加藤楸邨
鰯雲人に告ぐべきことならず
一見して、鰯雲があんまり綺麗だったから人に伝えたいけど伝えるほどのものではないかという句かと思った(笑)
正しくは人に告げることではないこと、悲しみや切なさや悔しさを胸にグッとしまって顔を上げて鰯雲を見上げているという句らしい。
俳句を詠む力「詠力(なんて言葉はないが)」が少ないとこういう誤解も生まれてくる。詠力がないと玄人向けの俳句は読み解くことが出来ないものが多い。
プレバトで言うと梅沢さんの句によくそういうものが出てくるが、梅沢さんよりもさらに夏井先生の句の方が分かりづらい。
そういう分かりづらさが俳句の敷居を上げている。難解なものはそれだけで技術が集結しているという考え方があると思うが、誰にも分らない句を作って、それはただの自己満足になってしまうんじゃないかとも思ってしまう。
僕の一番好きな星野立子の句、「桃食うて煙草を吸うて一人旅」という句があるが、これも素人目にしては良さがよくわからないらしい。
僕としては、桃を食べながら一人旅をしているその情景に、寂びを感じるし、そこに煙草を取り合わせるセンス、それも女性が作った句、
さらにそれが5・7・5の調べに完璧に乗っているのが、大好きなのだが、ここまで説明してもわからない人にはやはり良さがわからないらしい。
鰯雲の季語の俳句を調べると、検索ワードの上位に東国原英夫さんの、「鰯雲仰臥の子規の無重力」という句が上がってくる。
これはプレバトの俳句甲子園優勝校と俳句バトルをした際に、東国原さんが作った句だ。正直、加藤楸邨の句を越えている気がしてならない。
子規の死期間際の病床の情景を詠んだ句だが、子規の床ずれから背中から膿が出ていながらも、仰向けで寝るその上を、鰯雲が漂っている。
その光景を何にも縛られることなく、その様がまるで重力からも解き放たれているように、自由に子規が俳句を作っているという句だ。
やっぱり東国原さんのキマっている時の俳句は、キレが違う。「花震ふ富士山火山性微動」の時のようなしっかりと背景のある俳句を詠んだ時、永世名人である梅沢富雄さんよりも凄みのある、というか凄い句を作る。
正直梅沢さんの句集は欲しくないが、東国原さんの句集だったら欲しい。それほどに発想だけでない、しっかりと根の張った良い俳句を作る。
これが名人だと思わせる、確とある技術とテーマ性、挑戦する勇気、歴史背景がある。
梅沢さんとの差は先に始めたか後に始めたかの差しかないし、出演回数が多ければ、立場は逆転しているだろう。
まぁ、いくらボツを食らっても、出演し続ける梅沢さんのハートも強いが。(ただハートが強いというより数打ちゃ当たるで確率を上げている気がするが)
良い俳句、良いものには必ずその理由がある。その良さを自分のうちから生み出すのは、常に挑戦を止めない人からだ。
そこと向き合うのはなかなかに難儀なもので、僕はよく見失ってしまう。ある種、時の運のようなものでもあるが、向き合っていく回数が多い方が、
確率は上がると思うので、やっぱりなるようになると運任せにしているより、足掻いている方がチャンスを掴みやすいと思う。
出来る時は何をやっていても出来るし、出来なくなるとどんなに足掻いても何も出てこない。
それでも最後には勉強量が物を言うと思う。何を見て何を感じそこから何が生まれてくるのか。
そういう無限にある選択肢から自分だけが選んだものが自分の個性を作っていく。
それだけがオリジナルで、唯一価値のあるものだ。善い人間も悪い人間もいながら、その人が積み重ねた学びから、生まれてくるものがあるからこの世界はいつまで経っても多彩なだ。
隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな
四方を荒波が怒涛のように押し寄せる隠岐島の木の芽が芽吹く春を詠った句だ。
木の芽の朗らかさと怒涛のように打ちつける荒波の対比の句で、更に「や」と「かな」の二つの切れ字を用いたテクニカルな句でもある。
俳句を読む時は、有名な句であればきちんと意味を検索して読む方が良い。
意味が解らない句を読んでも、それはただの文字の羅列でしかなくなってしまう。現代人の強さはわかりやすいことだと思う。
相手に誤解されることが怖い現代人は、相手に分かりやすく伝える術を磨いてきた。それは層の薄い、味わいに欠ける、情緒のないものかもしれない。
それでも、詠んだ時に自分の伝えたい部分ははっきりとしていて、もし足りない部分があるとすれば、勉強不足で言葉を知らないだけだ。
情緒の面も、知らないことが多い。娯楽や快楽を優先してきたことにより、侘び寂びや粋、情緒なんかを学んでこなかった人が多い。
それは勉強は点数のためであると教えられてきたからだ。点数を取ることのみが最良で、それだけが出来れば人に認められ評価を貰える。
俳句はそういう頭の良さだけでは作れないところがある。もちろん頭の良さがあるから作れる句もある。そこが俳句の度量の深さであり面白さだ。
点数が最優先される勉強をしてきた人にとって、点数を超えたところにある美は、探究し尽くせない広大な世界だ。
僕は勉強を熱心にやってきた方ではないので、圧倒的に語彙が少ないのが欠点だ。
新しい言葉を知ったら、その言葉を使って一句作ってみる修行をしてみるのもいいかもしれない。
一日の中で俳句を作る時間を設けるのも、情緒のある日々が過ごせるかもしれない。
昔の人のように自由に旅は出来ないから、実感のこもった俳句を作るのは難しい。
体験も経験も、オリジナリティを求めてしまっては広く凡庸なもので、薄く霞んでしまう。
まずは何に心が動いたのか、小川で丸くて平らな石を探すように、一つ一つセンスを見極めて、感性を具体化していきたい。
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
う~ん!非常にオシャレな句!最早、詩だが17音の中で季語も取り入れて破調の形にして詩を奏でるのも、俳句のテクニカルな一面だ。
季語は木の葉、季節は冬。花が散って、葉っぱが枯れて、風が吹くたびに木の葉が舞う。情緒的で素晴らしい情景だと思う。
この人は木の葉が舞うのがあんまりにも綺麗だから、急いで全部葉が落ちてしまわぬように、ゆっくりただゆっくり季節が進んでいくのを望んでいるのか。
楸邨は思い込みの強い人らしい。木の葉に対しても、そのように感情移入できることが、何か優しさや心配性なのを感じる。季節が巡っていくことは、人間にはどうしようもない力が働く。
その中で、それでも急ぐなよと言ってしまうのは、何か自分の中で準備が整っていないかのようで、その不完全さが実に人間らしい。
5・7・5の調べではないのが、ただの独り言のようで、そんなことも思わず呟くことが出来るこの人は、季節と共に生きていることが分かる。
年を取って時間のたつ速度が速くなり、季節が巡っていくのもあっという間に思うようになった。
そんな中で、凄い速度で進んでいく時間を、急がないでくれまだ待っていてくれと嘆いてしまうのは、実に情けない。
この句の良さが実感できるのは、まだ先だけど、そうなった時、より時間や季節というものを意識することも出来る。
ただ意識している暇がないから、あっという間に時が過ぎてしまって、気づけばこんなに年を取ってしまったと後悔するのだろう。
俳句はその季節ごとに意識を集中することで、あっという間に過ぎていく時間に、僅かでもくさびが打てるのかもしれない。
自分が過ごしてきた時間に意味を持たせるように、自分の生きた足跡を残すように。
木の葉ふりやまずとして、進んでしまう時は止めようがない。急ぐなよといってもそれは気休めでしかない。
それでもこの句を作ることで、どんどん加速していく時間にくさびを打って、慌てるな、こういう立ち回りの仕方もあるんだと気づけたことは、人生を上手く生きるテクニックとして学んでおきたいものだ。
子供の頃とは違って、意識ないと気づくことが出来ず、覚えていくこともままならなくなっていく中で、何かその思いや時間を形にすることは大切なことのように思う。
その時その場所でどんな風なことをしたのかは、自分にしかわからない。
その形はくだらないものかもしれない。教養もなく品位もなく凡庸でありふれて掃いて捨てるほどあるかもしれない。
そうならないようにと言ったら、自分の創作活動は酷く後ろ向きなものに成ってしまうが、少しでもより良い形を目指すにはその方向を向くことに変わりない。
人間は善くなっていくようにしか生きられないと僕は思う。善いことに目を反らして悪びれる人はたくさんいるが、それは善いことの眩しさに目を背けてしまうからだ。
本当はそれが善いことだと分かっていても出来ないのは、自分にやましいものがあって、それを隠したくて無理をしているからだ。
自分にはそんな資格がないという人もいるだろう。でもそこで一つ、善く生きるにはと気づけたとき、この世は自分一人で生きていくものではないことに気づく。
悪い奴は大体自分の愉悦を満たすのに自分勝手になっている。そんな奴は一人になった方がいいと切り捨ててしまうことも出来るが、加速していく世界の中で、一人きりなのは寂しい。
長く生きるなら、時間の進みをゆっくりにする魔法を僕たちは覚えていかなければならない。
それはお茶を呑むことだったり、花を育てることだったりすると思うけど、俳句を作ることもその一環だと思っている。