良い親ではないと、宮崎駿は言っている。

 

幼い頃、テレビで見たあの子供を愛している親こそが、理想の親の像だと思っていたが、最近になってそれが違うことが分かった。

 

姉夫婦の育児の様子を見ていると、自分のことより子供を第一優先にして、子供のしたいがままにさせている。

 

そんな姉夫婦は子供を心から愛していて、自分よりも大切な存在だと思っているだろう。

 

しかし、甘やかされて育った子供が、果たして社会でやって行けるのだろうか。

 

姉は躾けを放棄しているように思う。子供に嫌われるのが怖いのだろう。一人目の姪は、乳離れするのも遅かったし、オムツをなかなか卒業できなかった。

 

子供は勝手に育つものではないと私は思う。自分の子供を育てたことがないので実績はないが、自分が親に厳しく勉強しろと言われなかったことから、放っておけば子供というのはどこまでも堕落する。

 

自分たちが子供に甘くしたツケは、必ず支払われると思う。栃木と香川とで距離が離れているが、私は私の出来る限り、姪たちに社会の厳しさを教えた方が良いのだろうか。そんなことをする必要はないと、母は言うだろうが。

 

私は30を過ぎて、未だに障害に悩まされていて、社会復帰も出来ずにいるので、よほどの幸運に恵まれない限り、自分の子供は望めないと思っている。

 

なので、せっかく兄弟の中で唯一接することが出来る姪たちに、幸せになってもらいたいが、この社会で幸せを掴むことは、自分の経験上、相当に努力をしないと手に入れられないように思う。

 

今の子たちはそうではなく、容易に幸せを手に入れられる要領の良さを身に着けているかもしれないが、自分と同じ血が少しでも入っている子供らに、容易な未来があるようには思えない。

 

かといって構い過ぎることも出来ないし、叔父として出来ることは、子供たちが道を踏み外さないように助言してやるくらいだろう。

 

しかも、自分の言葉では実績の重みがないので、自分が読んで教訓を得られると思った本を、贈ってやることくらいしかやってやることが出来ない。

 

子供たちが大きくなって物心がつく前に、恥ずかしくないように就職しておきたいが、こればっかりは自分の身体が言うことをきかなくては成すことは出来ない。

 

周囲の見えない圧力で職を決めることになっても、こうして自分のことを書き記すことは辞めないでいたい。

自分のために生きるか他人と共に生きるか

私が小学校から中学校の位から、ゆとり教育は始まった。

 

相対評価で不公平だったそれまでの成績の付け方も絶対評価に変わり、点数が高ければ良い評価を貰えるようになった。

 

その時は意識していなかったが、個人を大切にする教育方針というものも取られ始めた。

 

進路を聞かれると、何かやりたいことはあるのか、得意なことはあるのか、自分とは個性とは何かを問われ、その度に自分という人間はどういう人間なのだろうと悩んだ。

 

齢14~15の子供に自分とは何かと問いかけられても、自分という人間を理解していないのに、一体何を決めれるんだろうと頭を抱えた人も多かったのではないだろうか。

 

自分探しをテーマにした歌が流行ったり、旅に出てしまう大人もいた。

 

自分とは何かなんて漠然とした問題を、私は今でも答えられない。自分という人間が何が好きで、何に怒り、どこに属していて、他の人とどう違うのか30を超えてようやく少しだけ見えてきた位だ。

 

自分という存在が見えてくると、他人との違いに驚く。他人との考えの違いに今となっては、どう向き合えばいいか自分なりに手探ることが出来るようになって、初めて他人と対等に物事を話せるようになった。

 

中学生の頃、両親に進路を変更したいと言った時、それでは将来に困るという理由で、行きたくもない工業学校に進むことになった。

 

本当はその当時付き合っていた彼女と同じ商業高校を目指すつもりだったが、それでは就職先がないと言われ、泣く泣く進路を変更した。

 

その時、じゃぁもう言う通りにすればいいんだろ!と匙を投げたのを覚えている。

 

結局最後は自分たちの意見を通すのだったら、最初からそう云う風に生きてくれと言っておいてくれと思ったのだ。

 

ようするに、この両親は子供の幸せよりも、子供が早く自立することで、自分達の手を煩わないようにしたいのだと恨んだ。

 

多分そんなことはなく、仕事にさえ就ければ、自分達のように子供を作ったり、家を買ったりすることが出来るというのを、自分の経験値から言っていたのだろが、

 

そんな思いは、今になってからでは気づくことが出来ず、障害となっている両親が自分の中で途轍もないコンプレックスになっていた。

 

しかもその時、私の進んだ工業高校には知り合いが一人もおらず、中学生の頃に人気者になった地位が0の状態に戻ってしまい、1から友達を作らなければならなかった。

 

あのまま自分の言う通り、商業高校に進んでいたら、男子校の陰湿で粘着質な性格にもならなかったのではないかと今でも思う。

 

更に当時は、家は貧乏だからと耳にタコができるくらい言われていたので、もし公立の高校に受からなかったら、働くつもりでいた。

 

冷静に考えて見ると、どうにかして学費を工面して、私立の学校に通わされたのだろうが、その時は公立高校に受からなければならないと、自分自身をも洗脳していた。

 

面接の時も、憧れはあったが、何の知識もないバイクについて、オーダーメイドのバイクを作る工場があると、テレビでやっていたのを真に受けて、

 

自分はそこで働きたいんですと、工業の世界がどれほど自分に合わないかもわからずに、真正面きって面接官に堂々と言っていたのを覚えている。

 

受験勉強のお陰でブーストした私の頭は、なんとか志望校に受かるだけの成果を上げたので、自分の力量を遥かに越えた学校に入ってしまった。

 

その中で、学期の最初のテストで、苦手な数学で98点を叩き出してしまったのが、全ての元凶だっただろう。

 

勉強しなくてもテストで点が取れるのだと勘違いして、それから一切勉強をすることはなかった。

 

やらされていた勉強は頭に記憶はされていても、更新することがなくなれば古びていく。

 

それでも授業は毎日あるし、やらなければならないことは、見る見るうちにたくさん降り積もっていった。

 

その当時、せっかく作った友人関係も、喧嘩をしてしまったことから0に戻ってしまって、本当に地獄のような日々を過ごした。

 

そんな時、家庭科の担当をしていた担任の教え子が、ファッション業界のことについて、講義してくれる機会があった。

 

中学校の頃うちの学年では、古着が爆発的に流行った。古着というより、ファッションについての関心が高まった。

 

人気があるカースト上位のクラスメイトは、こぞってブランドのポーチを身に着け、宇都宮にあった古着屋やSTUSSYの専門店で服を購入したことを証明する、ビニール袋や紙袋を提げて学校に来た。

 

あの時自分はそれに乗り遅れていて、ほとんどユニクロで上下を揃えていて、それを笑われたのを今でもずっと根に持っている。

 

それ以来、自分にとって良い服を着ることが外に出るための武装になって、自分の自尊心の根っこに根付いてしまったのを自覚している。

 

そんなファッションに、自分の将来を賭けてみたいと高校の頃思った。ついに自分というものを見つけた思いだった。羞恥心から生まれたものだけど、これは確かに自分というものを表している。

 

良い服を着ると自信が湧いてくる。自分という人間が少しまともになった気になる。

 

学生の頃は、他人からオシャレだね、だなんて言われたことはなかったが、自分はオシャレが好きなんだということは確信していた。

 

その当時、逃げ場所だった小説もあったが、自分という人間はもっと外に出て良い、外に出て活躍すべき人間なんだと思っていた。

 

両親に服飾の専門学校に通いたいと言うと、猛反対された。自分自身を真っ向から否定された思いだった。

 

確かに勉強はしてこなかった。辛い勉強を我慢してやっていい成績を残すより、その時の気分に任せて奔放に学生生活を送っていた。

 

そんな生活が楽しかったわけではない。常に自分の無力さを垣間見ながらの逃避は、辛い以外の何物でもなかった。

 

両親に反対された時、自分の好きなことをやりたい人は、必ずその前に我慢をしなければならないんだと思った。

 

家を飛び出して、裸足のまま立体交差の道路の階段で、中学最後のバスケの大会で、自分のせいで負けてしまった時と、同じかそれ以上の涙を流した。

 

この世が全部真っ暗なんだと思った。一頻り泣いて、家に帰ったがそれから数年家族とは心を閉ざすようになった。

 

自分の味方なんて一人もいないのだと思った。そんなに行きたいなら、自分で稼いだ金で学費を払って専門学校に通えと言われて、家族とは何て冷たいんだろうと思ったが、実際何百万と学費を払うのは大変なことだ。

 

それに自分のような人間が、東京で独り、生きていける気がしない。

 

学費を払ってもらったとして専門学校に通っても、日々の生活資金をバイトして稼がねばならず、結局のところが苦行が疎かになり、グズグズになってしまっただろう。

 

それに自分や他人を煌びやかに着飾る世界で、自分が一線で活躍する人たちに、引け目を感じて卑屈になっていただろうということも容易に想像出来る。

 

突出するものがなければ生きていけない世界ということもないだろうが、多分負けず嫌いな自分は、自分が負けていることが嫌になって、また目を反らしたのではないかと思う。自分には二軍で甘んじれるような要領の良さがない。

 

かといって一軍で活躍できるほどの才能もないだろう。ようするに平凡より、少し突出したいくらいの欲求しかないのだ。

 

自分は普通じゃないんだと思い込みたくて、だからといって変態とか特別だとか言えるような大きな特徴もない。

 

我ながらなんてつまらないやつなんだ、なんて面倒臭い奴なんだと思う。

 

そんなこともあり、高校の担任に言われるがまま、中小企業の上の方に位置する工場に就職することになった。

 

働いていても、自分はこんなところにいる人間じゃない、金を稼いだらすぐにでも辞めてやると思っていたが、勤続年数がかさむ度に、ファッション業界への夢はかすれていった。

 

20歳を過ぎ、自分のようなおっさんが今更、若い人たちに紛れて、同じセンスで厳しい競争の中を生きていけるのかと疑問に思ったのだ。

 

そう考えると、また自分という物の存在があやふやになっていった。ただ食って寝て働くだけの動物。まったく生きていなかった。

 

こうなるまで、自分は自分のためだけに生きていたが、それを周りが許さないという状況が続いていた。

 

そこから飛び出た人たちが夢を掴んだり、或いは更に転落してどん底に落ちるのかもしれないが、結局のところ自分は、誰かに守られた状況の中でしか、何もできないと思っていたのだろう。

 

自分なりの何かを見つけると言うよりも、自分を取り巻く状況の中で、何をしたら周りから一目置かれるのかを考えてばかりいた気がする。

 

障碍を負って、社会からドロップアウトした今になって、私という個人は、両親から半分ずつ遺伝子を貰って、三人兄弟の元で育って、

 

小中高と学校に通ってきた経験と、その間何を思い、何が好きになったかで出来ており、それは私という個人が周りの影響でも人格を形成してきた人間だということだ。

 

今私は、家族のためにコーヒーを淹れたり、料理を作ったり家事をしている。

 

それは周りの負担を軽くすることでもあるし、それによって自分の存在を集団の中に作るという生存戦略でもある。

 

遠く離れた土地で、独り立ちする勇気も力も欲望もない、それでも何者かになりたかった自分の、居場所は他者の中にあった。

 

自分を満足させるために他者がいて、そんな自分を冷たく俯瞰する自分が後ろのほうにいる。

 

お前はその程度で満足しているのか?と若い頃は思っただろうが、30を越えると、新たなる挑戦をするためのエネルギーが自分の中で湧いてこない。

 

これから先は、この自尊心とどう向き合って、平凡に生きていくかが要だと思う。

 

今庇護してくれている両親が死んだら、そこからまた何か考えるときが来るのだろうか。

 

本心を言えば、大学に通ったり、服飾の専門学校に一度は通ってみたいと思う。

 

そのための資金はないので、これは一生抱えていかねばならない棘のように尖って心に刺さっている夢の欠片なのだろう。

 

人生は一度きりしかないのだから、どうにか成仏させておきたい願いだ。個を貫く時は、天涯孤独になる覚悟をするか、

 

それが嫌だったら、周りが認めてくれるように実績を、早いうちから積んでおくことが必要だ。

 

私はそれが出来ずに、結局のところ周りに依存する形で、ずるずると歳を重ねてしまった。

 

そのことにやっと気づいて、こう思いを記せるようになったことは、何かしかの救いなのかもしれない。

勉強の価値

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私は今、勉強について勉強している。これまで勉強という物の本質を疑ったことは一度もなかった。

 

子供の頃の勉強は、やらなければならないもので、つまらないもの、苦しいものというイメージがどうやったって拭うことが出来なかった。

 

自分の理解度の低さを、他人と比べることで評価されて、お前の価値はこのくらいと頭を押さえつけられ、

 

自分でも自分という人間はこの程度なんだと諦め、その間も勉強と評価は続き、常に自分の無力さを目の前に突きつけられている気分で、勉強を楽しいと思うことはなかった。

 

勉強が楽しくなったのは大人になってからだ。初めはマイクロソフトオフィスの資格を取ったことからだった。

 

教科書を読み、自分のペースで理解を深めていくことで、誰からも比べられることなく、パソコンの扱い方の一つを学んだ。

 

理解が深まっていくのと同時に、教科書は読み進められ、最終的には世間一般に評価がもらえる「資格」が貰えた。

 

この味わったことない自信が、勉強が楽しいと思った源だろう。

 

元々、本を読むのが好きだったこともあり、達成感というものは味わっていたが、資格を取って初めて勉強をして褒められるという体験と共に、自分の中で芽生えた新しい感情だった。

 

本書の勉強についての記述は、今まで漠然と思っていた勉強に対する視点を、客観的にどういう勉強が正しくて、どういう勉強が間違っているのかと問い直してくれていて、自分の持っていた勉強に対する概念が変わった気がした。

 

子供の頃は、とにかくわからないものは嫌いだった。だから少しでも分かると思える創作物を好んでいたし、自分の身体を使って運動することで、集団の中で自分の存在を確立していった。

 

バスケットボール部で活躍したのは、自分の中の生存戦略だったと思う。

 

身体を動かすことでは兄弟の中で一番優れていたので、そこに自分の居場所を感じたのだろう。

 

だから、勉強の方がからきしダメでも、自分を保つことが出来た。中学に上がってから、私の勉強はさらに困窮を増した。

 

算数は数学に変わり、新たに英語の科目が追加された。学校の勉強というのは学年が上がっても数珠つなぎで、最初に蹴躓けば後が自立することもない。

 

小学校の頃は、出来て当たり前なのに、自分は出来ないことがある、くらいのものだったが、中学校に上がればそれが、順位とか成績に直結してくる。

 

勉強が出来ないだけで、ダメ人間の烙印を押された気分になって、そんな勉強を放棄して、私はグレてしまった。

 

自分が勉強が分からないのは、教え方がいけないのだと思うようになったのは、高校生の頃だったが、中学生の頃から、反発できるなら先生には反発していたようにも思う。

 

授業を妨害したこともあったし、それを妨害とすら思っていない傲慢なところもあった。

 

クラスメイトたちはさぞかし迷惑に思ったか、もっとやれと思っていただろう。

 

学生時代は頭の中に靄がかかっていて、AというものをAとも認識できていなかったようにも思う。

 

誰がそれをそうだと決めたのだと、微かな憤慨が心の中にあったし、自分の中に物事を測るための物差しがなかった。

 

友人や同僚の影響で、他人を見下してもいいんだと分かった時から、自分という基準を真ん中において、他人を評価することを覚え、自分以下の者は見下してもいいんだと思うようになった。

 

それから自分の中に他人を評価する物差しが出来たように思う。禁忌の方法だとは思うが、それによって救われたことも確かだ。

 

私の両親は、学校の教育方針から放任主義の教育方法を選択した。今思えば、それは放任するというより、放棄していたようにも思う。

 

 

親になること、先生になって生徒に教えるということは、本来はとてもハードルが高いものだと思う。

 

子供を作れば誰だって親にはなれるが、所謂、良い親になることはなかなか出来ることじゃない。

 

そもそも良い親の定義が分かっていないのに、それを目指そうと志す親がどれほど難しい道を進んでいるのか想像に難い。

 

子供に3食飯を食わせて、住む家と着るものを与えることはもちろん、その上で子供が良い子に育つように教育するというのは、よほど経済的に余裕がある人でなければ難しい気がする。

 

お金をたくさん持っている方が良い教育が出来るということではないが、少なくとも子供が勉強を嫌いにならないようにするために、環境を整えてやるくらいのお金は必要だと思う。

 

私の家庭が所謂、中流家庭に属していたとしたら、いや、そうとは思えないか。

 

下の上くらいの経済状況だと認識するが、そうであっても、受け手側、勉強する側の受け取り方にも問題はあっただろう。

 

つまり私自身に、AをAと認識する能力がなく、それにより情報というものを正しく受け取ることが出来なかったのだ。

 

学校の勉強が分からないから、人間の基礎となる部分があやふやになってしまっていて、判断基準が持てなかった。

 

子供の頃に、自分の無知を直視して対面することは難しい。だからこその逃避だった。

 

子供の頃私は、考えることが苦手だったように思う。まったく論理的ではなく感情をむき出しにしている子供だった。

 

馬鹿でもクラスの中では、笑いを取ることで居場所を作った。ツッコミ役を買って出れたのは、自分が一般の人と同じくらいの常識を持ち合わせていたからなのだろうか。

 

お笑いブームの中で、自分にも役割があったことは幸せなことだった。ここでも、勉強以外のものに私は居場所を求めた。

 

だからこそ勉強を蔑ろにしたのだし、学校の授業は自分の居場所を守るために利用するものに変わった。

 

だから子供の頃の勉強で覚えているものはない。自分の興味は別のところにあったのだ。大人になってからの勉強は楽しい。

 

それは自分で何を勉強できるか選択できるからだ。自分の興味のある物を、自分が満足するまで勉強する。

 

そこには自分から学ぼうとする姿勢があるから、前のめりになってもっと知りたいと思うのだろう。

 

物を知ったら、次は考える段階が待っているが、私はまだまだ物を知らなすぎる。

 

こうしてブログを書いて、何とかアウトプットもしているが、読んで知識を得たことを自分なりの論にまとめ上げたり、考えや思想を持つには至っていない。

 

これからもまだまだ勉強が足りないが、勉強の先にある「研究」もしてみたいものだ。

 

研究とは、世界の誰も解き明かしたことのない謎を自分が解き明かすことらしいのだが、そんなことが出来たら勉強した甲斐というものを祝福として感じることがあるかも知れない。

 

ここのところ勉強に関して、知識を着けて頭が良くなればなるほど、人間の愚かさも見えてきて、嫌になってしまうのではないかと悩んでいたが、今感じている勉強の楽しさを信じて、もっと勉強に励んで見たくなった。

 

こういう本に子供の頃に出会っていたかったが、大人になった自分がこれを読んで、今それが理解できるようになったというのも、何かしかの祝福かもしれない。

 

頭の中の靄がすっかり晴れた今ならば、AをAとして認識することが出来る。

 

誰が決めたとかそういう反抗心が治まった今なら、かつて出来なくて諦めてしまった学生時代の勉強も分かってやれるかもしれない。

他人を見下す若者たち 感想

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私という人間は、あまり出来の良い方の人間ではない。

 

生活水準も今のところは食うに困らない程度だが、これから先はもっと厳しくなっていくと思う。

 

そんな中で、自分の何が高められるかといったら、実質的なものよりも精神的なものに期待するしかない。

 

頭が良くなったり、性格が良くなったり。良くなったりということは、今はあまり良くないということだ。

 

先日、バカの壁という昔のベストセラーを読んだが、内容は理解できても、やはり自分はバカ側の人間なんだということが身に染みた。

 

 

そんな私は、自分程度の者以下の者に対する視線が冷たい。

 

自分という人間が誇らしい人間でもないのにもかかわらず、それ以下の行動をする者には、軽蔑の視線を送ってもいいと自分に思い込ませてきた。

 

しかし、マウントを取ることが定石になってしまった現代で、先に相手を見下しておく術や、周りをまず見下すところから人間関係を作ることを始めようという岡田斗司夫の言葉に疑問を持った。

 

何故、私たちは他人を見下すようになってしまったのか。

 

それが知りたくてこの本を読み始めた。現代の若者たちは、少子化が進んだことから、集団主義から個人主義の社会に変わって、大事に育てられてきた。

 

更にテレビや携帯・インターネットの普及により、若者だけでなく現代人が個人の世界を持ちやすくなった。

 

個人主義は自意識を高めやすい。しかし、バーチャルな世界が進化すると、実質的な経験を積む機会は減っていった。

 

そのことにより、人々は共感性を失っていった。テレビやインターネットは大人の汚い部分を露わにして、あまつさえ笑い者にし、社会の規範を失わせた。

 

子供たちは大人を軽んじるようになり、子供と大人のパワーバランスが崩れていった。

 

経験も実績もない若者たちは、相手を先に見下しておくことで、自分の自意識を保つ術を覚えた。

 

人を見下すというのは、一種の防衛方法だったのだ。人を見下してなくちゃやってられないよ、ということだろう。

 

私たちは何にそんなに怯えているんだろう。

 

昔は怖いものといえば、お化けとか殺人鬼とか暗がりだったが、今は形のない悪意が自分の不意を衝いて攻撃してくるのが怖い。

 

損するのが怖い。決定的な不利を背負うことが怖い。皆が怯えているから、いつも自分を律して戦闘態勢に入っているのだろう。

 

私は友人が原因で障害を負ってしまったが、気の置ける友人ですら今は少し怖い。

 

しかし、怖がって戦闘態勢に入っている人に、誰が手を差し伸べてくれるだろうか。

 

もっと心を開いて、穏やかにしている方が、人は寄ってきそうなものである。

 

寄ってくるとは言わないまでも、話しかける態勢、状態になっていることがコミュニケーションのスタートではないだろうか。

 

威嚇しているのが自分も相手もだったら、話にはならない。しかし、皆が皆ナウシカを求めていると考えると、現代人はみんな心が病んでしまっているのだと思う。

 

これからは愛についても勉強しなければならない。

 

相手を見下して、勝った気になるのは一種の快感だ。それまで自分が不利な立場にいるならば、余計にそう感じる。

 

しかし、その道に入れば、人の悲しみに共感が出来ず、人の不幸は蜜の味などといってしまう人間になってしまうのだろう。人の欠点をあげつらうことを、善行と思っている人たちがいる。

 

類に洩れず私もそういう人間だが、自分の正義の名の下に31年生きてきたが、正義を振りかざすこと、真実を明らかにすることは、正しいことであっても、結局は不快に思われるのが常だ。

 

今私は、自分の個性を信じて正義を貫き孤独になるか、自分の言いたいことを隠して相手に合わせるか悩んでいる。

 

このバランスを上手くやっている人が、人から尊敬される人間関係を築けるのだと思うが、私はこれまで自分の言いたいことははっきりと言ってきた方なので、この加減が分からない。

 

多分人と会った時は、相手の話をまず聞き、自分の話はこうしてブログなどで消化するのがベストなんだと思う。

 

恐いから、怯えているから先に見下すと先に言ったが、見下されたくないから見下しているというのもあるだろう。

 

そうなった時、大半の人間は実績を積んだ人たちからは見下される対象になってしまい、そんな人たちとは関わり合いを避けるようになる。

 

どんどん人間関係は狭くなっていく。集団主義が先行していた時代では、先に謝るという手法があったそうだ。

 

障碍者として、先に障害を告白することがそれに似ているが、やはり同種の人からはそれでマウントを取ってくる人もいる。

 

自分が負っている傷があるんだから、人が人を傷つけてもいい、自分はこのくらいやった、出来た人間なんだからお前にもできるはずだというのは、暴力だと思う。

 

本当に本当ならその本人になってみないとその人の問題がどういう物なのかはわからない。

 

俺じゃないんだからお前に俺の気持ちはわからない!と言ってしまいたくなるのも分かる気がする。

 

だったら先に見下して、自分は自分だけの甘い世界に浸っている方が安心出来る。

 

いつも変わらないものだけを愛でている方が、傷つかないで済む。

 

そんな人には結局、損が降りかかり、人は一生勉強しなくてはならない生き物であることも事実だ。

 

誰もが安心して暮らせる社会ではない。そんな中で、人は人を愛せるのだろうか。

 

バカの壁 感想

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目から鱗が落ちまくり、知らないこともたくさん知れて、メモを取る手が最後まで止まらなかった。

 

東大の解剖学医の教授という日本の頂点の頭脳を持つ人の著書だったが、思いのほか難しい言葉は少なく、幾らでも頭の良い文は書けるはずなのに、

 

大衆に読ませることが前提の話なので、高校生でも読めるような内容に書かれていて、これがベストセラーを書くということなのかと勉強をさせてもらった。

 

良い感じの負荷が脳にかかり、「おぉ勉強をしているぞ」という気持ちになる。本のタイトルの通り、人間をバカと利口に二分する内容が書かれていたが、この本を読み終えることが出来れば、バカの構造は理解できると思う。

 

多分、筆者は世の中の人がバカばかりに見えてしょうがないんだと思うが、それでも自分の周り、それも東大の教授という影響力が及ぶ範囲に関わる人々には、

 

バカでいて欲しくないという教育者としての愛があり、ひいては全人類が自分の言うことを聞いていれば、バカな行為をしなくなるという頭の良い人特有の傲慢に思っている感じがした。

 

今は古い老人の長い長い説教ではある。でも説教の中には、もちろん自分の考えを押し付ける部分はあるが、それでも必ず、話した人に間違った風になって欲しくないという愛情であって、

 

それは知識人から出る言葉が後世を憂う教訓であるということに間違いない。

 

難しくて理解できない部分はあったが、その前後の文脈を読み解けば、読むのが難しい本ではなく、終始飽きることなく読めた。

 

メモを取りながらの読書は、自分の理解力を試されているようで、一度でも止めてしまったら、慎重に積み重ねている知識が、ただの文字になってしまうヒリヒリとした緊張感を伴い、

 

著者が最後に語っているように、崖を上っているような感覚で、良い知識労働が出来た。

 

ただ18年前の本なので、普遍的なところはあっても、遅れてしまったところもまた感じられた。

 

時代のことを書けばそれは仕方ないことかもしれないが、普遍的な構造のところもあるので、そういう原理だけが書いてある本を読みたいと思ったが、原理主義は筆者が言うところのバカに通じる道に入ることなので、慎重にならねばならない。

 

解剖学医という視点が、人間を物質として客観的、科学的に見る視点だったので新鮮で、所詮人間なんてと割り切っていて面白かった。

 

幸不幸も、興奮も絶望も、突き詰めれば脳に伝わる電気信号に過ぎない。

 

天才にはなれないとしても、人(や動物と)の脳にそれほど違いはなく、大概の人間は考え方を変えるだけで、全然景色が違って見えることは、賢くなればなるほど色んなものの見方が出来るようになるということだ。

 

ただそれも途中で楽をしようとして、学ぶことを止めれば一気に人生の崖から転げ落ち、人生には努力が必要だと筆者は教えてくれている。

 

勉強をしていて思うのが、たとえ勉強をしていても毎日脳から記憶がこぼれ落ちて、自分の中に古い知識がどんどん消えてしまい、新しい知識がまた入ってくることで、

 

容量がいっぱいのメモリーにどんどん書き換えをしていることになってしまうこともあるんじゃないかと思って不安になるが、

 

そういう意識している世界だけで人間は出来ているのではなく、無意識の部分も三分の一あるんだ、だから勉強することは無駄じゃないんだとも筆者は言っていたような気がした。

 

結果論的に見れば、私はバカの部類に属すると思うが、自分に負荷をかける勉強の仕方は遣り甲斐があり、終わった時の達成感を考えるとそれが好きなんだと思う。

 

古くなったとしても覚えておきたい名著だと思うので、本棚に残す。