柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

一つのメルヘン 中原中也

秋の夜は、はるか彼方に、

小石ばかりの、河原があつて、

それに陽は、さらさらと

さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで珪石か何かのやうで、

非常な個体の粉末のやうで、

さればこそ、さらさらと

かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

淡い、それでゐてくっきりとした

影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもゐなかった川床に、水は

さらさらとさらさらと流れてゐるのでありました……

 

まとめ

前回の甃のうへに比べて、小学生でも感じ入ることの出来る中原中也の詩にびっくりした。

 

文豪の一人として、もっと難解な詩を書く人だと思っていた。それにメルヘンな感性を持っていることにも驚いた。

 

残念ながら僕の中原中也のイメージは悪くて背伸びしていてかっこつけている文豪ストレイドッグス中原中也のイメージなのだが、

 

この詩はその中也のイメージとは全く真逆であり、だが、だからこそ中原中也の一面としてあってもおかしくはない、こういう感性を持っているから、中也が少し可愛げのあるキャラとして書いてあるのかもしれないと思わせられる。

 

二次創作としての文豪ストレイドッグスの中也が忠実に中原中也のイメージに沿っているわけではないが、いろいろと想像をするのが楽しくなる。

 

肝心の詩の部分だが、わかりやすさと同時に、(陽が月の光だったら非日常だが)日常の詩を感じる情景に、心を落として描写しているのが、

 

小説にも近い気がして、それに「汚れちまった悲しみに」なんて、中二臭いことを言っている中也のイメージが感じられない。ということは、結構痛い奴なのかもしれない。

 

詩は自分の内面を曝け出す、恥ずかしい行為だ。それがどれほど高尚であっても、恥部を曝すことには変わりない。

 

甃のうへだって、少女性に美しさを感じているということは、少女趣味も垣間見えるし、自分のフェチシズムと向き合うことも重要視されると思う。

 

今まで詩というのは宮沢賢治の詩集と、詩集とは違うけどサンテグジュペリの夜間飛行くらいしかないのだが、宮沢賢治の詩は、寂しさと悲しさが儚げで美しい。

 

人間というものの純粋性を濁りなく偽りなく不純物なく書いている。作者の性根も垣間見えて、非常に洗練されている。

 

物書きをする上で、詩というものは、自分のもっとも純粋な部分をさらに洗練させていく行為なのかもしれない。

 

宮沢賢治に憧れて、僕も詩を書いたりするが、こんな僕でも、この詩は僕にしか書けないと思う。

 

ポエムというと少し下げた言い方になるが、ポエムと詩とでは明らかにニュアンスが違うと思う。

 

ポエムというと少しポワポワした印象になってしまうし、テレビでもポエマーというと、不思議ちゃんを指す言葉として、少しバカにしたニュアンスが含まれる。

 

詩人と現代でいったとして、詩というものが昔は確立されていたのだろうけど、俳句の夏井先生のように、全てを技術と表現力で説明できてしまうような、文化は今はない。

 

詩というものは、現代では随分マイナーなものだし、詩人だからといって食える時代でもない。何をもって良い詩なのか、

 

どの部分に光るものがあって、それが誰でも出来るものでない、才能を感じるものなのか、そのあたりが研究は去れているのだろうが、一般的はなっていない。

 

一般人が日々暮らすことに追われ、詩から離れてしまった経緯が、詩をマイナーなものにしてしまった背景があると思う。

 

俳句や短歌もそうだが、昔の人がやっていたように、一部の才能のある人だけじゃなく、普通の人が、最初は恥ずかしいだろうが、もっと詩を身近なものと捉えて、自分を表現して言ったら、美しい日本というものが再建できると思う。

 

そうなった時、詩の神秘性は失われてしまうかも知れないし、それは詩にとって死を意味するのかもしれない。

 

しかし、出来なかったことを出来るようにするのが人間だし、それは世俗に埋もれてしまっていても、必ず陽を当てる人が出てくる。

 

今はYouTubeで有名声優が朗読なども行っているし、不均等な時間の方で議題に挙がった、近代の時間世界で生きる現代人の忘れ去っていたものが、取り返すことが出来るなら、もっと人は詩を感じられるようになると思う。

 

詩人たちが何故詩を書けるかというのは、それだけ詩を感じる場面に遭遇して、想像力を掻き立ててきたからだと思う。

 

現代で生きる人は、仕事に追われるばかりで、人が持つ余裕の部分が欠けてしまっている。

 

金があっても心に余裕がなければ詩は書けない。

 

中原中也のように、蝶と小川を見ても、「なんだ蝶か」もしくはパッと見てなにも思わず視線を外すしかないだろう。

 

インスタ映えする景色を探すのが、主流になってしまった現代に、ほんの少し詩のエッセンスが入れば、詩は新しいものになると思う。

 

それよりかは古き良き詩を勉強して、その詩人たちが見ていた世界をみる。しかし、その世界も、人間たちがかき回し、改良していく中で、失われていった物は多いだろう。

 

美しい日本を取り戻すには、まずもってしっかりと勉強すること。それに人の手が加わったものを美しいと思わせるのはなんだか滑稽だ。

 

そういう意味で詩が絶滅してしまうのも近いかもしれない。詩は歌詞となって、広く世に広まったが、その中で詩を感じられるものは非常に少ない。

 

歌詞は自分という存在を分かってもらうツールになっていしまっている。それは雅なものではない。

 

美しい日本というのはそういう失われつつある文化、雅、侘び寂びの世界だ。

 

それを職人の技術が継承されないということとか、日本の原風景だと持ち上げるのは何か違うと思う。

 

この中原中也の一つのメルヘンのように、幻想世界は誰の目にも存在する。

 

凄いもの圧倒されるものを探すもの刺激があって良いが、本当に美しいものを探す、曇りなき眼があると人生は洗練されていくと思う。

 

豊かになだけが、日本の生き方ではない。金があったらみんな同じ生き方しかしないが、自分の時間を工夫できるならその多様性は無限に広がる。

 

そのことをまず自分が実践できるように、詩を感じていきたいと思う。