柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

若山牧水  

 

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 

一匹の白鳥が青い空と青い海の中を青色にも染まることなく白く漂っている、あの鳥は悲しくないのだろうか、という詩だと思ったが、色々と解釈があるらしい。

 

まず「白鳥」は「ハクチョウ」と読むのではなく「シラトリ」と読むそうなので、これは海辺を飛ぶカモメという線も出てくる。

 

かなしからずやは、反語ととれば、悲しいのだろうか、いや悲しくないはずがないととれるし、疑問ととれば悲しいのだろうかとともとれる。

 

読み手の心うちに任せて、どっちともとれる詩というのは、なかなかに難解だ。

 

作者が明言してくれれば、それで納まりがつくのだろうが、そうはさせないのが歌人のテクニックだろうな。

 

それから、この白鳥が海の上に漂っているか、それとも空を漂っているかも、どっちともとれるらしい。なんとも答えのない煙に巻かれた感じがモヤモヤする。

 

白鳥がハクチョウだとしたら、美しいハクチョウが空や海の青さにも負けず白く飛翔しているという風に僕は捉えるが、白鳥もまた、女性を比喩するものらしく、

 

それが分かると、自分の思いなど届かない気高い女性が、大自然の悠々たる様にも負けず、一見悲しそうに見えるほど美しく世の中を渡航しているという風にも見えてくる。

 

恋心を詩にのせるのはロマンチックで良い。ただ未練がましくもなったりするから、それを匂わせないように細心の注意を払わねば、作品として残ってしまったら後世まで自分の恥部を曝すことになる。

 

だからこそ美しいのかもしれないし、自分が死んだあとにも自分の当てた恋文の意味を子供たちが考え続けているというのは、なんだかエロい。

 

大した羞恥プレイだし、自分を隅々まで分解して解釈を求められるというのは、どういう感覚なんだろうか。印象としては綺麗な風景の詩だったが、隠れた思いみたいのもあると知ると、違った見方が出来て面白い。

 

 

幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

 

 

〔これから先一体幾つの山や河を越えて旅すれば、寂しさのない国にたどり着くことが出来るだろうか。そんなことを思いながら今日も旅をする。〕

 

自分に酔ってる感じがするなぁ。もっと目の前のことに集中した方が良いんじゃないか?

 

若山牧水は旅人であったことでも有名らしいが、旅人を拗らせているような、確かに旅をしていないと思いつかない情景だが、旅することに心酔しているような印象を受ける。

 

昔は旅をしながら小説を書いたり歌を作ったりする人がいたが、今の世ではそういう人はいるのだろうか。

 

一所に留まらず、創作の欲求に任せて、流れる根無し草の人生も憧れる。

 

牧水は旅をしているから寂しかったのではないだろうか、と安直に思ってしまうのだが、自分の帰る場所があれば、寂しさのない国を探すこともないだろうにと思ってしまうが、どうだろう。

 

旅をするから寂しさを感じる、だから寂しさを感じないところへ旅するというのは矛盾している。

 

もし寂しさを感じない場所が見つかったら、この人は旅をやめてしまうのだろうか。旅人だったら積極的に寂しさを求めに行っている気がするが、

 

僕も一人旅をした時は、とても寂しく、宿で一泊するのにも凄く心細く、今では行きつけになっている「名水コーヒー響」の女将さんに貰った吹かし芋の温もりに励まされ、一夜を明かすことが出来た。

 

ああいう寂しさは確かに癖になる。機会があったらまた一人旅をしてみたいと思う原動力になっているし、あの心細さが一人旅の醍醐味なんだと思う。

 

無駄なものが一切なく、自分の身体一つで当てもなく旅をするあの感じは確かに孤独な自分に酔ってしまうかも知れない。

 

 

海鳥の風にさからふ一ならび一羽くづれてみなくづれたり

 

 

あー、魔女宅の奴か。

 

ヤスパースの自然の動物たちは全体のことを考えて生きていて、人間は全体を考えて生きているわけではない、

 

むしろ個の幸せのために何が出来るかを考える生き物なんだというのが思い浮かんでくる。動物は偉い。

 

本能で生きているとはいえ、群れのことを第一に考えられるのは、真似が出来ない。

 

自分一人の安息を得るために、他人を蹴落とす人間とは大違いだ。

 

でも、動物は群れからはぐれてしまったり、お荷物になったりする個体を斬り捨てることもある。

 

そういうとき、テレビの映し方は、そんなお荷物の個体を健気に支えようとする仲間を映すが、あれは動物にも人間性があるんだということを映したいエゴがあって、そういうのを見て、どうぞ感動してくださいと差し向けるのはいかがなものか。

 

だからといって、そういう番組がなくなってしまえばいいのかと言われれば、もったいない気もする。

 

そういうちょっとした癒しのお陰で、ストレスが少しでも和らぐなら人間には必要な娯楽だ。動物が人間のために存在しているわけではないが。

 

Twitterなどで、飼っている犬猫の動画を見る時も、なんだがこの犬猫は人間みたいな行動をするぞ、というところにアンテナが反応する。

 

自分の中でも矛盾するところがあるのは、自分が自ら取りに行った情報か、相手からこれは良いものですよと提供されたものとの違いがあるのだと思う。

 

作為的な意図を感じると熱が冷めてしまうのだと思う。そんな中で、旅をしながら大自然の風景を見て作ったであろうこの詩は、良作だと思う。

 

これといって感動はないが、一ならび一羽と、くづれてみなくづれたりと韻を踏んでいる技術も感じれる詩で、淡泊な海鳥の連帯を彩っている。

 

そこにやや作為性を感じるが、作品として見た時、及第点を越えていて、読み物として成立している。

 

プレバトで夏井先生の添削をもう何十回と見ているが、技術が身に着いた気は全くしない。技術を身に着けるには反復が必要だろうし、これが技術なんですよと見せられたものを自分でも作ってみて、初めて技術に触れることが出来ると思う。

 

ただ他人からその技術を説明された時に自分では使えもしないのに、あぁそんなことかと思ってしまうのは何故だろう。