高浜虚子
山国の蝶を荒しと思はずや
ビッグネーム2番目来たな。
山岳地帯のような場所では、蝶という柔らかいものにも荒々しい野性を感じてしまう私は変かな?という句かな。
正岡子規に比べて、視点の誘導等の技術を感じる。
自分の持っている感性は変なものなのだろうか、と言っているふりをして、こういう視点もありますよと言っているような、少し達した言い方。
先生とか流派を持っていそうな、尊敬に値する感じだな。
第一印象としてはそれほど、それほど良くない。達した感じが出ているということが分かってしまった時点で、傲りを感じてしまうからだ。
山国、蝶、荒い、それを思うと来ると、形作った感じが凄く出る。
正岡子規とは逆に、そこが凄いのだが、これは好みの問題で、やはり天然ものの凄さの方に、軍配を持っていきたくなる。
星野高士先生の系譜を辿った先に虚子がいる感じはするな。
俳句に発想を取り入れた最初の人かどうかはわからないが、正岡子規のような呼吸のような自然さから、俳句を作っていこうという前向きな姿勢が見えるし、
その達している感じが、アニメや漫画を描いていた先人たちのような、奥深さと技術の源流を感じる。
山にいる蝶に野性を感じるかと聞かれれば、そこはよくわからないというのが僕の素直な感想だ。
そこまで機微に蝶の違いを感じたことは無かったし、読んだ時新しい視点だなと思った。
ただし、視点は新しくても、感じてしまえばそれはそうかもしれないという納得もある。
野生の意味を凄く問われる句だと思う。本質を問うているようなそんな迫りくるものもある。それも静かに。佇まいが達している。
名人というより達人と言った方が良いんだろうな。
僕の大好きな星野立子の父というだけあって、達しているがそれがわかっただけ、正岡子規の届かなさより、まだ具体性があるかも知れない。
正岡子規が雲の上の存在だとすれば、高浜虚子は高く険しい山の奥にいる感じかな。
登るルートも技術もわからないが、山としての頂上は見えているような。
そんなこと言って、一切近づけないような凄みも感じているんだが。正岡子規と高浜虚子では流派が違う気がする。
去年今年貫く棒の如きもの
破魔矢なのかな?と思ったら別に具体的に何、というわけではないらしい。
去年と今年を貫く棒のようなものがある、と言っているらしいが、棒ってなんだ?と考える句なのか。
去年今年という季語は、夏井先生も扱うのが難しい季語だと言っていたのを覚えている。
容易に使ってはならないような、そんな重みのある言葉。
一年の終わりと始まりを一つの言葉として扱っているくらいだから、人生観が滲み出てくる俳句になるといいのだろうか。
簡単には使いこなせない季語があるというのも俳句の面白い所でもあり、厄介なところだ。
棒の如き信念といっても、所詮は棒だし、と思ってしまうし、棒の如き後悔といったら、なかなか自分から切り離せない厄介さが出るか。
いずれ使ってみたい季語ではあるが、最近スランプ気味なので、今向き合うべき季語ではない気がする。
何か自分をもう一皮むかないと、次のステージに立てない気がするが、そのための正岡子規や高浜虚子たちのような名句を勉強する時期に来ているのかもしれない。
勉強は成果がなくても楽しいが、どうせなら欲を出して結果を伴う勉強がしたい。
アウトプットの仕方は色々あるが、自分にベストな形でそれが出来るように、環境を整えていきたい。
整えていくうちにも時間が経ってしまうし、決心も鈍ってくるものだが、一つ一つ形にしていくことで足跡は残せる。
こうして思いを文字にしていくこともその一環だし、溢れ出るものに名前を付けていく作業は、とても楽しい。
多分それが正解なのだろう。自分の思いに名前を付けていく作業が、自分の座標をここだと教えてくれる。
何か良いものを見つけた気がする。やっぱり良いものに出会うのは、最高だ。自分も高い所にいけたと勘違いできるし、そういう錯覚に侵されて深淵に迷い込むこともある。
続けること、向き合うことが大事なんだろうな。
手毬唄かなしきことをうつくしく
ほぉ!これは良いな!簡単そうに書いてあるものの方が、作るのは難しい気がする。
でも作っている感じはしてしまうので、子規のような自然にスッと入ってくる句ではないかな。
探してみたけど、手毬唄が悲しいことを唄っていたという記述はなかった。
その辺が作られたものの感じを出している気もするし、そうでなくて、手毬唄が悲しいことを唄っているものだったとしても、そこに人為、作為性を感じてしまう。
所詮は人が見たものという人間中心の考え方が、少し残念ではある。
その辺が、登れそうな気にさせる隙だと思う。写生句が最も素晴らしいわけではないが、第一印象もかみ砕いてみたとしても、そこに子規以上の凄みは感じない。
好き好みの問題だと言われればそれまでだし、技術的にすごいものではない、それよりも超越した何かを感じる子規の句を語る舌を僕は持たない。
高浜虚子の句の方が、ここが素晴らしいんだと言えるだけあって、評価はされやすいと思う。
ギリシャ神話で、水や大地を神として信仰していたのが、時代を経て、愛とか勇気を神として信仰したのとよく似ている。
僕はその時、源流に近いものほど高い信仰に値するものだと思ってしまう。
時代が進むにつれて、事物は複雑化していくと思うが、学問はいつだって根源を見据えて探求するものだ。
僕のような俳句初心者は歴史を学ぶことから始めた方が良いと思うし、ただ、歴史を学ぶにしても誰から始まったものなのかから知らなければならないので、
そこを始から順序良く出会うことも難しい中で、自分に合ったもの、それと自分と出会った順序で判断していくのは、最も正しい勉強の仕方すら難しいということだ。
今の現代っ子が歴史を学ぶ難しさを嘆くのはこの辺りがポイントだと思う。
それに加え、学ばなければならないことの以前に、自分がその学問を学べる、学べたと思うことが前提になければ、学問は身に着かない。
結局自分に合ったものをチョイスしていく形で、不完全な学びをすることになるのだろう。偉人たちの粗が見えてしまったら、素直に圧倒されないしね。
圧倒されるのが学びというのかとすれば、粗が見えたものの方が、自分なりの突っ込みどころも見つかって、印象に残りやすいかもしれないが。
ただ言えるのは、川端康成が表現したかったことを、虚子はたった17音で表現してしまったということだ。
俳句が究極の無駄をそぎ落とした表現方法だということがよくわかる。
世の中には自分が一生かけても一ミリも追いつけないほど先に行っている人が、何人もいる。そこに一生をかければ追いつけるんじゃないかというほどの人も何人もいる。
ただ、それだけが出来る人間でないことも自分で分かっているし、自惚れが過ぎる問題だが、
そうやって自尊心を保っていくことで、自分という人間が何とかこの世界の地面に足を着けていられるのだと思う。
本気にさせるほど酔わせてくれるものがないかと言うのは贅沢な話なんだろう。
やることが増え過ぎた現代で、名前を残せるのは、有名人だけだ。地道に時間を費やしてもそれが評価に結びつくかわからないと考えると自分のやっていることに集中なんかできなくなる。
誰に制約されているわけでもないし、自分に限りない自由があるわけでもない。
その中で、自分に出来ることを積み重ねて、運が良ければ評価を得られることがあるかも知れない。
そのあるかも知れないという可能性に向かって真っすぐ進むには、自分のメンタルは脆く弱いものだと思ってしまう。