柳 真佐域ブログ

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科学と人間の不協和音 ~「文化」としての科学~ 池内了

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あーーーー後半説教臭かったわーーー!!

 

この爺さんどんだけキレてるのを高校生に曝すんだって感じで辟易した。

 

要点をまとめると、科学と技術とは本来別々の役割を担っており、科学は文化(宗教・学問・芸術)の発展のために広く世の人のために使われていた。

 

その方が世の中の人を幸せにしてきた実例(ピカソ、ベートーベン、ロダンなど)もあるし、昔の人は偉大だったなぁ。

 

相対性理論とか量子力学とかプレートテクトニクスとかの論を打ち建てた人たちは凄い!

 

僕たちはこういう素晴らしい科学の為に人間の文化を発展させるために、大学にお金を払っているのを了承しているよね? 

 

学問の発展なんて何のためにもならないことでも、調べて研究してくれたお陰で、人類の謎をまた一つ研究者たちは解き明かしてくれるんだ!

 

でも最近、科学が技術的に合理化していく中で許せないことがある。

 

科学者は、企業の犬に成り下がり、崇高だった科学の存在を貶めている。

 

医学者と製薬メーカーの癒着激しいし、科学者は無責任な論を展開する癖に責任は取ろうとしない。原発の事故が起きたときだって「想定外だった」だと!

 

そもそも原発を作る前に津波地震が来たら壊れることを市民に周知させそれでも作るか決断させなければならなかったんだ!

 

科学がどんどん技術の方向にだけ発展していくのに僕は危惧している。君たちはそうならないように僕の言葉を心に留めておくように!

 

という内容だった。いやぁわかってるんですよ。改めて言われれば、そりゃそうだよねと言う案件だけど、それを言ったら社会が成り立たないでしょという僕の中の汚い大人の部分がため息をつく。

 

正しいことが真正面を切ってできる社会ってのは、危険な気がする。

 

それは今まで出来ていないから、もしそうなったらの話しかできないが、正しい意見と言うのは完全に正しいのであって、そこに遊びがない。僕も理想はあっても正しさで相手を縛るようなことはしたくない。

 

この筆者も、かなり怒っているみたいだったし、この怒りのままに自分の論を世に出してやろうという意気込みは凄いと思うけど、これじゃぁ敵を作るばかりで、これを聞いた高校生たちはもっと上手いやり方を探そうとするだろう。

 

強すぎる正義と言うのは、他人からしたら迷惑以外の何物でもない。

 

何を正義漢ぶって偉そうにと、刺激しなくてもいい層に針の先が触れてしまう。

 

良い説教かとも思ったが、悪い説教の見本だな。自分の知識をひけらかしている感じもしてあまり印象を抱かなかった。

 

言ってることは正しくても、あんたの言うことは訊きたくないんだと言われる人の典型だろう。

 

知識の面で発見もあったけど、読み進める度、煙たさが増した。

 

こんだけ公然に噛みついている人なんだから、味方は少ないか、自分を守れるだけは確保しているかのどっちかだろうな。

 

相手を敵とみなすより、どうしたらその人の考え方に新しい考えをぶつけられるかを考える方が、得策だと思おう。

 

真っ向から否定しても、相手も気持ちよく思わないだろう。僕も敵を作るのが多い方だが、こうやって自分と同じタイプの人が喚いているのを見ると、酷く滑稽に見える。

 

実際こういうブログを書いているなら、僕も敵を作っているわけだが、今は若さをバックボーンに、出来るだけ刺激的なものを書いてやろうと思っているので、こういう書き方になってしまう。それは愚かなことだ。

 

もっと上手いやり方を見つけなければならない。

 

それでも、公的に力のある人が、こういう愚かなことをしていると、正面切って指摘したくなってしまう。

 

あんた馬鹿なんですか?と言っているようなもんだけど、僕はそんなもの僕程度のゴロツキが言っても何の影響もない強い人に向けて噛みついている。

 

つまり、今更科学的に素晴らしい絵画を描いても、学問が発展しようが、なんのためになるんだ?と言いたい。

 

絵というのはそもそも万人が認める美しさではないところもあるし、学問の研究だって、新しいことを見つけてくれればそりゃぁ勉強のし甲斐だってあるけど、

 

今まで積もり積もってきた不勉強だった分野のツケをまず清算するところから勉強は始まるし、学ぶことはもう出来る人がするという特権になっている。

 

みんながみんな文化の発展を望んでいるわけではない。でももと便利に、もっと生きやすくしてくれる科学の技術化は、心の豊かさは与えてくれないと言いたいんだろう。

 

心の豊かさなんかよりも生活レベルを上げていくことばかり考えてきたのが現代人だ。

 

その中で、学問を研究する大学や研究所に市民の血税が分配されていることに憤りを感じるのは、心の貧しい考えなのかもしれない。

 

でも、本当に必要なものだけ選んでくのも良いんじゃないだろうか。

 

これだけ学びたいと思っていない人のために学校があることや、働きたくない人のために会社、ブラック企業があることは、本当に人類にとって必要なことなのだろうか。

 

筆者は新しい理論が生まれてこないと嘆いているが、それだってこれまで出てきた理論を完成させるためには時間がかかるし、実証するのに金もかかる。

 

それでもそれを完成させる必要ってどこにあるんだろう。人間人生の中で自分の及ぶ範囲というものは大人になっていくにつれ分かってくる。

 

新しい理論、新しい考え方を研究して、それを市民に降ろした人もたくさんいると思うが、人が生きるというのは自分の及ぶ範囲と及ぼされる範囲をどれだけ広く持つかにもよると思う。

 

でもなぁ、大学の研究費に税金が使われているのは納得が出来ない。

 

すでに出来ているシステムに同意していますよね?って言われても、いや、そんな覚えねぇけどなと返したくなる。

 

だったらどうするのか。大学の数を減らすことがまず浮かぶ。それに大学に直に行って通うというのは大学で友達を作るためであって、勉強するためではない。

 

もちろん勉強は同じ勉強をしたいと志す者同士集まってした方が、色々な考えが聞けていいかもしれない。でも必要最低限の人数でなければだらけてしまい、勉強以外の娯楽に堕ちてしまう。

 

大学はみんな通信制にした方がいいと思うぞ。つまんない講師でも高い給料もらっているのが問題なんだ、知らんけど。

 

ちょっと古いけど東進ハイスクールみたいなカリスマ講師だけが物を教える社会で良いと思うぞ。面白くない話を聞いても忘れてしまうし。

 

確かにプラスに出来る人が残る本当の実力社会。人間としての価値が問われてくる。

 

そんな中で僕は何をしていったらいいのだろうか。