柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

マスクから考えたこと

就労移行施設の利用が再開になり、6月から通常通りの通所が始まる上で、一番の懸念が、マスク問題だ。

 

これまで外出自粛が呼びかけられ、特に外に出かける理由がなくなったので、あまりコロナの感染に気を配っていなかったが、

 

社会的にも自粛が明けるムードになっているので、それまで思っていた社会の在り方が変わるんじゃないかという期待も、望み薄になってしまった。

 

外出を少しずつ再開していく中で、マスクをしていない人を良く見るようになった。

 

エチケットの面で他の国よりも神経質になっている日本であっても、全体にマスクの供給が間に合っていない現状で、全員が全員マスクを着用して、外に出かけなければならないと思えずにいると考える。

 

国民一人一人に十分なマスクの供給が間に合っていたとしても、一部のこだわりの強い分からず屋は、自分のポリシーを守って、社会の流れに逆らおうとする。

 

僕は人よりこだわりが強いのは、父の遺伝があるせいだと思うが、母の職場に来る客の話を聞くと、50~60代の男性の客の、厄介さ加減が酷く目に余るそうだ。

 

人間の脳は成長期をすぎてからはどんどん萎縮していき、60代では幼稚園生と変わらない大きさになるとどこかで聞いたことがあるが、

 

自分の父や母の職場に来る客の話を聞くと、年を取った壮年は、バリバリ働いていた時に、自分の部下や後輩を指導し、仕事をすることである程度メンツを保っていたが、

 

仕事をリタイヤし、家庭に入ることで、仕事で必要だった能率だとか要領だとかが、家庭内ヒエラルキーによって通用しなくなって、

 

奥さんの尻に敷かれて、メンツが保てず、どんどん性格が頑固になっているんだろうと思う。

 

自分の自尊心を保つために、自分だけのやり方を通そうとする。

 

実に愚かな存在だが、同じくこだわりを持つことで、人より個性を出そうとする僕のような人にとって、その問題は軽視できない。

 

社会的な自分の立場を考えた時に、これはやってはいけない、ここまではしないでおこう、という理性という名のブレーキが、年を追うごとに、もしくは状況に切迫された時、タガが外れてしまう恐れがある。

 

それは理性的に論理の正解を常に求めている習慣がある人は、問題に対して働くブレーキをかける筋肉が発達する。

 

だがそれも、非常に危ういものだと考える。有名人のスキャンダルは今の世でも絶えることはない。

 

ちょっとした不用意な発言で、これまで一時代を築いていた人だって、簡単に失脚するのを僕らは目の当たりにしている。

 

有名人になるには計り知れないほど努力と運が必要だ。それに比べて、信用を失うのはあまりに簡単すぎる。

 

それはメディアによって人々の意識が統合され、誰もが同じことを同じ目線で見るようになったからだと思う。

 

それまで教会が権威を握っていた時代には、一人のスキャンダルで全体が揺らいでしまうようなことは無かったはずだ。

 

ただし、テレビをみんなが見ていた時代というのも終わりつつある。

 

家ではいまだに食事中にはテレビをつける習慣があるし、両親は情報のほとんどをテレビから仕入れている。

 

そんな中で、僕のような世代の若者は、ネットと併用して情報を得たり、またネットからだけ情報を取り入れる人も増えてきている。

 

パソコンの普及は歯止めがかかったが、スマホの普及はもはやどんなに貧困でも、国民一人に一台、手に取るような時代になっている。

 

そういうところで、マスクをしない人達は絶滅危惧種となってきている。

 

自粛警察やマスクをしない人を迫害する、それが出来る社会になってしまったのは、大衆が大いなる力を手に入れたとも言える。

 

政治や警察の権威よりも、市民が結託した時の恐ろしさたるや、しかもその責任を取ろうとはせず、サンクションの関係で、一人を祭り上げて、生贄を支払う。

 

それは悪を断罪することにも対抗して正義があるのではなく、正義っぽい人を何人かで祭り上げて、諸悪(っぽく感じる)に正義を執行して、周りではそれを見てほくそ笑むという、何という邪悪な横行が蔓延っているんだろうと思う。

 

市民が警察の権力を持ってしまった後には何が来るのだろうか。

 

それまで上流階級の特権だったものが、一市民にまで執行できるようになったら。

 

それは僕らが子供だった時に思い描いていたのとは違う、社会の”変質”だと思う。

 

誰か指導者が一人いて、その人が暴力をふるう独裁も恐いが、大衆が力を持ち、その責任も取らないような気持ちの悪い社会の変質の仕方が、人間というものは本当に度し難い生き物なんだなと思わせる。