柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

輝ける闇


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手強かったぁぁぁ!!

 

読み終えるのに2~3ヵ月かかってしまった。

 

朝の30分にも満たない読書時間ではしかたのないことだが、あまりに重く、濃ゆく、臭い、静かな熱を持った、人生を賭けた美しい戦争だった。

 

戦争小説というと、悲惨でありやってはいけない禁忌のものであり、忌み嫌われ、目を背け、蓋をしたくなるようなものの印象があるが、

 

本作の冒頭は、まるでバカンスを楽しんでいるかのごとく、陽気で、銃や兵器こそ手には持っていれど、まるでそこはこの世のパラダイスであり、

 

満ち足りて、物はあり余るほど有り、戦争をしているという現実と隣り合わせなはずなのに、あっけらかんとしている。

 

戦争と一口にいっても、一面的に悲惨である、というわけでもないのかというのは衝撃だった。

 

栄養疲れという言葉が出てくるが、それがまさにベトナム戦争を象徴している。

 

一貫して描写が美しい。何故だろう。

 

土や泥の臭いもするし、マラリアの危険と隣り合わせで衛生的ではないし、手にはずっと鉛の重たさがある。

 

しかし、木々は青々と生い茂り、水源は豊かにあり、そして常に描かれている時間帯が黄昏時なのだ。

 

一日で最も美しい時が、ゆっくりと終わっていく時刻である。これは純文学ではあるが、小説ではない。ルポだ。

 

それほどまでにリアルが描かれており、文体や語り口が実にその世界に入り込みやすいように、ある意味では客観的に突き放して、しかし、作者の愛情と親しみの深さから、むしろ引き寄せられるような。

 

日本での太平洋戦争が陰の戦争であるなら、開高健ベトナム戦争で見た戦争の姿はアメリカ側の陽の戦争だったのだろう。

 

だからこそその闇に輝けるとして題とした。続編の夏の闇先に読んだのだが、開高健は戦争に魅入られている節がある。

 

パラダイスと死線を抜けた先には、それを刺激や快楽として思い出したいという悲しい男の性がある。

 

ヤンサンでおっくんがぶちのめされて、文学の道へと進めなくなったとまで言わしめる作品は、どれ程のものかと思ったが、確かにこれはヤラれてしまう。

 

戦争というものを経験していない若造たちが何をしたって太刀打ちできない領域だし、こんなに豊かな戦争はベトナム戦争が最後だったんじゃなかろうか?

 

今はウクライナへの侵攻が進んでいるが、そこで生まれる文学はもっと無機質で悲惨な風に描かれるのだろう。

 

戦争は絶対にダメ!と抑圧されればされるほど、混沌を望む人達は反発するだろう。

 

ヤンサンで言えば、カオスとローの理論。フロムで言えば退行とヒューマニズムの前進により、説明されるが、人生がロックンロールなら、違う形を模索しつつも、結局は同じこと(規模は変わっても)の繰り返しなのではなかろうか。

 

一人の人生単位で言えば、例えば夢を持てて、叶えようと努力をし、夢が叶ったとする。

 

そうしたとき、その人はまたカオスに堕ちようとするのだろうか。実は必死に踏ん張っていて、踏ん張りきれない人たちが、痴漢をしたり、買春をしたりするんだろうか。

 

その漏れはごく少数なのだから、大半の人は夢を叶えれば、その城を守ることか、広げることに全力を尽くすだろう。

 

エネルギーのやり場や、持っている気質やコンプレックスがそうさせるのかもしれないが、開高健はそんな信じられない大人とは真っ向から違う、正反対でもないし、強いわけでもないが、逞しく生きている。

 

その逞しさは正の逞しさではなく、強かさに通じるものかもしれないが、男としてこんなハードボイルドな生き方は、物語ではなく生き様として体現しているのが素晴らしい。

 

よくぞこんな作品を世に残してくれた。


この生き方が戦争を生き抜いた者の物語ではないリアルとしての文学の闘い方だと思うと、昭和の最後の生まれとしてすこし誇り高い気持ちになれる。