柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

甃(いし)のうへ 三好達治

あはれ花びらながれ(憐れ花弁流れ)

をみなごに花びらながれ(女子にも花弁が流れ落ちる)

をみななごしめやかなに語らひあゆみ(女子たちは淑やかに語らいながら歩いてる)

うららかの跫(あし)音空にながれ(麗らかにその足音がそれに流れている(響いている))

をりふしに瞳あげて(折節(季節)(そういう花弁が流れる)を見上げて)

翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり(日差しがさえぎられることなく降っている寺の春が過ぎていくのを感じる)

み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ(お寺の瓦葺の屋根の緑に滑らかに光る)

廂(ひさし)々に(軒に差し出た、雨や日光を防ぐための小さい屋根屋根に)

風鐸(寺社などの廂に吊るした金型の鈴)のすがたしづかなれば(風譚も鳴らない静かな時に)

ひとりなる(一人でいる)

わが身の影をあゆまする甃のうへ(自分の影を歩ませる石畳よ)

 

こんなに短い詩なのに、いろんな意味が込めらていて凄い!というのが一般的な感想だろう。

 

人間が何に対して詩を感じるのか。美であったり侘び寂びであったり、日本人だからわかる感性というものがある。

 

それでもそれを分かりづらく書くことが、第一優先になってしまうのはいかがなものだろうか。

 

物を簡単にして誰にでもわかる方が良いというのは、動員数や興行収益が高い映画が必ずしも素晴らしい映画だというように、短絡的に考えてしまう人を作る原因になる。

 

だからといって、わかりづらさを是とする考えも、道家と思う。

 

僕は毎週プレバトで夏井先生の添削を見ていて勉強になるなぁと思うが、夏井先生の句集を買って読んでみても、何だこりゃ?と首をひねってしまい、ほどんどの句を理解の遠いところにおいてしまった。

 

熟達した作家は解る人にだけわかる玄人の句を作りがちだが、星野達子先生のように、わかりやすさを第一として、その上で技術を兼ね備えた句を作る方が、共感を生みやすい。

 

僕も作家を目指すものとして、わかりやすさは第一に持っておきたいが、その反面、もっと難解でもっと深遠なもっと奥行きのある物語が書けたらなと思う。

 

要はバランスだし、玄人向きを是とした人は、大衆に広く伝わることを捨てているとも言える。だから古今和歌集など、有名であるし、偏差値の高い学校では勉強され、

 

多くの人が知っている詩でも、それを理解できる一部の人にだけ、楽しみが分かるようになってしまっている。

 

これからの世の中、そういったものをより大衆に分かりやすく解説する人たちが増えてくると思うし、その一人に僕もなりたいと思っている。

 

頭がよくなる快感が嫌な人はいない。分かりづらい学問でも、やり方、捉え方さえ分かってしまえば、糸口はつかめる。

 

難解な文も一文一語ずつ解読していけば、意味は理解できるし、そこから先の侘び寂びの世界は、そういうものに触れ続ければ、感性として自分に宿っていくと思う。

 

今までそういう難しい詩や歌に触れてこなかった人だって、それを読み解く力を鍛えていけば、ある程度成果は見込めると思う。

 

自分一人でこうして勉強していくなかで、他人と比べる必要もないから、自分のペースで研究が出来る。

 

春の終わりに、花弁が流れ散る石畳の道に、淑やかな女子たちの語らう声と、麗らかな足音だけが響き、寺の瓦葺きに吊るしてある風譚もならないこんな日和に、私も一人自分の影と一緒に歩いている、

 

という歌だが、解説も含めて情景を思い浮かべて初めてこの詩が詩的に感じることが出来る。

 

それでも、花が散っていくことや、うら若い女子たちの美しさが一時のもので、そこに死生観を感じる、というのは自分の詩を読むセンスがまだまだ発達していない。

 

脳みそのニューロ回路が繋がっていない。ということは、日常的に詩を読む、詩を感じる生活をしなければならない。

 

何を持って詩とするか、自分にとってどんなものが詩に足るか。

 

そういう生き方は人生に良いレイヤーを重ねることが出来ると思うので、積極的にやっていきたい。

 

それでも、好い詩人というものを知らなすぎるから、どこから手をつけていいものかわからない。

 

現代で、詩を書いていて有名になった人も聞かないし、そもそも詩界隈というものが存在するのかも知らない。

 

詩というものはどうやって作られ、どうやって発表されるのか調べてみる必要がある。

 

俳句や短歌よりもさらにマイナーだが、詩というものが分かったら、創作をする上ではかなりのアドバンテージを貰えるという期待もある。いいきっかけを貰った。

 

覚えるのは難解でも手に入れたら、百万力の力を得ることが出来るだろう。

 

自分にそれだけ詩を感じられる感性があるかが問題だが。正直の詩を読んだ時には何も感じなかった。

 

さっさと解説を読んでしまったのがいけなかったのかもしれない。

 

噛みしめて、自分の中で何かが開けるのを待ち、それを繰り返すことで感性は目覚めると思う。

 

詩は言葉の持つ、ロゴスとしての本質を見極めている者だからこそ、使いこなせる術だと思う。

 

それだったら今までずっと考えてきたことなので、詩的なシチュエーションを血眼になって探すだけだ。

 

もう一息、この程度だったら自分でも書けるという驕りがあるといいんだが。

 

手の届かないと思わされるより、自分の方が上手く出来ると思った時に人は作品が作れる。作品を作るというのは遥か高みに追いつこうとするような美しいものではなく、

 

人の欠点を上げ連ねて、どうだ自分の方がマシなものが作れただろうと驕るものだ。

 

その点からするとこの、甃のうへは手の届かないところにいる。楽しみがまた一つ増えた。