柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

哲学大図鑑

f:id:neocityproject:20190822214435j:plain


 

また小難しい御託から始まりやがってボケェーーーーーと思って読 み始めた哲学書(図鑑)第一号。

まさか自分が哲学の本を読むことになろうとは。

本の縁というものは、計り知れない。

本当は博愛主義者の本が読みたかったのだが、 図書館に置いていないと言うことで、取っ掛かりを探し、 この本を手に取った。

筆者の書いている部分は、何を言っているか、 さっぱり分からなかったが、哲学者一人一人の話になれば、 面白く読めている。

特に、西洋の哲学者ではなく、老子や釈迦の話は興味を惹かれ、 次は儒教や仏教の本を読んでみたいなと、思わされた。

やっぱりアジア圏の哲学者の方が、 感覚的に身近で分かり易いのかも知れない。

哲学者というと、この世の真理を解き明かしたかのような、 偉大なイメージだが、読んでみると、寧ろ謙虚な面と、 怒りを感じる。

ただ、(どんな人だったかは知らないが)徹底的に自分を廃して、 人のために哲学を教えていたかに、疑問が残る。

もしかしたら、ただの一般人に教えを説いて、弟子や生徒、 信者にしたのかも知れないが、それが、学問(宗教) である必要はないだろう。

予想するに、弟子、信者なりが、教えの意味が分からず、研究し、 発見し、書物に残したのだろうが、その難解さだけが際立ち、 学問として確立してしまったことは、最大の間違いであり、 哲学者たちの一番恐れている意図しないところだったのかも知れな い。

論ずるところに楽しさはあっても、 それを活かすことが出来なければ、 何の意味も持たない言葉の欠片になってしまう。

理解されることが、何よりの幸せだと思うし、何をしたのかより、 何を伝えたかったのかを考えるべきである。

その点、ディオゲネスは好感が持てるし、興味もそそられる。

アウグスティヌスの悪論は至らないようにも思う。

絵画と哲学の関係性も気になるところ。

筆者の好みなのか、理解した部分の違いなのか、 哲学者がどんな人で、何を考えていたのだろうかと、 解説しているものもあれば、カタカナばかりで、 全く内容を感じられないものもあった。

大概は何を言っているのかサッパリだが、 文字を入れることに集中して、ページを捲る。

哲学は過去の経験から導き出しているものだが(断言は浅いか?) 、時に未来の科学まで追い越してしまう。

昔の人は、 その領域がまだ手付かずだったことを幸せに思ってほしい。

ホップズ、面白いなぁ。

やっぱり過去の理論に疑問を投げかける人がいなきゃ。

それまで合った答えを揺るがせてしまうのは、 教えを乞う者としたら、不安しかない。

でもそれを平然とやっていけなければ、 本当の学問ではない気がする。

常に疑うこと。

疑うことから学んもん始まっていると言っても、 過言ではないと思う。

デカルトだけ、熱量が違くないか(笑)?

こういう筆者のムラも面白いは面白いが、 もっとページを捲る度に、哲学の深淵に向かっていくような、 広大な知識の奔流に旅していくような構成だったら良かったな。

ロックって、ジョン・ロックから来てるのかな?

続きはまた後でだな。