今更努力も出来ないし
出来ることしか続かない。どうも最近閲覧数が伸びてきて浮かれている僕です。
子供の頃勉強というのは国数社理英の5教科を学んだ人が一般的だと思います。
僕も、それは避けられなかったし、子供の頃の勉強というのは、大人になるまでに知っておかなければならない一般的な常識や、テストで点数を取れる学力や忍耐力を身に着けるものでした。
自分の得意不得意が見つかってからもそれは続き、不得意な教科では赤点をとったり、得意な教科を専門的に、知識を深めることなども出来ませんでした。
大人になってからの勉強というのは、自分の出来ることだけをやるものです。
そう断言してしまうのは、自分の経験上のもので、出来ないことを出来るようにするという人もいることは知っています。
しかし、自分の出来ることを伸ばす喜びを感じている時に、自分の不甲斐なさに耐え忍びながら、不得意を克服するのは並大抵のことではありません。
僕はこのブログを書いて更新し続けているのは、まさに努力の積み重ねですが、それは自分の出来る事であって、出来ないことをやろうとは思っていません。
僕の物書きの起源は、『涙について』という少し前に書いたブログに詳細を書きましたが、
国語の担当だった担任の教師に、文章を褒められたからだというのがあります。
子供の頃に褒められた、という経験は一生残り続けます。
それも、自分では出来ると思っていなかった者に対して、他人からの評価を得られた経験。
君のやっていることは正しいんだよと言われた経験は、何よりも掛け替えないものです。
しかし、才能というものは世の中に溢れかえっていて、自分より上手く出来る人は五万といます。
それも自分には生涯行き着くことのない領域のものにだって、お金を払えば見ることは出来るし、そういう頂点のものにも容易く触れられるのが貨幣経済のいいところです。
これから評価経済、またはそれよりも違った社会が到来すると思いますが、一度天井を知ってしまったが最後、自分の無力に打ちひしがれます。人間というのは残酷なものですね。
同じ人間なら出来るかもしれないと思うことすら出来ない程、才能というのは非情なものです。
僕は、小説投稿サイト『カクヨム』で投稿していますが、その小説に至っても、才能の片鱗は感じられません。
自己満足は出来ます。でも、人に読ませるような、そんな価値のある小説は書けていません。
物語を書くにあたって、文章力や描写力、キャラクターの個性、ストーリー展開など、意識して変更できるところはあっても、最近一番ネックに感じるところは取材力です。
取材力というより、経済力。
お金があれば一流の物語に触れられても、それを見つけ出す術や、業界の裏側、物語の構造として独学では必ず限界に突き当たり、知らない、より先へ行くことは出来ません。
知らない、は0であり、1にはなりません。1を見つけ出すことがまず可能性というものを手繰り寄せます。
僕は以前一人暮らしをしていた時に、一人で生きていくことはなんと情報の少ないことかと思い知りました。
すべての事柄が自分主導でしか機能せず、不用意さから騙されることもあったし、自分がちっぽけな存在で、ただ働いていて飯を食っているだけの無価値な人間にならないように、繋がりを求めました。
人は繋がりがなければ、孤独の海に溺れてしまいます。
一人で生きていくことは、気楽に見えて大海を泳ぐのと一緒です。
一人で海を泳ぐ危険性を知っていなければ、世間という荒波にもまれて沈んでいきます。
僕は、人との繋がりを断ったことが幾度もあります。
その時、煩わしさからは確かに解放されるのですが、柵と感じていたものは実は掛け替えはあっても、在りさえすれば、常識的に蔑ろにされることもなく、ある一定の評価ももらえます。
人間、この他人からの評価を得られることが、自信にも繋がり、波を掻く力にもなります。
今自分のいる空間で、必要とされること。それは出来ることの積み重ねで勝ち取ることが出来ます。
自分には出来ることがないと、自信がない人は、僕が感じている天井の人たち、宮崎駿や岡田斗司夫なんかと同じく周りをそう感じているのであって、自分の自信を持てる環境に生活レベルを落とすことも考えた方が、自分の自信を守ることに繋がります。
志望校のレベルを落とすのに似ていますね。もし、どうしても生活レベルを落としたくないなら、競争の中を勝ち抜いていかねばなりません。
競争が嫌と言っても、それは今の社会が嫌だと言っているのと変わりなく、社会が変わるのは時代がさせるのであって、人力では無理があります。
それに、今いる環境の構造自体を変えてしまいたいと思っているモチベーションがあるなら、競争社会の中でも生き抜いていける精神力があると思います。
人間結局自分の出来ることでしか、自分を表現できません。
それも、自分のペースでしか出来ることを伸ばすことも出来ず、それは天井の人たちに一生かけて追いつけるかどうか、確信もないし、確証もない賭けです。
それに、出来ることの維持も、コツコツと毎日続けていくしか、成長はありません。
僕は、このブログを毎日コツコツと書き続けることで、何かあるかも知れないと思って、時間をベットして、将来に期待しています。
拙い文章でも、毎日見てくれる人がいる、その人たちに自分の文章を届けられるからやっているだけで、僕は何の努力もしていないのかもしれません。
僕は努力を不得意を克服する力だと思っています。だから出来ることをやっているうちは、ただの娯楽であって、出来るだけストレスのない方向へ逃げているだけでもあります。
逆に、宮崎駿は「頑張るのは当たり前なんだよ、頑張ってもダメな人が累々といるとこが我々の仕事なんだから」と語ります。
一流の人が血の涙を流しながら頑張っているところに行き着きたいなら、出来ることに縋って、環境のレベルを徐々に上げていかねばなりません。
ギリギリガリガリにまで削った鉛筆のように、得意を伸ばしていくか、
それとも人と人の繋がりを起点に環境レベルを上げていくか。(その場合、人を踏み台にしていくこともあるだろう。)
一流の人達は、自分より上の階層で世界を見ている。ここからは近所の庭先しか見えなくても、毎日富士山を見ている人だっている。
そういう人に近づくには歩みを止めないことだ。
自分の力で、自分の足取りで、一歩ずつ前へ進む。
その距離がどれほどのものかわからないし、どこに行き着くのかもわからないが、僕は僕なりに歩みを止めない。
止まっても、次の一歩を踏み出す方向を常に考えて、この旅を続ける。