柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

子規句集(4) 正岡子規

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岩々のわれめわれめややまつつじ

 

 

どうしてこんなに簡単に写生句が作れるんだろう。

 

確かにそりゃそうだろうけど、それだけじゃ何か足りない気がしてしまって、あーだこーだ工夫をしてしまうのが人の常なのではないだろうか。

 

おー岩の割れ目に山つつじが生えている、割れ目は一つじゃないな、お、これは俳句になるじゃないかと考えた……わけじゃないよな。

 

もっとシンプルに、もっと簡単に考える。むしろ考えるより先に感じる。

 

それでも草木の名前を知っておかねば俳句は作れない。自分が見た景色が美しいなら俳句が作れるのだろうか。美しいとは何なのだろうか。

 

ドツボにはまろうとしているが、美しい瞬間というのは誰にでも必ず訪れる。いつもより早く起きた朝や夕暮れのバス停、キラキラとした水の飛沫、汗の吹きだす夏の熱さ、読んだ本のちょっとした感想。

 

世界はまだまだ美しいものに溢れている。その欠片を探すのが人生の旅を鮮やかに彩る。

 

つまらないと嘆くより、少し勇気を持って新しいことを初めてみる。

 

でも失敗のある人生の方が味深いとしても、やっぱり失敗は怖いし、してしまった時、後悔がある。

 

出来ることだけしていたいという気持ちと、それだけでは満たされない何かのために人は行動を起こす。

 

このままじゃいけないという焦燥感があるんだと思う。

 

最近、このままじゃ自分は袋小路に入ってしまって、本当に身動きが取れなくなると思う一方で、今のままで十分生きていられるなら、それでいいのでないかと諦観する気持ちが交互に来る。人間今時分に出来ることをするしかない。

 

生きているのにさえ迷惑が掛かってなければそれでいいのかもしれない。

 

自分の周りが幸せならそれでいいのかもしれない。でも、経済圏で生きている友人や兄とは遠く隔たりが出来てしまった。

 

自分たちは頑張っているのに、何を怠けて楽しそうに過ごしているんだという妬みがあるのだと思う。

 

それでも事情は分かっているから敢えて口出しはしない。口出しをしなくなるからコミュニケーションが取れなくなる。そうなったらお終いだ。

 

話してお互いを理解し合うのが人間なのに、黙って勝手に黙認して自己完結する。そうすれば誤解は誤解じゃすまなくなる。

 

分かり合えない辛さばかりが目に見えてしまって、それを解決しようにも会話がなければ何も前には進まない。関係を断つことは経済的に豊かになった証拠なのだろうか。

 

お金で割り切れる関係であるのが豊かということなら、僕は今のままでいい。

 

今以下になることももちろん考えられる、来月を最後に失業手当の支給はなくなる。

 

そうなってきた時、障害年金だけでやっていかねばらない。貰えずに何とか日々を過ごしている人もいるのだから、やり様は幾らでもあるのだろう。

 

ただ、僕も経済圏の生活をしていた身で、お金を使うことは好きだ。それを好きに使えなくなるとしたら、羽をもがれたような思いだろう。

 

それでも乏しくなってこそ侘び寂びの世界がわかるかもと少し期待もある。山つつじを見に行くくらいには自由であると良いんだが。

 

 

下り舟岩に松ありつつじあり

 

 

これもつつじの写生句か。

 

保津峡の鵜飼ヶ浜の情景を詠んだものかとも言われているらしいが、昔は普通に群生していた山つつじが、今はハイカーや鹿の食害によって植樹しなくては景観が保てないそうだ。

 

人間が手を加えないと景観を保てないというのは何とも悲しい気持ちになる。

 

人間が反映していくことは自然を征服することだと、倫理で勉強したが、その昔から環境汚染について言及している人はいても、人間は自然を破壊することを止めない。

 

僕たちが普通に暮らしているこの普通を保つためには、自然を破壊しなければならない。それは畜産業の農家の方が豚や牛を捌いて、その捌いたものが肉となってスーパーに並ぶのと似ている。

 

結局自分が自然を破壊している自覚がないからそういうことが出来る。

 

必要にしている人がいるから供給するというのが既に悪なのかもしれない。

 

必要としないように、自分たちだけで賄えるように工夫するのが正しいのかもしれない。

 

ただそれでも、少しのめんどくささからレジ袋を貰うこともあるし、着けてくれるならと割り箸を何膳も貰ってしまうこともある。

 

エコロジストでいることは何か気恥ずかしい気もしてしまう。エコに生きたとしても、それによって環境がどうなったかの結果は見えづらい。

 

そもそも良い結果をもたらしたことがないから判断のしようがない。

 

ヒューマニズムを唱えた時点で、人間には他を破壊し死滅させるまで使い潰す権利があるのかもしれない。

 

ダーウィンの進化論が、最適者という考えを生み、だからこそ人間には、自然を破壊する権利(義務?)があるのだと主張する人がいるということを知ってびっくりした。

 

論を持って論を作るというのは、論点をずらしている気がするし、本質から逸れている気もするが、そういう多様性が人間の繁栄には繋がってきたのだろうし、一概に悪いとは言えないが気持ちはよくない。

 

所謂人の尻馬に乗っかるというやつだ。人間のみが理性を持って生きている。

 

感情や知性は他の生物にもあることが証明されている。もし人間ではない理性を持つ他の生き物を前にした時、人間はどう振る舞うのだろう。

 

ファーストコンタクトもので良く書かれる、人間の進化の促進のために異星人はやってきたり、反対に資源を目当てに侵略してきたりする。

 

そういうSFを見るたびに、人間というのは世界で独りきりの寂しい生き物なんだなと思う。

 

人間同士でも解りあうことは出来なくて、なのに独りでいることはこんなにも辛くて、完全な繋がりなんかなくて、レイプは起こるし、虐待も止まらない。

 

キリストが唱えた愛という抽象的な概念のせいで、世界が不安になっている。

 

愛を技術として素因数分解せねばならない。他者と働く「わかりあえなさ」から始める組織論や4タイプ診断のように、人の内面の分かり合えなさを分析して解明して最終的には諦めるところまで心を落ち着ける技術が必要だ。

 

まずはお互いが川に隔たれていて、対岸にいることを分かってからの、歩み寄りだと僕は思う。遺伝子に違いがあるんだから価値観も欲求も違って当然だ。

 

その上で自分の指針となる人、好敵手、助言をくれる仲間、自分より劣る未発展の人とに分け、その隔たりをなくしていくのが、人間の関係性だと思う。

 

 

涼しさや行燈消えて水の音

 

 

清涼感のある一句。行燈ということは夜なのだろう。少し薄気味悪い気もする。

 

ただ行燈があるということは、どこかの屋内なのかなとも思う。

 

ネットこの句を調べた印象もあって、京都のどこか川の流れが見下ろせる二階席で会食かなにかしているときに、ふと行燈の明かりが消えて、川から魚が跳ねた音やさらさらと流れる音が聞こえたという句なのだろうか。

 

多分違うな。水の音で〆る句で有名な句といえば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」だが、水の音を下五に持ってくると、どうしても比較の対象になってしまう。

 

そうなってくるとこの涼しさやの子規の句は少し弱い。少しどころじゃなく寂びが弱い。どちらかというと涼しさがメインになっているので、俳句としては季語がメインになっている句が正しい句と言われるように、ちゃんと成り立っている。

 

それでも古池やの句の蛙に比べると、厚みも感触も違い過ぎる。実体のある古池やの蛙の句と、涼しさやの実体のない風を感じる句とでは本質がそもそも違ってくるのだろうが、それにしても涼しさの実体が薄すぎる。

 

感覚でものを言ってしまえば、ゾクゾクする感じがない。涼しさが行燈を消した必然性というのがない気がするし、そこに水の音を入れなければならなかった必然性もあまり見出せない。

 

おどろおどろしくするなら霊的な言葉の欠片みたいなのがないと、想像できないし、清涼感をメインにしたいのであれば、行燈が消えることの是非がよくわからない。

 

振り切れていない感じがするから印象が弱いと思ってしまうのだろうか。

 

そのどちら、もしくはそれ以上の何かを考えさせるのであれば、成功している。何が行燈を消したのか、涼しいというプラスのイメージをどこまでマイナス方向へ引っ張るのか、読み手は考えなければならない。

 

子規のイメージから、行燈が消えてびっくりしたと書いたはずがない。

 

行燈の油に漬かる芯が燃え尽きたその時に、涼しさと水の音を感じていたという情景なんだろうか。

 

やっぱり何度読んでも、水の音の部分で古池やの下五と比べてしまう。

 

そのぐらい水の音で〆る句は慎重にならざるを得ない。

 

「水の音」はピチョンだか、ザーザーだか、ブシャ―だか様々ある音の形によって、俳句の深い部分にまで食い込むことが出来るキラーワードだ。

 

誰もが知る名句として君臨するそれを使いこなすことは難しい。

 

しかし、俳人を志すものなら一度は試みたい高いハードルだ。僕も「水の音」を使って、自分なりの究極の一句を作ってみたいと思う。

羊と鋼の森 宮下奈都

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紙みたいな主人公だと思った。自己主張がなく、個性がなく、薄っぺらい真っ白な紙。でも違った。
 
読んでいく度に、この紙には何か模様みたいのがあって、静かな森の匂いがして、ひょっとしたらちょっとした便箋のような相手に何か言葉を伝えられるもので、とても良い手触りのする紙だと思った。
 
調律の天才板鳥さんの調律した、夜の森の匂いのするピアノを聴いた外村青年は、その音に人生を決める。
 
最初、森の匂いのするピアノといったから、『調律師』共感覚の話がまた出たのと思ったが、ただの比喩で良かった。
 
ピアノの勉強をしようと思ってかった本、第二弾だが、思いの外面白く、非常に澄んだ気持ちで読書をすることが出来た。
 
主人公の主張のなさが却ってこの小説の核となって、全体を涼やかな感じにしていた。
 
 
森のようなとは良く言ったもので、終始、森の存在を近くに感じながら読み進め、それは最後の最後に至るまで、気持ち良く続いた。
 
ピアノというのは楽器の王様のようなイメージがあるが、主人公外村は、板鳥のピアノを聴いた瞬間、自分の人生を決めてしまうほどに心打たれ、臆することなく、その道に進んでいく。
 
普通は怖くなったり、サボったりしたりすると思うが、外村は実直というか、自分には真っ直ぐピアノに向き合う努力しかできないと、はじめから割りきっているのが凄いところだ。
 
雑念や欲というものがない。あるとすればピアノを弾く人に合わせて最高の音色にするという信念だけだ。
 
その何が凄いって勤める江藤調律事務所の誰もが諦めた、板鳥のピアノに近づくために必要な信念だからだ。
 
物語の最後で、外村のピアノだから板鳥さんに続くものがあると、力の片鱗を見せるが、それ以上のことは書かれていない。
 
平凡で凡庸で無個性で無味無臭の外村の一生懸命な調律は、忘れていた純粋な気持ちや初心の大切さを思い出させる。
 
本書はメジャー層にウケた作品として敬遠していたが、勉強のためとはいえ読むことが、出会うことができて良かったと思う。
 
タイトル回収は急だったけど、北海道の空気が澄んだイメージや、山育ちの土と近い感じが、良い清涼感に繋がっていたと思う。
 
個性がないといっても、歴史はあって、外村がどんな風に育って、何を考えているのか、実際何を考えているのかは、分かりづらい。
 
外村という人間にリアリティーがない。だからこそ真の音を聞き分けられる力を持っているのかもしれない
 
どん底に落ちることもなく、闇に染まることもなく、天下を獲るがごとく名を轟かせるわけでもない。
 
それでも本棚の片隅に置いておいたら、懐かしくなって読み返すこともあると思う。自分の好みではないけど良い本を読んだという満足感は確かにある
 
正直小説家として負けている部分がたくさんあって凄く悔しい。外村の主人公像は作ろうとして出来るものじゃない。
 
山育ちのハーフのおばあちゃんが作る、優しい薄味の野菜スープのよう小説だった。
 
山なし谷なし物語でもここまでのものが作れて、しかも多くの人の心に届いていることに驚きつつも、
 
自分の小説の糧にしてやるという気概も湧いてきて、負けるか!と宣言する。
 

子規句集(3) 正岡子規

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朝顔にわれ恙なきあした哉

 

恙(つつが)なきとは、無事に、問題なくという意味だ。

 

普通の人が恙ない明日としたら、特に問題も起きない朗らかな落ち着いた一日が始まったとするだろうが、子規が書くと、今日は無事朝顔と共に起きることが出来て良かったという意味に捉えることが出来る。

 

昔の恙ないの意味は病気がないという意味でもあったらしい。朝を告げる花、朝顔と一日の始まりに自分の無事を噛みしめている情感たっぷりな良い俳句だ。

 

昔の人は草木と近かったのが分かる。

 

少し前の勉強で、山里に生きる村民と、その対岸にある大量生産の畑を営む農家との間で時間の価値観が違うという勉強をしたが、現代人は時間に追われ過ぎて大事なものをいくつも失くしてきた。

 

その一つに草木を愛でることがあるが、現代人というのは時間が有限なことに強迫観念を持っている。

 

いついつまでにこれをやらなければ、これの次はあれをやって、ああこんなことをしてまた時間を無駄にしてしまった、と考える人は多いのではないだろうか。

 

僕自身勉強は2時間、家にいる時のご飯は簡単に済ませて、母が帰るまでに夕飯の準備をしてと、

 

時間時間でやることを区切っているが、その際は音楽や岡田斗司夫の話を聞きながら作業をして、時間というものをなるべく忘れるようにしている。

 

しかし、それは退屈に殺されないための工夫だ。結局無為な時間を過ごしたくないという強迫観念から、時間を味付けして、一定の濃度を保とうとしている。

 

だから時間に追われていることには変わりがない。子規の俳句にはそういう重力を感じない。何か大事な器とか価値観とか、生きるということ自体に意味を持たせようとし過ぎている気がする。強迫観念の正体は不安だ。

 

生きていく中で、自分の存在がなにか世界に意味をもたらすものであって欲しい、そうでなければ生きている意味がないと不安に思うからこそ追い立てられてつい行動をしてしまう。

 

時間というものに時給という価値がついてしまったおかげで、無為な時間を過ごすと、無駄なことをしてしまったと感じるようになってしまった。

 

正確にはこれだけの時間があれば、これくらいのお金が稼げて、そのお金で好きなことが出来たから、となって余計に無駄を感じてしまうのだろう。

 

その辺に悟りが開けたらもっと時間の感覚が変わってくるのかもしれない。そうなるには、無駄なことをたくさんする方が良いかもしれない。

 

といっても何の役にも立たない無駄なことではなく、お金にはならないが徳を積むことが出来る、何かの手伝いや奉仕をすることで、時間よりも自身に価値を見出すことが出来ると思う。

 

今は気持ちが焦ってしまって体がついて行っていない状態だが、心身ともに整ったらボランティアにも参加してみたい。

 

ニートの身として、金銭の問題がまず念頭にくるが、現代人としては、時間感覚も問題視していきたい。

 

時間を充実させることばかり考えてきたが、一緒にいて時間が進むのがゆっくりな気がすると言ってもらえるようなひとになるというのも美点だと思う。

 

僕は誰かと一緒にいる時、なにかしかそこで意味のあるものを見出すことに必死になっている気がする。

 

もしかしたら、時間を充実させていく方が得意なのかもしれないが、正直カロリーは使うし、疲弊してしまう。散歩とかした方が良いのかな。

 

バイク買ったらもっと自然と近くなれるだろうか。でもどこもコンクリートが走っていて、電線が繋がっているから情緒を感じないという言い訳が立ってしまう。

 

やっぱり始めるべきはカメラなのだろうか。う~ん。

 

 

鶯や山いづれば誕生寺

 

 

子規が房総旅行した時の句なので日蓮宗大本山小湊山の誕生寺のことを詠った句だ。

 

鶯が山を下りて出た先に誕生寺があるという句で動きはあるが写生句になる。

 

誕生寺は日蓮の誕生を記念して出身である小湊山(の麓?)に建てられた寺らしい。

 

仏教もキリスト教もそうだが、弟子たちに寺院やお経を残さないでくれと言ったのに、張り切ってお言葉を世に広めてしまったのはギャグでしかない。

 

そう考えると、ブッダもキリストもプラトン的な考えを持っていたのだろうか。

 

何を言ったかではなく誰が言ったかが重視され、言の葉だけが残ることは忌み嫌った。

 

あまりにも世の人に認められた二人だったから、自分存在があった証を残す必要性を感じなかったから、そういう考えに至ったのだろうか。

 

自分の死んだ後のことまで考えるのは凡人なのだろうか。

 

自分の生きている間に、自分が何をするかだけを考える太く短い生き方は、確かに憧れはあるし、多くの人がそれを望んでいる気がする。

 

それは表から見ても裏から見ても正真正銘のエゴの塊だが、もし自分の子孫のためにと自分が死んだ後のことまで考えることもまたエゴなんじゃないのだろうか。

 

後に残すものの代表例に、没後70年続く著作権があるが、もし僕が書いた小説が本になって、僕に出来た子供にも著作権による印税が入るようになったら、僕は良いなと思ってしまう。

 

お金に不自由することは不幸なことだと思うからだ。

 

しかし、お金という人生で最大の問題が解消された時、遣り甲斐を持つことは出来るのだろうか。

 

今は何をしても満たされない渇望があるが、渇望が満たされてしまったら、もっと人生に満足することは難しくなるのではないだろうか。

 

困難を克服していくのが人生だと思う。それは呪いで在り祝福でもあると思う。

 

この困難が克服できないでいる限り、僕は満足しようと足掻き続けることが出来る。

 

もしそれが満たされてしまったら、何をするんだろう。それでも倫理を勉強していると、著名な学者たちは、大体が家が裕福で、そこから自分で独立していく。

 

結局親から受けた恩恵があっても、個人がしっかりしていたら、自分で自分の道を切り開くのだろう。ただその時、

 

切り開くための初めの力が、家の裕福さや教養だとしたら、やっぱり満たされているものが更にその先にいけるような気もする。

 

満たされているというが、多分違う渇望がその子供にはあるのだろう。

 

芸能人の二世がどうしようもない人ばかりなのと、海外の哲学者たちとでは何の差があるのだろう。

 

どうしようもない二世芸能人といっても、僕以上の生活をしていることには変わりない。

 

人間の中身が何で出来ているのかは、その人がその人生の中で、何を考えてきたかによると思う。

 

考えることが多ければ多いほど、その人の問題も多く大きくなり、問題があれば人は越えたり壊したり逃げたり見ないふりをしたりする。そういう態度をとることで人格は形成されていく。

 

しかし、満たされない世界だったからこそ、偉大な人が世に出てきたとも言える。今は飽食の時代だし、芸能人は出てきても、偉大な力を持った人は、いないように思う。

 

歴史に名を残す人も、どんな力を持っていたかよりも、何をやったか何の役割を持っていたかというだけのような気がする。

 

力とは抽象的なものだが、最近ではオバマさんにはそれがあったように思う。ドナルド・トランプには力というより暴力があるように思う。

 

力とは正しい信念のもとに宿ると思う。だからそれがない釈迦やキリストの弟子たちは正しく世界を導くことが出来なかったのだと思う。

 

 

山々は萌黄浅黄やほととぎず

 

 

これも写生句。子規は写生句が多いな。こうなってくると子規の一物仕立てが見たくなってくる。

 

ほととぎすが入ると一段と春らしいと思ったけど、ちゃんと調べてみたら、初夏の季語だった。

 

ほととぎすといえば有名な三代将軍、織田信長豊臣秀吉徳川家康の句があるが、そういうメジャーでミーハーなイメージがあると、普段使いがしにくくなる。

 

ほととぎすをメジャーにした句はそれであっても、ほととぎすを使う句を作る時には、イメージが邪魔になってくる。

 

子規を一気にメジャーに押し上げた句で言えば「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」だが、この句がどうメジャー層に響いたのかは知らない。

 

子規句集を勉強していればいずれは行き着くものだと思うが、子規のイメージが「柿」となったのもこの句だろう。

 

今別で勉強している高校の現国の教科書で、子規の柿を使った別の句が紹介された。

 

以前にブログでも書いた「三千の俳句を閲し柿二つ」という句だ。

 

甘く熟れた柿をこよなく愛していた子規ならではの、柿がいつも隣にあるのんびりとした句。

 

一度メジャーに出るとそれ以外の作品に目がいかなくなることが多い。

 

子規にはもっと良い句があるんだよということを知りたいがために、句集を教材に取り上げたのだが、メジャーな作品はそれを知っているだけでその人の一部を知った気になる。

 

どういう敬意でそれが書かれたのか、その人はいったいどんな人物なのか、それを想像するのが勉強だと思うし、それをせずして知った気になるのは、最も恥ずべき行為だ。

 

でもそれも自分に関わるものだからこそ勉強したくなるものだし、自分と関りがなければ捨て置いて構わない。

 

結局縁のあるものしか、人間勉強すらできないのである。

 

人が生きていく中で、たくさんのものを勉強するが、その勉強出来た成果はあまりに少なく、世の中にはもっと知っておかなければならないことに溢れている。

 

例えば政治を勉強して、自分の選挙権である一票の価値を考えに考えて投票するというのがある。

 

しかし、現実僕は選挙にも興味がなければ、投票に行ったことすら少ない。

 

本来なら国民としての義務とまではいわないが、どんな政党があってどんな公約を掲げているかくらいは知らなければならない。

 

自分というものに対する核がないのだ。こんな世の中にしてほしいというより、自分が選んだ候補者が何か問題を起こした時に責任を感じたくないと思ってしまう。

 

ネット選挙だったらある程度やるかもわからないが、投票に行くスタイルが続くなら今後も選挙には参加しないだろう。

 

選挙をして生活が変わる実感が欲しいが、そんな即物的な効果は誰が選ばれたとしてもなされないだろう。

 

総理大臣のレベルだったらそれは可能かもしれないが、総理大臣を選ぶのは国民ではなく国会議員だ。その時点で手の届かないところにある。

 

僕は自分の気風をほととぎすに例える将軍より、浅黄色萌黄色に染まる山々を見ながらほととぎすの声を聞くような世に流されない人になりたいが、それはどうも言い訳臭くて子規とはかけ離れた価値観にあるように思う。

山口誓子

つきぬけて天上の紺曼殊沙華

 

 

この句で知ったこと。まず天上の紺と来たら夜の闇をイメージしたが、この句で使われている紺色は昼の青空の紺色だということ。それと曼殊沙華が彼岸花だということ。

 

この句は紺色の(青)空の下に、曼殊沙華が突き抜けるように上向きに咲いているという句だ。

 

まず突き抜けて、と上五で始まる清々しい感じがいい。突き抜け感というか、真っ先にすっと真っすぐな何かが前方に向かって素早く伸びていくのを感じる。

 

次にそれは空に向かっていることが分かり、更にその空は青く紺色をしていて、それと対比した真っ赤な曼殊沙華が良いギャップになっている。

 

曼殊沙華は彼岸の時期に咲く花で、どこか霊にまつわる感じがして、暗いイメージだが、僕としては真っ赤であの独特の派手な花弁の形に、好感を覚えている。

 

いつもなんであんなに綺麗に咲いているのに、お墓に備えないのだろうと思っている。

 

この句はそんな暗いイメージを払拭するような、曼殊沙華の生き生きとしたところを描いている。

 

世の中統一したイメージだけで出来ているわけではないというところが深い所だ。

 

暗いイメージの彼岸花と捉える人もいれば、天に向かって突き抜けるように生えるこれは曼殊沙華なんだという人もいる。

 

僕がもし亡くなって、その時子孫がお墓参りしてくれるなら、供える花は彼岸花でいい。

 

あの赤にどこか生命の力を感じるし、そういう何か腑に落ちない理由や、思わず目がいってしまうデザインといい、しみじみと良い花だなと思う。

 

それでも文化という奴で、実際に具えてくれる花はその辺りのスーパーで安売りしている花束なんだろうが。

 

それより花を供えてくれる人がいるのか問題があるが、自分のせいで家の家系が途絶えると心配するような昔気質の人間でもないし、いや、待てよ。一番年下の自分が最後まで墓の面倒を見ることになるのではないか?

 

現時点でもお墓参りに行くことなんて、お盆にあるかないかくらいしかないのに、墓の管理なんてできるのだろうか。

 

お墓を大事に出来る人ってのも特権階級だけだよなぁ。時間に追われる現代人には向かない文化だし、廃れて行ってしまうのも仕方ない気がする。待て待て。それをしないように大切にしていくのが、俳句の世界に繋がるんじゃないのか?

 

文化を大事にしなかったら、あっという間に年を取って、何も残さず孤独で死んでしまう。

 

そうならないように今のうちからお墓を大事にするような習慣を身に着けておいた方が良い気がする。

 

それでもまず住む家を大事に出来る資金がない問題もあるし、問題は山積みだし解決できる気もしない。

 

人生に余裕のある奴だけが文化を楽しめるなら、僕には難しいことかもしれないが、夏井先生のように介護や離婚や事故にも負けず、俳句を作っている人もいるので、なるようになるさ的な思いもあるにはある。

 

全然突き抜けた生き方をしていないが、多分こうやって迷いながら右往左往しつつ、行っては引き返し、進んでは引きずり降ろされ、ほんの少しだけ残った余力でわずかに進んでいくのが僕の人生なんだろう。

 

こんなことを書いて、読んでくれる人がいても全然だから生きているんだと胸も張れないが、見守っていくれる人が少しでもいるのは心強い。

 

 

海に出て木枯帰るところなし

 

 

この人の句は捉えやすいな。情景が分かりやすくて、その割に味わいがある。

 

山から町へ、町から道へ、道から原っぱへ、川を下り、海町に着き、浜辺へたどり着き、最後は海に行く木枯らしは帰るところなくまた世界を巡っていく。

 

風は海から生まれてくるものだから、帰る所は海のような気もするが、海に帰って一休みをするわけでもなく、世界中を巡っていく風に帰る場所はないのかもしれない。

 

風のように軽やかだったらと思うことがある。僕には重力があり過ぎる。

 

こうでなければいけないこうしなければならないこれは出来ないあれはやったことがない。

 

そういう壁の中に僕はいて、それを気にせずにはいられない。やりたいことがあるならやった方がいい。

 

やりたいことをやるために生きていると言っても過言ではない。

 

人生でこれだけはやっておきたいことが幾つもある。例えばクジラを見ること。

 

例えばドイツでビールを飲むこと。例えばNBAの試合を見ること。どれもお金を払って勇気さえあれば叶う夢だ。

 

それが出来ないでいるのは、僕を縛る重力のせいだと言ってしまいたい。夢を持つことは生き甲斐を持つことだ。それを叶えるために今を頑張れる。

 

でも、それが叶ってしまったら。自分の中に何にもやりたいことが生まれてこないんじゃないかって不安になる。

 

小説を書いていても、急に書けなくなる。書いても書いてもこれじゃないと思ってしまって、消しては直し結局は消してしまう。

 

書けなくなった時、自分には何もできないんじゃないかって無力感に苛まれる。

 

書いている時が一番楽しいから、書けなくなった時は水の中で息が出来なくなる程苦しくなる。

 

このまま書けないまま死んでいくのかと思うと、形にしてやれなかった自分の物語の登場人物たちに申し訳ない気持ちがする。

 

この子たちを産まれてこさせるには自分の手、力でしか成し得ないのに、それが出来ない無力感。

 

出来ることなら完全な形で生み出してやりたいと思うあまりに、その時をただただ待って、自分の中に確かなものが下りてくるのを待って、そうしている内に向き合うのが恐くなる。

 

何を一端の作家気取りをしているんだと思うが、自分が作家なんだと思い込まなければ、一つ10万文字を越えるような作るのに何カ月何年とかかるものなどやってられない。

 

ハイデッガーは死が間近になるから生を感じられると言っている。

 

こうして苦しんでいるのは生きている証なんだろうか。自分の本当に書きたいものを書ける瞬間は、イデアに触れるような神聖な行為な気がする。

 

物語には必然性が必要だ。でも、物語である限り、それは現実と一致せず矛盾し続ける。

 

それでも自分の中に物語を落とし込むことが出来るから、人は物事を理解できる。

 

自分の物語を形にすることが出来たら、自分という人間の存在を証明できるような気がする。僕は最後まで足掻いてそれをしようと思う。

 

 

炎天の遠き帆やわがこころの帆

 

 

5・5・7の句か。中七の五音目で「や」を使うことで、5・5の調べをきっちりする方法もあるのかと新発見。

 

9文字使って自分の言いたいことをまとめてやで区切るなんて方法があるんだなぁ。感心。

 

大海原に出て夏の炎天の中、見上げた帆船の帆を自分の心の在り様と重ねている句か。

 

炎天の溌溂さ、暑さ、熱さと自分より遥か遠くにある真っ白な帆に、自分も負けじと大きく白い心の帆を広げている情景。

 

破調ではあるけど、きっちり数が5と7になっているところに技術を垣間見え、手心が加わっているにもかかわらず、流れに勢いがあり律している。

 

海なし県の栃木に住んでいると否応なしに海への憧れがある。でもそれも子供の頃に比べたら小さくなってしまった気もする。

 

今はただ、海が近くにあったら海の俳句が作れるのにと、たらればの発想に落ちてしまい、

 

実際の所、海が近ければ津波の心配もあるし、潮風はべたついているし、シーズンには込み合うので、海のない穏やかな土地に生まれて良かったとも思っている。

 

憧れがあるなら憧れを句にするしかない。したり顔で海を語るよりも、純粋に海への憧れを言葉にする方が、栃木人らしいし私らしい。

 

海産物の新鮮さには心惹かれるが、たまに行くくらいの方がちょうどいいのかもしれない。船には何度か乗ったことがある。

 

船酔いをしたことは無かったが、だだっぴろい海の上をプカプカと浮かぶ(高速船にも乗ったが)のは不思議な感じがした。

 

水族館に行っても魚というのは何か感触がないと実感がわかない。かといって釣りに行って魚を触ると凄く気持ちが悪くなる。

 

端から見れば美しい海だが、実際は怖いところだと思う。人間一人呑み込むにはわけないくらい広いし深い。

 

だから行くとき(中に入る)は誰かと一緒でなければ行きたくないと思ってしまう。

 

以前あまんちゅというアニメでスキューバダイビングをしているのを見て、当然のように俺たちもあれをやろうと言ったが、仲間たちの反応は鈍かった。

 

ハードル高かったんだと思うし、実際は怖かったんだと疑っている。

 

その後にぐらんぶるというまたスキューバのアニメがやった時でさえ、行きたいと言ったものはいなかった。

 

あれだけ死を間近に感じたいと言っていたのに、随分と腰の引けたものだと思った。

 

人間怠けたら終わりだと思う。突っ走っている時は、息は苦しくても心は踊っているものだ。

 

そうして突っ走る先に危険信号を感じたから、だんだんと仲間たちのノリが悪くなっていったんだと思う。

 

攻めの姿勢をいったん解いてしまうと、戦う筋肉が落ちてしまって、堪も鈍る。

 

いつの間にか守るものが出来たんだなぁと思う。そういうことを考えると、やっぱりリョウ君が引っ張ってきたからラクタリウス・インディゴはあったのであって、

 

それがなくなった今は、グループとしてやっていけないのは当たり前のことだ。

 

昔気質の熱く濃く交わるのはもうトレンドじゃないんだろうな。そうなってくると、今の感覚の人達に合わせられるか心配である。

 

またかつてのように活動的になるには資金も体力も足りなすぎるので、そうなる心配はないんだろうけど、やっぱりあの頃は楽しかったなぁって言っているような過去の栄光にすがる男にはなりたくない。

加藤楸邨

鰯雲人に告ぐべきことならず

 

 

一見して、鰯雲があんまり綺麗だったから人に伝えたいけど伝えるほどのものではないかという句かと思った(笑)

 

正しくは人に告げることではないこと、悲しみや切なさや悔しさを胸にグッとしまって顔を上げて鰯雲を見上げているという句らしい。

 

俳句を詠む力「詠力(なんて言葉はないが)」が少ないとこういう誤解も生まれてくる。詠力がないと玄人向けの俳句は読み解くことが出来ないものが多い。

 

プレバトで言うと梅沢さんの句によくそういうものが出てくるが、梅沢さんよりもさらに夏井先生の句の方が分かりづらい。

 

そういう分かりづらさが俳句の敷居を上げている。難解なものはそれだけで技術が集結しているという考え方があると思うが、誰にも分らない句を作って、それはただの自己満足になってしまうんじゃないかとも思ってしまう。

 

僕の一番好きな星野立子の句、「桃食うて煙草を吸うて一人旅」という句があるが、これも素人目にしては良さがよくわからないらしい。

 

僕としては、桃を食べながら一人旅をしているその情景に、寂びを感じるし、そこに煙草を取り合わせるセンス、それも女性が作った句、

 

さらにそれが5・7・5の調べに完璧に乗っているのが、大好きなのだが、ここまで説明してもわからない人にはやはり良さがわからないらしい。

 

鰯雲の季語の俳句を調べると、検索ワードの上位に東国原英夫さんの、「鰯雲仰臥の子規の無重力」という句が上がってくる。

 

これはプレバトの俳句甲子園優勝校と俳句バトルをした際に、東国原さんが作った句だ。正直、加藤楸邨の句を越えている気がしてならない。

 

子規の死期間際の病床の情景を詠んだ句だが、子規の床ずれから背中から膿が出ていながらも、仰向けで寝るその上を、鰯雲が漂っている。

 

その光景を何にも縛られることなく、その様がまるで重力からも解き放たれているように、自由に子規が俳句を作っているという句だ。

 

やっぱり東国原さんのキマっている時の俳句は、キレが違う。「花震ふ富士山火山性微動」の時のようなしっかりと背景のある俳句を詠んだ時、永世名人である梅沢富雄さんよりも凄みのある、というか凄い句を作る。

 

正直梅沢さんの句集は欲しくないが、東国原さんの句集だったら欲しい。それほどに発想だけでない、しっかりと根の張った良い俳句を作る。

 

これが名人だと思わせる、確とある技術とテーマ性、挑戦する勇気、歴史背景がある。

 

梅沢さんとの差は先に始めたか後に始めたかの差しかないし、出演回数が多ければ、立場は逆転しているだろう。

 

まぁ、いくらボツを食らっても、出演し続ける梅沢さんのハートも強いが。(ただハートが強いというより数打ちゃ当たるで確率を上げている気がするが)

 

良い俳句、良いものには必ずその理由がある。その良さを自分のうちから生み出すのは、常に挑戦を止めない人からだ。

 

そこと向き合うのはなかなかに難儀なもので、僕はよく見失ってしまう。ある種、時の運のようなものでもあるが、向き合っていく回数が多い方が、

 

確率は上がると思うので、やっぱりなるようになると運任せにしているより、足掻いている方がチャンスを掴みやすいと思う。

 

出来る時は何をやっていても出来るし、出来なくなるとどんなに足掻いても何も出てこない。

 

それでも最後には勉強量が物を言うと思う。何を見て何を感じそこから何が生まれてくるのか。

 

そういう無限にある選択肢から自分だけが選んだものが自分の個性を作っていく。

 

それだけがオリジナルで、唯一価値のあるものだ。善い人間も悪い人間もいながら、その人が積み重ねた学びから、生まれてくるものがあるからこの世界はいつまで経っても多彩なだ。

 

 

隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな

 

 

四方を荒波が怒涛のように押し寄せる隠岐島の木の芽が芽吹く春を詠った句だ。

 

木の芽の朗らかさと怒涛のように打ちつける荒波の対比の句で、更に「や」と「かな」の二つの切れ字を用いたテクニカルな句でもある。

 

俳句を読む時は、有名な句であればきちんと意味を検索して読む方が良い。

 

意味が解らない句を読んでも、それはただの文字の羅列でしかなくなってしまう。現代人の強さはわかりやすいことだと思う。

 

相手に誤解されることが怖い現代人は、相手に分かりやすく伝える術を磨いてきた。それは層の薄い、味わいに欠ける、情緒のないものかもしれない。

 

それでも、詠んだ時に自分の伝えたい部分ははっきりとしていて、もし足りない部分があるとすれば、勉強不足で言葉を知らないだけだ。

 

情緒の面も、知らないことが多い。娯楽や快楽を優先してきたことにより、侘び寂びや粋、情緒なんかを学んでこなかった人が多い。

 

それは勉強は点数のためであると教えられてきたからだ。点数を取ることのみが最良で、それだけが出来れば人に認められ評価を貰える。

 

俳句はそういう頭の良さだけでは作れないところがある。もちろん頭の良さがあるから作れる句もある。そこが俳句の度量の深さであり面白さだ。

 

点数が最優先される勉強をしてきた人にとって、点数を超えたところにある美は、探究し尽くせない広大な世界だ。

 

僕は勉強を熱心にやってきた方ではないので、圧倒的に語彙が少ないのが欠点だ。

 

新しい言葉を知ったら、その言葉を使って一句作ってみる修行をしてみるのもいいかもしれない。

 

一日の中で俳句を作る時間を設けるのも、情緒のある日々が過ごせるかもしれない。

 

昔の人のように自由に旅は出来ないから、実感のこもった俳句を作るのは難しい。

 

体験も経験も、オリジナリティを求めてしまっては広く凡庸なもので、薄く霞んでしまう。

 

まずは何に心が動いたのか、小川で丸くて平らな石を探すように、一つ一つセンスを見極めて、感性を具体化していきたい。

 

 

木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ

 

 

う~ん!非常にオシャレな句!最早、詩だが17音の中で季語も取り入れて破調の形にして詩を奏でるのも、俳句のテクニカルな一面だ。

 

季語は木の葉、季節は冬。花が散って、葉っぱが枯れて、風が吹くたびに木の葉が舞う。情緒的で素晴らしい情景だと思う。

 

この人は木の葉が舞うのがあんまりにも綺麗だから、急いで全部葉が落ちてしまわぬように、ゆっくりただゆっくり季節が進んでいくのを望んでいるのか。

 

楸邨は思い込みの強い人らしい。木の葉に対しても、そのように感情移入できることが、何か優しさや心配性なのを感じる。季節が巡っていくことは、人間にはどうしようもない力が働く。

 

その中で、それでも急ぐなよと言ってしまうのは、何か自分の中で準備が整っていないかのようで、その不完全さが実に人間らしい。

 

5・7・5の調べではないのが、ただの独り言のようで、そんなことも思わず呟くことが出来るこの人は、季節と共に生きていることが分かる。

 

年を取って時間のたつ速度が速くなり、季節が巡っていくのもあっという間に思うようになった。

 

そんな中で、凄い速度で進んでいく時間を、急がないでくれまだ待っていてくれと嘆いてしまうのは、実に情けない。

 

この句の良さが実感できるのは、まだ先だけど、そうなった時、より時間や季節というものを意識することも出来る。

 

ただ意識している暇がないから、あっという間に時が過ぎてしまって、気づけばこんなに年を取ってしまったと後悔するのだろう。

 

俳句はその季節ごとに意識を集中することで、あっという間に過ぎていく時間に、僅かでもくさびが打てるのかもしれない。

 

自分が過ごしてきた時間に意味を持たせるように、自分の生きた足跡を残すように。

 

木の葉ふりやまずとして、進んでしまう時は止めようがない。急ぐなよといってもそれは気休めでしかない。

 

それでもこの句を作ることで、どんどん加速していく時間にくさびを打って、慌てるな、こういう立ち回りの仕方もあるんだと気づけたことは、人生を上手く生きるテクニックとして学んでおきたいものだ。

 

子供の頃とは違って、意識ないと気づくことが出来ず、覚えていくこともままならなくなっていく中で、何かその思いや時間を形にすることは大切なことのように思う。

 

その時その場所でどんな風なことをしたのかは、自分にしかわからない。

 

その形はくだらないものかもしれない。教養もなく品位もなく凡庸でありふれて掃いて捨てるほどあるかもしれない。

 

そうならないようにと言ったら、自分の創作活動は酷く後ろ向きなものに成ってしまうが、少しでもより良い形を目指すにはその方向を向くことに変わりない。

 

人間は善くなっていくようにしか生きられないと僕は思う。善いことに目を反らして悪びれる人はたくさんいるが、それは善いことの眩しさに目を背けてしまうからだ。

 

本当はそれが善いことだと分かっていても出来ないのは、自分にやましいものがあって、それを隠したくて無理をしているからだ。

 

自分にはそんな資格がないという人もいるだろう。でもそこで一つ、善く生きるにはと気づけたとき、この世は自分一人で生きていくものではないことに気づく。

 

悪い奴は大体自分の愉悦を満たすのに自分勝手になっている。そんな奴は一人になった方がいいと切り捨ててしまうことも出来るが、加速していく世界の中で、一人きりなのは寂しい。

 

長く生きるなら、時間の進みをゆっくりにする魔法を僕たちは覚えていかなければならない。

 

それはお茶を呑むことだったり、花を育てることだったりすると思うけど、俳句を作ることもその一環だと思っている。

幼年期の終わり(感想) アーサー・C・クラーク 

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はぁーーーーーーーー!!!読み終わったぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!実に読みづらかった!

 

途中、要約をすることを断念するほど文章が分かりづらく、自分の中に腑に落ちる瞬間が一切なかった。

 

本格SF作品として読んだのは海底二万里星新一くらいしかなかったので、本当に読むのやめようかなと思うくらい読みにくかった。

 

ハインラインは途中で挫折してしまったが、最後まで読むことが出来て本当に良かった。凄い達成感だ。

 

今までのどの作家よりも高く遠く難解な人だった。この人の考えていることの1%でも理解できたのかわからない。

 

ただ書いてあったことは、NHK100分名著の内容とほとんど差異がなく、100分名著の編集の仕方が上手く、本書の重要な要点を説明すると、たしかにあぁなるよなぁと思った。

 

番組以上のことも書いてあったが、理解が追い付かず、番組を見ていなかったら想像力が足りなくて、足場を築くことが出来ず、山頂まで登ることが出来なかっただろう。

 

でもSF作品って、何をやったのかだけが重要視されていて、文章の美しさとか文芸の良さみたいなのは感じにくかった。

 

あるにはあるんだが、作者がイギリス人とのことで、英語を日本語に翻訳するときに出る弊害、倒置法や主語が抜けていたりする文体が、

 

非常に文を読みづらくして、さらに、余分な説明を排して、自分の世界を突き進めるその不親切さが、不快に思うんだけど、

 

書いてあることがあまりに偉大で、書いた人があまりに尊大だから、文句をつけても鼻息一つで吹き飛ばされてしまうだろう。

 

覚えている限りで要点をまとめると、宇宙開発に勤しんでいたアメリカとソ連だったが、突如現れた異星人「オーバーロード」によるファーストコンタクトが行われた。

 

オーバーロードとの対応に追われる国連事務総長のストルムグレンは、異星人侵略反対を掲げる自由連盟の代表ウエインライトとオーバーロードの姿を全世界に見せるべきだと揉めていたが、

 

オーバーロードは取り合わず、ついには自由連盟の過激派がストルムグレンを拉致し、オーバーロードを脅迫した。

 

しかし、オーバーロードの技術により、ストルムグレンの監禁場所が分かり、救出。オーバーロード総督カレルレンは騒ぎが納まる頃、そうだなぁあと二十年したら姿を現すよとストルムグレンに言った。

 

いよいよその時が来てオーバーロードが姿を見せると、その姿は人間が昔描いていた悪魔そのものの異形の姿をしていた。

 

それでも人類はそれを受け入れ、オーバーロードと共に共存することにした。オーバーロードが地球にしたことは数多く、まず日取りと時間を決めて日食を起こし、宗教の問題を解決した。

 

それから闘牛で最期仕留められる牛の剣の刺さる痛みを全人類に共感させ、無駄な殺生をすることを止めさせた。

 

更に機械化を進めさせ、全人類が働かなくても食べたり服を着たりすることが出来るようにし、人類のほとんどは大学に通い、芸術と学問に勤しんだ。

 

その頃、オーバーロードの一人、ラシャベラクは蔵書の豊富な一般人の家で、本を読み漁っていた。

 

その頃、家の持ち主がパーティーを開き、その催し物で若い者が集まって、こっくりさんのようなオカルトじみた儀式をした。

 

その際、若者の一人が面白半分でオーバーロードの母星はどこにありますかと訊くと、儀式はひとりでにある座標を指し示し、その時一緒に儀式をしていたジーンが気絶した。

 

ラシャベラクはそれを知りカレルレンと連絡を取った。その頃、ジャンという男がサリヴァン博士と共に、オーバーロードの母星に潜入しようと計画を立てた。

 

オーバーロードが地球の生物を剥製にし、母星に持って帰るのに捕まえたクジラの中に、酸素室を作って潜入作戦を試みた。

 

オーバーロードの宇宙船はスタードライブ航法という光よりも早い速度で航行することが可能で、それによって相対性理論の関係で、光速で航行する宇宙船では3カ月でもその外の止まった世界では40年の月日が流れる。

 

ジャンは年老いたサリヴァンとはもう会うことは出来ないと決意し、酸素室の扉を閉めた。その頃、こっくりさんの時に気絶をしたジーンとその共にいたジョージとの間に子供が出来た。

 

名前はジェフ。ジェフはすくすく育ち、妹のジェニィも生まれた。その時、ジェフに突然超常の力が宿った。

 

海岸で遊んでいた時に地震にあい、その時の津波を真っ二つに割ったのだった。

 

ジョージは心配になりラシャベラクに相談したが、これは進化の形なんだと言われ、後に妹のジェニィも物体を手を使わずに浮遊させるようになり、夫婦は子供たちは自分たちの手を離れたのを感じた。

 

酸素室に入ったジャンは結局オーバーロードに見つけられたが、お咎めはなく、オーバーロードの母星を見学した。

 

そこは重力が5分の一で、広大な地下都市が蔓延り、そこには様々な生き物の剥製と、オーバーロードの上位の存在、オーバーマインドの存在を知ることになる。

 

地球では考えられない世界の在り様を見て、ジャンは地球へ帰る決心をした。

 

しかし、またスタードライブ航法で帰るには地球の時間は40年月日が進むことになる。

 

ジャンは行きと帰りで合計80年経った地球を見て驚愕した。あれだけあった都市の光が一つもなくなっていたのだ。

 

宇宙船が地球に降下すると、ジャンは地球の変貌を目の当たりにした。三億の子供たちが服も着ずに神聖な儀式をしている。

 

そこに言葉やアイコンタクトなどはなかった。全てがテレパシーで通じ合い、地に足を着いたりもせず、飲んだり食べたりなどという非効率なエネルギーの補給の仕方はしていなかった。

 

オーバーロードはジャンにもう一度オーバーロードの母星に来るかと訊いたが、ジャンは最後まで地球の姿を見ていたいと言った。

 

オーバーロードが去ると、ジャンはもうこの世で人間と呼べるのは自分だけなのだということを確信した。地殻変動が始まり、ジャンはオーバーロードが残した施設に入る。

 

そこで地球の最期を見守った。立ち上る火柱、地割れ、地球中心から立ち上るエネルギー。

 

子供たちは地球からエネルギーをすべて吸い取り、地球は消滅した。

 

オーバーロードが地球に来た目的は人類を次のステージに進ませ、大いなるオーバーマインドの意志に従って、あらゆる生物が進化するのを手助けすることだった。

 

って感じか?いやーーー小説じゃなくていい!これだけ読んだらそれだけで満足してしまう。

 

読んで見てもノンフィクション物を読んでいるみたいに感情移入が一切できないから(ノンフィクション読んだことないけど)何を思えばいいのかわからない。

 

ただ、100分名著を見た時に、オーバーロードが来たことによって、全人類が働かなくてよくなって、大学に通いまくるというのを見て、それはいい!そうなるべきだ!と思ったのでこの本を買ったのだ。

 

最期はオカルトな話になってしまったが、そういう仕組みを変えてしまうような大事件をもっと詳しく読んで見たかったのが正直なところ。

 

海底二万里を読んだ時もそうだったが、SFは余計な部分(理解できない部分)が多すぎる。

 

作者が何を言いたいのかもさっぱりわからないし、これが凄いってことだけしかわからないというのは本当に感動しているからなのだろうか。

調律師 熊谷達也


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読み終えた~。意外に速く読むことが出来たな。

 

ピアノ調律の資料のために買った本だが、最初読んだときは、ピアノが生臭く感じる、

 

なんてことが書いてあって予備知識もなしに読んだものだから、ミステリーの類いのものかと思って、

 

顔をしかめて本を閉じてしまったが、改めて読んでみて、その主人公が感じるピアノの匂いが「共感覚」として書いてあることがわかり、

 

それがキーワードになって物語が進んでいくのがわかった。小説の評価としてはあまりよくない。

 

良くない点は主人公を取り巻く人間関係があまりにもベタなこと。

 

それでもストレスなくスラスラと読める文章には交換が持てたし、今まで読んできた蔵書の数々に比べてしまったら明らかに見劣りはするものの、

 

小説の体は成していて、及第点があげられるくらいには面白かった。

 

ただ亡き妻との繋がりである共感覚だとか主人公周辺の人物たちに魅力を一切感じず、

 

ならば主人公はと聞かれれば、自分本意の嫌なやつという印象を受けてしまった。

 

出来るなら共感覚みたいな味つけをしないで、調律師一本の矜持を見たかった。

 

ピアノの調律に関しては専門知識がふんだんに出てくるので知りたいことは知れたが、

 

後半にかけてのまさかの震災小説になって、色々と本書の持っていたテーマが移ろってしまった。

 

読ませる文なので震災のシーンになっても細かい描写と説明力、あと主人公自身の頭のよさもあって、

 

遜色なく読めてしまうのだが、調律師という銘を打っているのに、いくら書きたい、書かなければいけないとしても、必然性は見当たらない。

 

たぶんこの人は別の作品を書いていたとしても、同じことを書かずにはいられなかっただろう。

 

悔しいのが、自分と作風が似ていることだ。

 

さらに、小説家としてしっかりとした下調べが出来ている点も敵わない。

 

無名の僕が取材なんて出来るのだろうかという悩みがあるが、小説家として作品を一作でも出した人ならば、容易に取材はできるだろう。

 

今ある差はそのくらいで文章力においてや、キャラクターの魅力の出し方、キャッチーな内容に関しては僕の方が良く書けていると自負がある。

 

出来の良い2時間ドラマをみたような読了感なので、この先この人の作品を追ったりすることはないだろう。

 

教師と小説家の二足のわらじで活動しているみたいだし、

 

これから先小説家一本でやっていくには余程のマーケットを確保でき、執筆速度が極端に速く新作を何本も出し続けられる人だろう。

 

そうなれないなら趣味で出来る時間に書いて、好きなときにネットにアップしていくスタイルが主流になるだろう。

 

これからはちょっとでも絵が描けたり文章が書けたりする人が暇潰しもかねて創作していく割合がもっと増えると思う。

 

絵や文の世界にリア充が押し寄せてくるのだ。

 

出来るんならやった方が良くな~い?というノリで聖域を荒し始めるに違いない。

 

その方が僕は本望だが、そうなってくるとますます売れるというのが難しくなってくる。

 

自分の好きなことをやっている時点で売れなくても構わないではあるけど、この世に生を受けたのなら一度はプロの世界も見てみたい。

 

読んだら自信も湧いてきたし、執筆再開近いかもしれない。取りあえず今は読んで読んで読みまくるぞぉ~!