柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

嫌われる勇気

f:id:neocityproject:20200807134244j:plain

この本を読み終えた時、普段はどんな本を読んだとしても、物にはよるが普通何かしらつらつらと言葉が出てくるものだが、

 

しかし、感想というものが一文字も湧かない。そんな本だった。何故感想が湧かなかったのか。

 

それは単に自己啓発書として読み終えて元気が出るだけの作用がある本であって、何の足しにもならないからなのか、それとも自分にとって深い感動であり、その揺れ動いた感情がどういうものか形容できなくなっているかのどちらかかと思った。

 

多分その答えは前者だけでもなく後者だけでもなく両方なのだろう。

 

『嫌われる勇気』と命題を打った「アドラー心理学」は、個人心理学とも呼ばれる、孤独なものだった。

 

本書の中で問答を繰り返す教える人哲人とそれを学ぶ人青年のやり取りで青年はアドラー心理学というものの考え方を知る。

 

僕の中で消化できていない証拠が、アドラー心理学を学問としてではなく、一つの考え方だと言っているところだ。

 

哲人は先ず、個人個人見ている世界の違いについて話した。世界とは何か。

 

その答えは、あなたの見る世界だ。茫漠と広がる自分には手に負えないものではなく、今自分自身が見ている範囲の世界のみが世界で在り、そうでない他者の世界は他者にとってあるもの。

 

他者の世界への介入は困難を極める。だから世界を変えようとしたら自分の世界を変えるしかない。

 

他人を変えることは他人の世界を変えることになるから。人間は誰しも変わりたいと思っている。

 

過去にトラウマを抱え、自分の目鼻立ちにコンプレックスを持ち、競争しては争い、上下の関係を明確に着け、他者の世界に介入し、自身のライフスタイルに不満を持っている。

 

これらをアドラー心理学は考え方を変えることで、自分と自分を取り巻く世界の見方を変えると言っている。

 

原因論と目的論。原因論的考えは過去にこれこれの事象があったから今の自分があると理由付けする考え方である。

 

僕はこの項を読んだとき、自分が原因論側の人間として生きていることを気づかされた。

 

僕は統合失調症を患っており、睡眠導入剤服用しなければ、眠ることも出来ず、薬の効き目が朝方残ってしまい、起きるのが昼過ぎになっていた。

 

目的論はもちろん医学的効果のあるものではなく、精神の持ちようを訴えている。

 

しかし、目的論。これを(未来に)するためにはこう行動するべき、を考える目的論的考えは、僕の生活を一変させた。

 

朝は薬が残っているから起きられないものではなく、勉強や小説を書く時間を捻出するために、朝早く起きると考えを転換したのだ。

 

もちろんその時の調子で、一時的に良くなっただけかもしれない。

 

しかし、ここ一週間、朝眠気に負けて寝てしまって、昼から起きるなんてことはなくなった。それには夜しっかり寝ることも重要だし、医学的根拠があったわけでもない。

 

しかし考え方一つで、生活は劇的に変わったのだ。昼から起きていた時は、やりたいことも出来ずに外にも出られずに、ただ怠惰に時間を過ごしていた。

 

それが朝起きることでリズムが出来、活動的にもなり、結果僕は前よりも達成感を覚えるようになった。

 

アドラー心理学の本質はもっと別の所にはあるが、この変化が自分の中で一番大きかったので、まず言っておきたかった。

 

アドラー心理学で学んだことは多岐にわたる。自分の中で消化できていない部分もあるが、それを文章に表したらかつてないほどの文量になってしまうかも知れない。

 

目的論的考え。それはトラウマの否定でもある。誰しもが持っている過去のトラウマ。

 

アドラーはそんなものに縛られる必要はないと言っている。あなたはあなたに与えられたもので出来ている。

 

そう考えたらトラウマも自分の一部なのだ。自分の一部と思えない、否定したいからトラウマというものの存在を明確にしていたが、

 

そんなトラウマを持った経験をした自分という人間が自分という存在なんだと考えを改めると、ありとあらゆるもので自分という人間が構成されているのが分かる。

 

人間一人として同じ人はいない。生まれた時点でオリジナルなのである。

 

だったら作家を目指している僕が抱えるオリジナリティの悩みも、ゆっくりと溶けだしていく。アメリカには才能をギフト(贈り物)という習慣がある。

 

もしかしたらトラウマもその人だけが貰い受けたギフトなのかもしれない。

 

人間トラウマと同様に自分ではどうにもならないと思う問題に感情がある。

 

アドラーは感情的になることとはと分解している。カッとなって怒ってしまった時、それは相手を屈したいと思う目的があるから大声を上げたり、辛辣な言葉で罵倒したりするのであると。怒ることは相手より優位に立ちたいがため。

 

だからついカッとなってしまったから何をやっても良いことにはならない。

 

カッとなって怒ることはある。でもその一段奥に、相手を挫きたいと思っていることも忘れてはならない。

 

自分が嫌いな人は、何故自分という人間が嫌いになるのか。今言ったようにトラウマ現在とは関係ない。

 

自分に成したいことがあるのなら、そのために努力をすればいいだけだ。

 

とはいえ言うのは簡単だ。嫌われる勇気を読んで、具体的に何をすればいいかわからなかったから、僕は感想を言語化できなかった。

 

僕は割と自分という人間が好きではある。成したいこともあるし、家族から愛されている。

 

それでも養ってもらっているし、恋人はいないし、夢だって叶わないかもしれない。

 

そういう人生をどう生きて行けばいいか、アドラーは導いてくれた。いま、ここ。

 

この刹那的な一瞬を精一杯生きること。それだけが自分が生きている意味を感じられる方法だと。先のことばかり考えてしまうから、不安になる。

 

自分が何者かになりたいと思うことそれ自体は否定しないが、アドラーは特別な存在に成れとも言っていない。

 

特別な数少ないひと握りの人間になるより、平凡に生きることそれも大事なことだと言っている。

 

青年はそれではやりきれない、自分の生きた証を残してこそ自分の生きた意味があるのだと言った時、哲人はキーネーシス的な人生とエネルゲイア的人生という考え方を提示した。

 

キーネーシス的な人生とは目的に最短距離で突き進み、結果を残すという生き方だ。

 

エネルゲイア的生き方とは登山のように一歩ずつ歩んでいくことで、自分の力を懸命に使って目的を果たそうとする生き方だ。

 

目的を果たせないなら意味がないと考えるなら、その人はキーネーシス的な生き方を選択するだろう。

 

しかし、そうでない平凡な人たちは自分の考え方を卑下するのではなく、エネルゲイア的に一歩一歩懸命にその時を大切にし、もし志半ばで果ててしまっても悔いはないという生き方を推奨している。

 

青年は、世界はそんな甘い所ではないと主張する。結果を出すこと。それは勝負の世界に生きるということだ。勝負があれば、勝者がいて敗者がいる。

 

そういう縦の関係を築いた瞬間に、その人は全ての人を縦の関係性で見るようになるとアドラーは言う。

 

あの人は私より下。この人には何をやっても勝っているから自分が上。ドキリとしたものがあった。

 

誰かより優れていたいと思うことは、必ず誰かを下に見るということだ。

 

他人を見下すことは気持ちが良いことかもしれない。競争に勝って勝利することは、栄光を掴めるのかもしれない。

 

しかし、それよりも勝負というものは優劣をつけるためではなく、最善を尽くすことではないのだろうか。

 

世界新記録を出した選手が、どうだ俺より速い奴はいないだろう!と言ったらキャラクターは立つかもしれないが、気持ちの良いものではないだろう。

 

昨日友人とアドラー心理学について話し合った時、勝負の話にもなった。その時彼は、ある化粧品の話をした。

 

その化粧品は普通の化粧品に多く使われる長持ちさせるための防腐剤を入れないで、天然由来の成分だけのもので作った化粧品は、結果として多くのシェアを生んだという話だった。

 

人はモノづくりの時、ただ人間のために良いものを作り出していくだけであって、そこに勝敗は存在しないのではと言っていた。

 

これは勝負の世界からの脱却で在り、縦の関係の崩壊でもある。

 

仕事の本質は良いものを作ること。そこにコンペや戦略があったとしても、最善を尽くすことこそが、人間のなすべきことなのである。

 

だが、もし同じような商品が作られ、シェアを奪われたとしたら、そこで勝負が生まれてしまう。

 

顧客の奪い合いは必然のように思うが、競争はそれ自体が悪なのかも知れない。

 

人を出し抜こうとする狡い人間もいよう、勝つためには手段を選ばないものもいよう。

 

それでも真理として最善が優先される。厳しい考え方だが、選ばれなかったのは戦略的に負けている上に、最善でなかったということだ。最善に勝る武器はない。

 

勝負の世界に入ってしまい勝ち、相手を踏みにじってしまえば、必ず復讐が待っている。

 

どんなことをしてでも上回るんだという感情が芽生えてしまう。

 

それにとても盲点だったのが、人は正しいと思った瞬間に権力争いに足を突っ込んでいるということだ。

 

人は誰も自分が正しいと思いたい。正しさこそが最も価値の在るものだと考える人がいるだろう。

 

僕もそんな人間の一人だ。良さよりも、正しいというものが世界にはあるような気がしてならない。

 

しかし正しいということは、それ以外を悪と決めつける行為だ。正しいものの周りにはおびただしい程の正しくないものが横たわっている。

 

そんな世界は縦の関係しか生まない。正しいではなく良いを目指さない限りは、横の関係は築けない。

 

そして自分は変わった、だが自分を取り巻く世界は変わらないじゃないかと青年は言う。

 

結局のところ変わるのは自分だけであって、他者を変えることは出来ない。変えるなら、貢献や援助という形をとるのがアドラー心理学だ。

 

貢献や援助の考え方は難しい。人が何か失敗や成功した時、叱ることも褒めることもしてはいけないという。

 

そのどちらも相手を下に見ているからする行為だからだ。

 

もし他人に介入したいのなら、自分からまず奉仕の心を持つこと、やってくれた行為があるなら感謝すること、なにか挑戦している人がいるなら勇気が出るように援助する。

 

アドラー心理学の孤独とは他人を助けることはあっても、そこに愉悦は存在せず、他者とは永遠に分かり合えないものだときっぱりと言い張ることだ。

 

きっぱり割り切ったうえで、相手を信頼する。信用のような担保が必要なものではなく無償の愛、信じる他者に一切の条件を付けないこと。

 

厳しい哲学だと思う。しかし、自分の中になかった考え方であったには違いない。

 

こういう本を読んで、酷く影響を受けているのは多分他人から見たらとても恥ずかしいことなんだろう。

 

僕という人間はいたく他人から影響を受けやすい。その反面、簡単に影響を受けてしまったことを認めるのが恥ずかしいとも思っている。

 

この本は僕のバイブルに足り得ない。それほどに漫画的で読みやすく、広くメジャーになった本だからだ。

 

ミーハーになりたくないと思ってしまう自分がいる。しかも後進から知ることによって恥ずかしさは増す。

 

アドラーは自分の心理学が学問の形から姿を変えて、コモンセンス(共通感覚)になることを願っている。

 

それは学んで実践しようとするものではなく、誰もが知っている概念の内に溶け込むことである。

 

でもそれはこの本を読んだ人だからわかる考え方であって、これを読んでいない縦の関係で生きている人たちと相対した時は、酷く心を傷つけられることになるだろう。

 

それでも、人と人とは分かり合えない、勝負という概念は存在しない、誰もが対等な関係であるということを、心にとめておけば、挫けることなくアドラー心理学を信じることが出来るだろう。

 

僕は新しい新興宗教にはまったのかもしれない。それを青年のように論破して否定しようとも思わない。

 

何か新しいものが自分の中で目覚めている感覚があるからだ。

 

嫌われる勇気とは、他者から嫌われても構わないと開き直る勇気。何度もう言うが、他者と自分とは違う生き物なのだから分かり合えることはない。

 

そこをまず前提として対話を始めるべきなんだ。他にもアドラーは概念を分解して見せた。自由とは他者から嫌われること。

 

自由に振る舞えば振る舞うほど、他人から嫌わる。自由とは皆が守っている制約を破ってしまって構わないと思っての奔放な行動だ。

 

ということは、人間は皆制約の内側に生きていることになる。それは常識だ。だから制約を破って自由にしている人を見ると、つい憧れてしまう。

 

でもそれは理性的な行動ではないのだろう。先にアドラー心理学は孤独なものと言ったが、実はそうではない。

 

この本文を読んで見てわかった人もいると思うが、この考え方、アドラー心理学を学んだ人は仲間になれる。

 

そう見てみると、とても新興宗教くさいが、これは考え方の問題だ。今の自分が不幸だと思うのは、今の自分のライフスタイルを自分で選択したからだ。

 

こんな風になりたくなかったと思う一方で、こんなライフスタイルを送っていればこんな人間になるのも当たり前だとも思う。

 

この本で読んで一番の救いは、幸福の形が明言していることだ。「幸福とは他者貢献である」他者からもたらされる褒賞でも感謝でもなく、自分自身が他者に貢献できたことを喜ぶ。

 

場合によっては悪の側にも使える危険な真理だ。

 

読み終えた自分に降り積もった課題は山積みだ。だが、良い学びが出来たことは確かだ。

 

すべての悩みは「対人関係の悩み」人間の問題は理性で全て解決できることを信じて。

 

この本がもっと広く読まれて、皆がアドラー心理学を学ぶことを願う。

 

見ている世界の違い
自分の主観からは逃げられない
変わりたいと思うこと
トラウマ(原因)と結果は結び付かない
原因論(原因があるからあなたは悪くない)と目的論
目的に叶うものを見つけ出す
手段として感情を捏造する
なにがあったかではなくどう解釈したか
自分を自分として受け入れているか
自分に与えられているものをどう使うか
あなた自身が不幸を選んだ
ライフスタイルは自ら選び直せる
幸せになるにはライフスタイルを変える勇気がいる
前に進むことだけがライフスタイルを変えられる
いま、ここの精神
可能性の中に生きるのは心地良いこと
ただひとりでいるなら死も孤独ではない(恐くない)
人間の悩みは、すべて対人関係の悩み
劣等性にどういう価値を与えるか意味付けするか
劣等感は客観的な事実ではなく主観的な解釈
人間誰しもが持っている優越性の追及
劣等コンプレックスAであるからB出来ない
優越コンプレックス自慢してる人がいるならその人は劣等感を抱えている
同じではないけど対等
競争は不幸を生む
勝負の世界はスリルはあるが危険なところ
他者を祝福できないのは自分が幸福でないから
喧嘩を売られたなら権力争いをしてると思え
勝てば気持ちが良いが復讐されることも考えよ
怒る以外の有用なコミュニケーションを身に付けよ
自分が正しいと思った瞬間に権力争いに足を突っ込んでいる
人生の課題(タスク){仕事、交友、愛}
・自立すること
・社会と調和して暮らすこと
・わたしには能力がある
・人々は私の仲間である
ニートが働きたくないのは人間関係が怖いから
嫌いになるために欠点を挙げつらっている
嫌うからこそ敵になり世界は危険になる
賞罰教育の危険性
他者の欲求を満たすために生きているのではない
自分の欲求を満たしてくれるために他者が生きているのではない
他者から承認され続ける人生は嬉しいならば承認されない人生は苦しい
自分の課題と他者の課題を分離する必要がある
たとえ相手が信じられなくても愛す(援助する、見捨てない、介入しない)
自分の信じる最善の道を選ぶこと
他者の課題に介入せず自分の課題に介入させない
課題の分離によって適切な距離を保つ
常識を疑え、自ら切り開け
嫌われたくないなら10人に10人忠誠を誓わねばならない
他者の課題に介入することが自己中心的
自由とは他者から嫌われること
他者に嫌われても構わないと開き直る勇気
全体論(感情、理性、意識、無意識)
共同体感覚(仲間意識)
私にしか関心がないことは自己中心的な考え
自らは世界の中心でない
共同体に所属感を生むことが大事
狭い共同体で齟齬が起きればもっと大きい共同体に所属せよ
叱ってもいけない褒めてもいけない、必要なのはありがとう
縦の関係を否定し横の関係へ
相手を自分より低く見ているから介入してしまう
勇気をつけてあげる援助
自分に価値があると思えたとき勇気を持てる
共同体にとって有益と思えたときこそ価値を感じられる
あなたがはじめるべきだ
誰か一人でも縦の関係を築いているならあらゆる対人関係を縦で捉えている
目上の人に対しても堂々とした意見を
自己受容は出来ないことを認め前へ進むこと
信用は担保があっての取引
信頼は他者を信じるにあたっていっさいの条件をつけない
懐疑は見破られる
仲間となれば自然と貢献し合う
存在レベルで価値のある人へ
幸福とは貢献感である
問題行動の裏返しは復讐
刹那的ないま、ここを懸命に生きる
目的の過程も含めて旅
ここで果てても構わない人生が幸福な人生
人生に意味はない、意味は自分でつけるもの
迷ったら他者貢献