柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

中村草田男

冬の水一枝の影も欺かず

 

 

冬の澄み切った鏡のような水(溜まり)に木の枝が少しも偽ることもせずありのまま写っているという句か。

 

冬と言うとつい雪景色なんかが浮かんでしまうが、水に着眼点を落としたのは凄く良いな。冬は空気が澄んでいていて、とても好きな季節だ。

 

寒いし乾燥するしで、身体にとっては良くないことばかりだけど、その分身体や熱を感じやすくなって、生命の儚さを感じることが出来る。

 

夏の鬱陶しい熱さに生命の満ち満ちた感じも嫌いではないが、冬の音までが澄んでいて、生命感が失われた世界は、どこかこの世のものとは思えない静寂さがある。

 

引き算の美学なのかもしれない。

 

友達も減ってますます外へ出ることが少なくなってしまったので、特に冬はこれからもっと出不精になるだろう。

 

車を売ってバイクを買ったら、一人旅をしてみたいが、実際そんな余裕はないだろう。

 

吟行の旅に出てみたい気持ちはある。独りでいると感覚が研ぎ澄まされ、風景もいつもより鮮明に見えてくる。

 

日常を離れることは、心にも良い気がする。この句は梅沢さんが村上にいう、身近な半径5メートルの俳句だ。

 

こういう日常のちょっとしたところに感性がいく句にも、やられたと思うのと同時に、そんな澄んだ感性は自分にはないなと落胆する。

 

いつからこんなに濁ってしまったのだろう。まだ中学生の頃にはもっと澄んだ瞳で世界を見ていた気がする。

 

きっと高校生の学校帰りの駅で電車を待っている時に、僕の感性は死んでいったのだろう。

 

なんの特別性もなく、何の意外性もなく、平凡で自分は何処にでもいる人間の一人なんだと思った時に、自分の中の純粋な部分が抜け落ちてしまったのだろう。

 

夏の熱さを冬の寒さに忘れ、冬の寒さを夏の暑さに忘れるそれを、当たり前だと思ってしまったなんてつまらない感性。

 

斜に構えて、自分を喜ばせてくれるものだけを探し、気に入らなければ貶し、友人には裏切られ、孤独に耐え、暗黒に染まった青春に、すっかり美しいものは消えてしまった。

 

せめて共学だったら、クラスの女子にドギマギできる青春もあったかもしれないが、せっかくできた彼女にも勝手に裏切られたと思って離れてしまった。

 

今やテレビは一家に人数分(もしくはモニターが)あり、スマホも一人一台あって、果てしない世界と簡単に繋がれるようになってしまって、世界の神秘性はインスタジェニックになるかどうかという安っぽい格に成り下がってしまった。

 

もっと世界というのは謎めいていて果てしなく、それでいて豊かなものだと思っていたが、実際は理不尽であって冷たく、何枚ものレイヤーの奥にあって、時たま美しく見える時がある。

 

いや、美しく見ている人がいるのが正しいか。視力がどんどん悪くなっていくように、知れば知るほど、自分の世界は醜いもので、嫌いになっていく。

 

自分に出来ることなんて大人物に比べたら、何一つないに等しい。それでも人生は続いていくから、僕は自分に出来ることだけをしていくしかない。

 

そのなかでどれだけ自分を騙せるかと考えてしまうのは、やはり瞳が濁っている証拠なんだ。

 

 

万緑の中や吾子の歯生え初むる

 

 

万緑万能説キターか。万緑とか新緑という大自然のキーワードを使えば大概スケールの大きさが出る法則。

 

その中でも、万緑と比較して、我が子の生え始める乳歯に焦点を当てるのは、法則をよく理解して、上手い対比が出来ているように思う。

 

青々とした木々の木漏れ日の中を、幼児になった我が子と一緒に歩くか抱きかかえているかという時期に、生え始まった乳歯に我が子の成長を感じるという、なんとも朗らかに癒される句だ。

 

僕はまだ親になった経験はなく、これからそれが望めるかどうかも望み薄だが、一生に一度は自分の子供を自分で育ててみたいと思っている。

 

もしそれが叶うなら、今の社会のシステムの中では、きっと育てることは出来ないし、貧困の中に生まれて、その子が生まれてこなきゃよかったと思ってしまうことがあるかも知れないと思うと、無責任に子供は作れない。

 

晩婚化、生涯未婚率が上がっている昨今で、子供を産み育てることは、とてもセンシティブでリスクを伴う大仕事だ。

 

自分や妻となる人に、そんな多大な責任を負わせること、それを支えてくれる家族の保証がない限り、おっかなくて前向きには考えられない。

 

そういうことも考えずに、いや、考えていたのだろうかと疑問がまず来るが、昔の人は子供を産むことに躊躇がないように思う。

 

僕の親の世代でも、三人子供を作っている家庭も多く、一人っ子だった家庭の方が圧倒的に少なかった。

 

それがこの20年くらいで、価値観が激変してしまって、子供を作るというのは特別に人生の進むレールがあったとして、そこを順調に行っている者にしか許されない行為になってしまった。

 

この句のようなあたたかな光景は、誰もが望みこそすれ、容易くは叶わないものになってしまった。自然の中で子供をすくすくと育てることも難しい。

 

レールから逸れてしまった者には、自愛を育むしかないのだろうか。

 

弱ってしまった自分のような人でも、人並みの幸せを感じたいと思っても、その人並のハードルが高すぎて、目指す気力さえ湧かない。

 

昔は家族全員で幸せを共有していたが、今は自分だけがまず幸せでいなければ、意味がない、他人を幸せにする余裕もないと、考えてしまう。

 

 

玫瑰(はまなす)や今も沖には未来あり

 

浜茄子と沖(海)にある未来の取り合わせの句だが、浜茄子やで一度場面を切って強調する訳がよくわからない。

 

沖(浜辺)に咲く浜茄子が未来ある沖との着かず離れずの関係が良いのかもしれないが、取り合わせの句はセンスが問われる感性の句なので、第一印象で良い!と思うか、そうか?と思うかで自分の中の評価が固定されてしまう。

 

この第一印象は根が深く、疑問を持ってしまった時は説明されても疑念が拭えないことが多い。

 

今も沖には未来ありのフレーズにこの句の良さに比重があり、それに沿ったもの、もしくは対比するものを取り合わせることで、全体のアシンメトリーな感じが出て良く感じるのだろうか。

 

この類の句は、夏井先生の解説を聞いても、納得を得ることは少ない。

 

これは対比になってしまうが、フジモンの「恐竜のほろびた理由ソーダ水」の句も、二つの意外な取り合わせから成る句である。

 

浜茄子と沖とはもっと近いものではあるが、沖の未来と浜茄子とでは、海に近いと言うだけで、よく共通項が見出せない。浜茄子に沖の未来を感じるというのは、本当に個人の感覚によったものだ。

 

それと補足すると、今も沖には未来あり、とする展望の明るさは、現代では少し感じにくいものかもしれない。

 

沖の未来が明るいということは、海産物が豊富に取れたり、エネルギー資源に期待があるというような、現実にある私たちの問題に直下する事柄であるという、

 

酷く現実的な言ってしまえば夢を感じない、俳句を作る上ではとても重大な要素の欠落である。

 

世界の神秘性、謎は冒険のなくなった現代では、誰もが数値と情報でこの世界を分析できてしまって、そこにロマンは生まれない。

 

それが現代人の面白いものを何でも手近で探してしまう、自分の中の世界を狭めている原因だと思う。

 

インターネットのお陰で、なんでも簡単に比較できてしまう。

 

勇気を出してやってみた一人旅や、海外旅行も、プライスレスはなはずなのに、後になってこう回った方が効率が良かっただの、

 

ツアーで回れるところには制限があるだの、天候に恵まれず最良の瞬間をとらえることが出来なかっただのと、旅に出てからも最高の満足を得られなかったことに、私たちは怯えてしまっている。

 

それは旅に出る前からも付きまとうものであり、旅自体に集中できず、効率を気にしてしまっているのは、旅の本質から離れてしまう。

 

それでも旅を数多くしてきた僕にとって、旅で得られるものは自分の中でとても大切な体験だということが出来る。

 

それは仲間との楽しさの共有だったし、初めての冒険だったりもした。

 

世界は狭まってしまったと言っても、実際旅をしてみると、知らないことは多いし、自分の人生を全部使っても味わいつくせないほど、未知なものはある。

 

それに名前がついてしまっているという残念さはあるが、これからの人達に何が価値あるものなのかと聞かれれば、それは自分だけが体験したものだろうということが分かる。

 

自分のようなどこにでもいるような人の一人でも、自分の親から生まれ、どうやって育てられ、何を見て何を聞いて何を学び、どういう選択をして、何に裏切られてきたのか。

 

そういう物の積み重ねで、自分というオリジナルが存在する。

 

そこにバリューはないのかもしれないが、それは自分だけが決めて、決断をどうするかも決まることが出来る。

 

何も生みだすことの出来なかったつまらない人間かも知れない。

 

それでも自分の周りの人に居ても良いんだと思わせることが出来れば、存在意義はあるのだと思う。