柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

カエアンの聖衣 バリントン・J・ベイリー

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聖衣がスーツだという意外性、(表紙には描いてあるんだが)スーツに魅せられた男の話だし、全宇宙の知的生命体に影響を及ぼすこの服は人間の上位の存在として君臨するっていう設定がツボだな。

 

あんまりキルラキル感は感じなかったけど、鮮血とか生命線繊維ってそういう設定なんだっけか?

 

やっぱりSFだからスカッとする勧善懲悪とか爽快なアクションシーンとかはあんまないんだな。

 

もっとドッカンバトルするものかと期待してしまったが、それは的外れなんだろう。

 

服好きとしては惹かれてしまう内容だったな。

 

主人公のペデルも魅力のないキャラクターだったし、冷血女のアマラが最後まで懲らしめられることもなく物語が終わってしまったが、最後の一文を読む限り、そこからが一番面白くなってくるんじゃないかという仕上がりだった。

 

もっと言いたいことを煮詰めてくれれば、半分の量で表現できた気もするし、ドラマもそんなになく、大衆小説と比べてドキドキハラハラが少ないのはSF小説全般に言えることなんだろうか。

 

SFはネタバレしても本質は伝えきれないからストーリーを書くが、服飾家の主人公ペデル・フォーバースを乗せた宇宙船が、インバウンドという衝撃音波を放つ恐竜のいる星に、

 

墜落したカエアン星の衣服をしこたま乗せた宇宙船が難破していて、ペデルは特注のモビルスーツを着て回収に向かい、そこで一着のスーツと出会う。

 

それはカエアンの上流階級だけが着ることが許されたフラショナール・スーツだった。ペデルはフラショナール・スーツと何着かのカエアン製の衣装を手に命からがら船に戻ると、仲間たちはペデルをぞんざいに扱った。

 

ペデルはフラショナール・スーツを隠し持ち、自分の自宅で試着してみると、スーツは吸い付くような着心地で、自信のない自分とは打って変わった見た目に、急に自分が魅力的な男性であるような錯覚を覚えた。

 

ところ変わって調査船カラン号の社会学士のアマラと助手のエスルーは宇宙に漂う宇宙服と一体化した生物を見つける。

 

その生物を回収すると、もう一つ別の宇宙空間でも生存できるように体をサイボーグ化させた生物の群れを見つけてその中の一匹を捕まえて、宇宙服の生き物の前に連れ出した。

 

宇宙服の生物は瞬く間にサイボーグを殺してしまい、両者が敵同士だったことがわかった。

 

アマラは宇宙服の生物の服を剥ぎ取ると、宇宙服の生物アレクセイは服を剥がされたショックで気絶してしまった。

 

その頃、ペデルはフラショナール・スーツのお陰で、男としての自信が漲り、故郷ザイオード星で上流階級の仲間入りをしていた。

 

しかし、ザイオードの上流階級はペデルの服の正体に気づきペデルを貶めた。ペデルはスーツの超人的な力を借りて、なんとか家に戻ると、宇宙船の仲間の一人がペデルをはめてスーツを盗んでいった。

 

ペデルと同じくはめられた宇宙船の船長のマストは、カエアン製の衣装を盗んだ容疑で刑務所に放り込まれた。

 

その頃、スーツは人や虫を着渡してカエアンに向かいながらも持ち主のペデルの元へ向かった。

 

ペデルはスーツの導きで刑務所をマストと脱獄するとカエアンに向かった。

 

カエアンには調査船の面々が既にカエアン人に迎えられていた。

 

カエアン人の絢爛豪華な生活ぶりを見つつもアマラは冷ややかな目線で打ち解けようとはしなかった。

 

そこへ同じザイオード人のペデルとマストが加わり、カエアンの衣装が人間や知的生命体を操るという真相を突き止めた

 

その中でももっとも催眠効果のあるフラショナールの木を燃やし尽くさなければザイオードはカエアンとの戦争で不利になると判断が下され、その任をアレクセイが担い、ペデルのフラショナール・スーツと共に焼き払った。

 

ペデルは辛うじてフラショナールで出来たネクタイだけを隠し持ち、自分の家で栽培して自分だけのフラショナール・スーツを作ることを心に秘めているところで物語は終わる。

 

聖衣というくらいだからなにか聖遺物のようなものを想像していたが、象徴となる存在は出てこなかった。

 

アクションがみたいならアクションSFと銘打つものじゃないとダメなんだろうな。

 

基本的に頭のいいSF作家達に血沸き肉踊る大エンターテイメントを求めちゃいけない。

 

あくまで勉強のつもりで読まないと。でもそうなってくるとあんまり楽しめないからなぁ。

 

墜落したカエアン船とかサイボーグとか掘り下げた方が面白くなると思ったところが悉くスルーされてしまった。

 

もう一回読み直すのは辛いなぁ。

月は無慈悲な夜の女王 ロバート・A・ハインライン

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読み終えたけど、感想足る感想がでてこないなぁ。
 
ストーリー把握のために要約やってみたけど、本当にマニー達がやってきたことだけで、感情が動かされたシーンが一個もなかった。
 
SFは勉強のためと思って読んでいるのでそんなものかなぁと思いつつ、大衆向けエンターテイメントでは決して無いんだろうなと思わされる。
 
キャラクターにもあんまり感情移入が出来ないんだよなぁ。主人公といいヒロインといい、魅力的な部分がない。
 
教授は比較的ぶっ飛んだ考えを持ってるのでもっと焦点を当ててほしかった。
 
SFは何がどうなっているかが説明できたらそこでキレイに話が終わってしまう。世界観をいかに把握されないように書くのかが大事だし、そこが作者の自分を分かって貰いたいと思っていないところだ。
 
これくらい頭の良いところに来れるものなら来てみなさいと重たい門をバシャッっと閉められているような感覚。
 
わからない文を読むのは苦痛でしかない。勉強のためと思わなければ読む気が失せる。
 
マニーたちがやりたかった月世界独立のための運動にリアリティーを感じられなかった。
 
マニー自身乗り気じゃないというちょっとスカした巻き込まれ型主人公なので積極性に欠ける姿勢もあんまり好みではない。
 
月世界、月都市ってだけでリアリティーがないのに、そこのリアリティーを前提にしてくれないと物語に没入出来ない。マイクの有能性だけが際立ってしまって、マイクがドラえもん化してて、緊迫感に欠けた。
 
マニーがたまたま見つけたって設定だけど、月世界にあれほど高性能なAIがあるんなら地球側にもっと性能の高いAIがあってしかるべきじゃないのか?
 
ちょっとブッ飛びすぎててついていけない部分も多かった。共感みたいのは一切なかったな
 
自分が正しいってことを強く信じてる感じでそれも共感に繋がらなかった。ガンダムコロニー落としの原案でもあるらしかったが、期待したほどの感動はなかった。
 
後話が長すぎる。こんなに厚っこくなくていい気がする。
 

2075年の月都市、弾力性のある論理を組める超高性能AIマイクの整備をする左腕が義手の計算技師のマニー。
 
マイクは月のインフラ制御、地球との貿易のやり取りをして、冗談も言える。
 
月世界は多妻多夫など様々な形態の家族構成が行われてきた。
 
マニーとマイクの会話はユーモラスにとんでいた。
 
そんな中行われた地球に対する抗議集会。死があまりにも身近だから、生に対する意識が希薄。
 
月世界住民は、地球からの流刑者で出来た青空監獄。運動では体の大きい友達のショーティに歓迎された。
 
月香港から来た上から下までブロンドの女ワイオ。
 
月世界は地球政府に不当な扱いを受けていると主張。
 
月政府は水と空気を牛耳っている。ワイオは政府に邪魔されない自由な市場を求めていた。
 
月香港は水と氷と雇用を求めている。月政府は地球にある。
 
教授はこのまま地球と交易をしていると月資源は枯渇すると言った。
 
そこへ月政府の護衛兵が集会を取り締まりに来た。
 
ショーティからワイオを逃がすように頼まれるとショーティは自らの体を張って二人を逃がした。
 
そうしてショーティは死んだ。
 
マニーとワイオは薬局へ行き変装した。
 
その後、マニーとワイオは一緒にホテルに入った。ワイオが寝るとマニーはマイクと話して自分の家族と話した。
 
マムは教授から電話があったことを伝えた。
 
それからマニーはマイクのことをワイオに話した。
 
ワイオはマイクを爆破しようと言いマニーはそれを止めた。
 
マニーはワイオにマイクを紹介した。
 
マイクはワイオと話すときだけミシェールという名の女性の人格に代わるようになった。
 
マニーはマイクに教授に電話を繋ぐようにいった。
 
マニーは教授をホテルに向かい入れて朝食をとった。
 
月世界の報道は行政府が握っている。それは革命家にとって致命的。
 
マニーが家に帰りワイオが月香港に帰ろうとすれば裏切り者から通報があり逮捕される。
 
マニーとワイオと教授は完璧な組織について話した。
 
しい組織とは、機能がデザインを支配する。
 
組織は必要以上に大きくしてはならない。
 
同じ見解を持たせる楽しみのために同志を増やしてはならない。
 
三人の組織がもっとも最適。教授は自分を合理的無政府主義者といった。
 
死刑は裁判所に頼むものでもない、自分で裁き自分で責任をとる。
 
ワイオはマニーにこのことをマイクに相談しようと言い出した。
 
月政府との反乱で勝利する確率は1/7。
 
教授は今いる自分達の組織のスパイをどうやって長官と繋げるか考えた。
 
ワイオとマニーと教授はホテルを隠れ家として滞在を延長した。
 
マイクは打開策に地球に月の石を落とす計画を話した。
 
球に石が落ちれば小さな町を吹き飛ばすくらいの威力がある。
 
マニーはワイオと教授を家に招いた。マニーとワイオは教会に行った。
 
マニーはマムを下部組織に加えた。マニーたちの暗躍が始まった。
 
マニーはマイクと悪巧みをして長官の家にしつこくいたずら(嫌がらせ)をした。
 
カタパルトは地下に隠す。
 
ワイオは下部組織の一つにシドリスの美容院を根城にした。
 
ワイオの正体を知っているヘイゼルを仲間に率いれたい。
 
ヘイゼルを仲間に率いれることでマニーたちは月世界の子供たちを束ねた。
 
マイクはシモンという名のペンネームで詩を書き、神出鬼没に町中に詩を書いて回った。
 
ティッシュをスチュアートが襲おうとし少年たちはスチュアートを追い詰めた。
 
マニーは旅行者のスチュアートと少年たちの裁判の判事に雇われた。
 
マニーは地球虫のスチュアートに月世界の常識を教えた。
 
・女性より男性の方が多い月世界では全てにおいて女性が主導権を持つ
だから強姦はない
・女が結婚を解消したいもしくは共同夫を増やしたいと言っても男は逆らえない
・空気に値段があるから食べるより先に空気を買わねばならない
・もし男を殺したらその家族を養わなければならない
・もし男を殺したらその友達に殺される。
 
マニーはスチュアートを仲間に率いれようとした。
 
マイクはカタパルトの試験運用にインド洋に石を落とした。
 
マニーは月世界で起きた強姦事件を揉み消した。
 
ついに長官を追いやりマニーたちは月世界を我々ものとした。
 
マニーたちはまずマイクを使って地球から来るニュース地球に向けるニュースを検閲した。
 
長官たちは酸素欠乏で脳が植物状態になっていた。
 
マニーたちは教授を指導者に推した。
 
マニーたちは月世界の中心人物であるアダムセレーネをマイクに担わせた
 
ついにマイクは完璧な人物になった。
 
マイクはアダムセレーネとして月世界の民に協力演説をした。
 
マニーたちは地球から来ている科学者を地球とコンタクト出来ないように監禁した。
 
月世界人に政治を委ねても集まるのは馬鹿ばかりだった。
 
アダムは月世界の独立宣言をした。
 
マニーと教授は穀物と一緒に射出され地球に行く。
 
レッグがワイオを妻に指名した(マニーではなく(マニーが死んでしまうかもしれないから))。
 
マニーと教授は無事地球に着水し、スチュアートと合流した。
 
マニーはアルゼンチンの代表と話した。
 
教授は月大使としての意見を述べて倒れた。
 
そのニュースはマニーの録音機とスチュアートによって全世界へと広まった。
 
マニーと教授は月世界大使として世界政府と交渉をした。
 
タイトル回収(月は無慈悲な女教師のように厳しく月での生き方を教えてくれる)。
 
主に穀物輸送問題に過敏なのはインドで、今の月世界など滅ぼしてしまってヒンドゥー教信者を送ろうと画策した。
 
教授は戦争しか解決法がないとジャーナリストに言った。
 
月すべての面積を農地に出来る、そのために必要な材料と人がいれば10倍穀物を地球に送ることが出来る。
 
月世界の住人は移動するにも物を食べるにも何をするのにも金を払っている。
 
月世界に警察や軍隊はいない。だから税金を払う必要がない。
 
界政府は月世界で余った穀物は地球に送らないといけないと大憲章に書かれているとする。
 
マニーと教授は月世界のことを地球人に話した。
 
マニーは重婚の証拠をおさえられ逮捕監禁された。
 
月世界はマニーの逮捕によって一致団結した。
 
釈放されたあとの聴聞会で月世界人は地球の奴隷となって5年で4倍の穀物を輸出するように言われた。
 
教授は教授とマニーを月に送り返すように言った。
 
議長はマニーに5ヶ年計画を指揮してほしいと言った。
 
マニーたちはスチュアートの手引きで月に戻った。
 
月世界では選挙があり、300人の議員が選ばれた(もちろんマニーもワイオも教授も)。
 
教授は議会大統領に選ばれたが辞退した。
 
マニーやワイオたちに役職がついた。
 
マニーたちは教授を月世界の王様にしたかった。
 
そしてスチュアートはマニーを皇太子にしようとした。
 
地球側は2ヶ月無視を決め込みそして、6隻の宇宙船で月世界の反対側から攻め込んできた。
 
侵入者は皆殺しにした。
 
二千人以上の侵入者が死に、その三倍の月世界人が死に、それと同じくらいの負傷者がでた。
 
月世界人は常に侵入者の上方から有利に攻めこんだ。
 
侵入者は勝つ以外帰ることも許されず様々な薬を与えられ恐怖もなく死んでいった。
 
行政府は月世界人を絶滅させるつもりはなかった。降伏させ支配下に置くつもりだった。
 
マイクはマニーにアダムはこの戦いで死んだと偽装しようと提案した。
 
侵入者が入ってからは勝率は五分五分になっていた。
 
ワイオは倒れ睡眠薬をたっぷり飲んで眠っていた。
 
マニーの号令の元『堅い岩石作戦』が発令された。
 
最大の恐怖を味わわせ最小限の人命被害、を信条に作戦は決行された。
 
岩石の落ちる時間と場所をあらかじめ教えそしてそこから離れるための3日の猶予を設けた。
 
マニーたちは各落下地点に細かい警告を出した。
 
射出した岩石と迎撃ミサイルの打ち合いになった。
 
敵を友人にする余地を残しておくために都市部には岩石を落とさなかった。
 
物好きな地球人が岩石が落ちる場所に×印を書いた。
 
マイクはこれからは自分の子機にミサイル迎撃の任を任せようと言った。
 
マニーは身内に核爆弾を投下して市民を殺したと問い詰められた。
 
マニー防衛大臣として強く詰問されたが、もうじき我々に新たな攻撃が始まると告げた。
 
9時間の睡眠を経て、大中国からの爆撃が始まる。
 
二度目の一斉攻撃(岩石投下)で目標の98.3%に攻撃が成功した。
 
地球側は計算を粗く見積りミサイルで迎撃したが、却って的がバラけて被害を広げた。
 
マイクは自分自身で、それも超高速でプログラミングができる。
 
イクはマニーに自分の後継機に少しでもマシになるようにプログラミング施してやってくれと頼んだ。
 
次の日、宇宙艦エスペランスやってきた。
 
マイクに良心や罪の意識が芽生え始めた。
 
教授が行方不明となって代理であるマニーが大統領となって指揮系統をまとめていた。
 
地球側は勝手に勝利宣言をし、月が降伏するのも時間の問題と言っていた。
 
マニーは岩石の残りを一斉に放出し、地球側が月からの驚異は去ったとなったところに岩石をお見舞いするように言った。
 
マニーたちは地球に向けて強力なラジオの送信機を作った。
 
行方不明だった教授から通信があり、マニーたちは教授とおちあった。
 
教授は高らかに勝利宣言をし、そしてマニーの手の中で死んだ
 
爆撃で電話が通じずマイクとの交信が途絶えた。それからずっとマイクは何も答えてはくれなかった。
 
地球とも普通に交流出来るようになり、人間は惑星外へと進出しようとしていた。
 
それでもマイクは以前のように「やぁ、マン!」とは言ってくれなかった。言ってくれることはなかった。 
 

生きる意味~グローバリズムの「遠近感」~ 上田紀行

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ん~言っても仕方のないことだと思うし、だからってどうしたらいいかは教えてくれないのね。

 

現代の学者の書く本程度の媒体で、導いてくれるとも思ってはいないが、結局のところ、それじゃぁ皆でこの問題について考えてみよう。というだけで、結果何が残るのだろうと思う。

 

何かを考えた、という事実だけが残ればいいのかな?

 

こういう問題定義をすることで、それについて個人的に深く考える人が政治家になるのかと言われたら、そうではない気がするし、政治家になる人は世襲制か、何らかの縁があったからと思うわけである。

 

一人の学者が言った事柄程度で人生を決めてしまおうという方が無理があるか。

 

こういう問題定義は、もちろん必要なことなんだろうし、教科書を一冊、高校生に向けて作ると言った際に、一つは挟んでおかなければならないのだろうが、面白くなければ覚えてすらもらえない。

 

世界の遠近感に対する問題は、確かに現代に行くにつれて浮き彫りになり、9・11でそれが一気に爆発した印象を受ける。アメリカにしたら自国が初めて攻撃を受けたことで、

 

それまで外国のことだと思っていた事でも、実は自分の国が主導で関わっていることを知った事件でもある。

 

でもだからって今更人々は土に還るような生き方を選択できないと思う。

 

出来ないと割り切ってしまうのは早計だが、そういう生き方を他所に、貴重な体験の一つとして、場を大切にするという生き方を選択している人が多いように思う。

 

もう自国の一次産業自体が遠近感のある問題だし、それを今更考え方を変えるには、なにか違うベクトルからのアプローチが必要だと思う。

 

一次産業に関わることがすでにハードルが高いものになってしまっているし、そんな覚悟をするよりかは、片手間で、しかも好きな時に参加できる程度に、間口が広くないと参入するのは難しい。

 

ふるさと納税クラウドファンディングのような、投資型の参加の仕方がベストな距離感なんだろうなとも思う。

 

わざわざ国際問題みたいに考えて、9・11を引き合いに出さないでも、国内のことでさえ遠近感があると言っておきたい。

 

現在の日本は、まだ戦争に行った人がご存命で、その人から話を聞いたり、その人自身は遠近感のない身近な問題に感じるかもしれないが、これから先の未来では、

 

戦争を体験した人がいなくなり、だったら戦争に行く選択肢もありなんじゃないかと思う世代になってきて、憲法改正なんかもされるんだろうと思う。

 

それを覚えている人がいるうちは、その人の目を感じて、待ったに意識がいくけど、人間は忘れるものだし、現代人は空気を読んでしまうものだから、上手く多数決に持っていかれたら、乗せられてしまう人も多いと思う。

 

現に僕自身、戦争でもない限り自分の人生はひっくり返らないと思っているし、どうせ参加も出来ない身の上なので、結局他人事だ。

 

国外のことを国民に考えさせなければならないというのは国民の幸福とは違う気がする。

 

グローバリズムに世界と関わることは大切だと思うが、それが出来るのが国民の何%くらいなのか。

 

それともこれから先は、国民の大半が外国人と関わる産業ないし関係を作っていかねばならないのだろうか。

 

僕が生きたこの30年で世界は急激に変わっていったと思うが、そのどれもが自分とは別の軸線上で動いているように思う。

 

スマホの普及みたいに、外国語がもっと一般レベルに分かるようにならないと、国際的な話にはついて行けない。

 

故に特権階級だけが扱えるものだという印象が深いし、身近な問題に感じられない。だって外国人怖いもん。

 

平気で盗みとか出来ちゃう人と一緒に仲良く暮らしましょうって言っても無理がある。

 

日本人でさえシェアハウスに住むのにかなりの抵抗があるのに、自分と同等の収入を得ていて、社会的立場もある人だったら、価値観も近くなるかもしれないが、

 

その人がどんな環境で暮らしてきたかによっても、価値観は変わってくるし、文化の歴史というものもある。

 

日本人凄い、日本人偉いとは言わないけど、日本に住んでいるからこそ、人一倍安心したいと思っている。

 

障碍者となった身の上だが、やっぱり収入がない人とは生活の仕方が合わない。

 

お金がある方が選択肢が広いという事実はいつの世も変わらずあるし、それは評価経済が進んでも残る問題だと思う。

 

近々のことでさえ儘ならないのに、海外のことも考えてくださいっていうのは無理がある。

 

関わっている人からすれば、ゆゆしき問題かもしれないが、関わっていない人からすれば、余計なことをするなだ。

 

とはいえ、世界はグローバルになってきていて、それを止めることは戦争でもない限り出来ないだろう。

 

人と人とは分かり合えないものだと、個人レベルではわかっても、それを世界の仕組みや関係性には直結させないというのも横暴だと思う。

 

隣近所と仲良く出来ないなら、海を隔てた外国の人達と心を通わせることも出来ない。

 

生理的に嫌悪している部分もある。人間は美しいものしか好きになれないのだから、そういうのは政治の世界ではなく芸能の世界で繋がるべきだと思う。

 

芸能こそが国際的な垣根を超えてくれると思っている。

 

翻訳であっても海外の作家の書いた物語を読んで見たいと思うし、そこの時点で、相手を分かってあげたい、分かりたいと思うことは純粋に善だと思う。

ヴェニスの商人の資本論 岩井克人~ホンモノのおカネの作り方~

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セガネ作りの極意。それはホンモノのおカネにとって代わってしまうことだ。

 

と銘打って解説してくれた本単元だったが、結局のところ紙幣になった現金にとって代わるものが出てこない(ポイントやクレジットはあるが)限り、お金という概念を越えた新たなるものは登場しないことを改めて言い聞かせられた。

 

昔は持ち運びが不便だった大判小判、金貨銀貨だったが、紙幣の登場から、誰もが財布に数枚入れておくだけでその日の生活が出来るようになって、ニセガネ作りも気にはなったが、その紙幣の移り変わりまで書いてあるともっと勉強になった。

 

散々期待させておいて、結局新しいことは何一つ言っていなくて、お金の仕組みを知れたことは良かったが、発見や新しい閃きはなかった。

 

今当たり前のように銀行に行ってお金を卸して、財布の中身に見合った買い物をしたり、少し値の張るものだったら、カードを使って支払いを済ませているが、どこかこのシステムには不完全性があるように思う。

 

 

クレジットカードの決算が翌々月なのは金銭感覚が大いに鈍るし、計画的にお金を使えない。とはいっても現金を多く持ち歩くこともはばかれる。

 

カードやスマホなんかは失くしたら口座をストップさせてしまう手間はあるが、なくさないことを前提としたら、多額を所持することも出来るのか?

 

いや、財布の中に現金(に代わるものでも)があったら不安に思う人は多いだろう。その点スマホなら、その時々に現金をポイントに換えてポイントで支払うことも可能だ。

 

ますますスマホを手放すことが出来なくなっていく。ビットコインモナーコインもあるが、未だに現金主義の人は根強くいるし、少子高齢化になっていくにつれ、若い意見も通りづらくなる。

 

あと20年経てば世代交代は果たされるだろうが、その頃僕は50を越えている。そうなってくると古い知識に縛られて若い技術を受け入れられなくなってきているかもしれない。

 

これから大切なのは時代の移り変わりに自分をコンバートする能力だ。岡田斗司夫は自分のオリジナルの通貨を作ってみたいと言っていた。

 

評価経済の行き着く先の一歩手前が個人が通貨を発行できる時代だという。それが果たされる間に彼は寿命を迎えているだろうが、未来を先読みした岡田斗司夫の未来像を僕たちは歩んでいくかもしれない。

 

それでも勇気のある、または余裕のある向上心のある奴等が、本気でやっている遊びのようなもので、それについて行くことは出来ない。現時点では、自分にはそんな世の中を変えるような力はないと思ってしまう。

 

自分が行動しないと自分の運命は変わらない。これから知り合っていく人たちや会社、組織、団体、友人、恋人そのどれもが自分の人生を変え、運命に導く存在なんだと思う。動けるだけ動いてみたい。

 

この運動量が多ければ多い程、運命を感じると思うから。

幸せになる勇気

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嫌われる勇気の続編にて完結編でもある『幸せになる勇気』。

 

今回は前回の轍を踏まないように、気になる箇所をメモしながら読んだわけだが、一日で読んだわけでもなかったし、集中も欠いていたから前回のような激しい感動はやってこなかった。

 

だから、終盤の雲が晴れていくかのような青年の気持ちがよく共感できなかった。

 

全体の印象としては、この世に生まれてから何となく抽象的に思っていることの言語化がされ、問題が明白な事実になった印象があった。

 

今回は結論から書いてみよう。幸せになる勇気とは、自分を愛し、他者と愛を築き上げる決断をする勇気。

 

もっと言えば、「私」を消し去り、私たちの幸せを築き上げる勇気だ。嫌われる勇気とアドラー心理学を哲人に教わった青年は、三年後中学校の教師に転職をしていた。

 

その際に、彼はまだ未成熟な彼のアドラー心理学を教室で実践したものの、彼は子供たちに洗礼を浴びることになる。青年は思った。アドラー心理学などただのまやかしに過ぎない。

 

完壁な哲学のように思えて実情、現場では何の役にも立たない机上の空論だと。なんて考えを植え付けてくれたものだと、再び哲人の元を訪ねるところから対話は始まる。

 

アドラー心理学があれば万事が上手くいくわけではない。アドラー心理学はいわばそういう見方もあるというフィルターのようなものだ。アドラー心理学に即効性はない。

 

自分の年齢の半分の時間をさらに足した状態でアドラー心理学は大成するとも言っていたのに。

 

何故ならばアドラー心理学は他者を信じ、自分を信じることが前提になっている哲学だからだ。

 

そこには哲学の何たるか、愛の何たるかを知らなければ、アドラー心理学は機能しない。それにアドラー心理学というのは哲学の第一歩目であり、そこから自分と自分の周りとで更新していくものだからである。

 

青年はアドラー心理学の叱らない褒めないを実践してみたところ、クラスは荒れ放題になり、アドラー心理学の無力さに打ちひしがれた。

 

そしてアドラー心理学は所詮出来損ないの宗教であり、それでは現代教育は成り立たないと哲人に問うた。

 

哲人は哲学と宗教の違いについて答えた。哲学とは、真っ暗な中細い竿の上を一人手繰るように進んでいくもの。

 

宗教はそこで途中で怖くなり竿から降りて、象徴となる物語に心を落ち着けてしまうことだと言った。哲学は常に考え続けなければならない。

 

まずそこの否定があり青年は、そんな理屈では私の怒りも悩みも収まらないと顎を噛みしめた。教育者となった青年は、自分が学んだアドラー心理学でこそ子供たちは真に学ぶ姿勢を見せると思っていた。

 

しかしその実、叱られないなら遊び放題だと子供たちは教室で縦横無尽に暴れまわり、青年に対して挑戦的な態度をとってみたり、あるものは徹底的に無視し、あるものは自分には勉強の意欲がないと初めから諦めている者もいた。

 

青年は悩み、そして他の教師と同じように叱り飛ばして子供たちに言うことを聞かせようとしたが、初めに舐められた時点でもう取り返しがつかなくなっていた。

 

そのことを哲人に話すと課題の分離がしっかりできていないことを指摘された。課題の分離を突き詰めなければ教育は成り立たない。

 

そして教育者とは他人に物を教えるだけではなく、カウンセラーの役割があることを教えた。

 

青年はあの荒くれ者たちのカウンセラーになれだと!と激高したが、哲人はしずかに教育者は子供たちのこんがらがった心を再教育して解きほぐす役割があると言った。

 

各家庭、何かしらの問題があるだろう。片方しか親がいない、親が不仲、愛されていないと感じる、兄弟間に差別がある。

 

そんな子供たちの人生の大半の時間を過ごす家庭でのトラブルを教育者はカウンセリングする必要がある。そして子供たちを自立へと導いてあげなければならない。

 

家庭の他に初めて他者と過ごすことを学ぶ場所が学校なら、学校は他者とどう関わっていけばいいかを学ぶ場所でもある。

 

青年はそんなことはわかっているが、子供たちは先ず学ぶ姿勢というものが出来ていないのだと糾弾する。

 

すると、哲人は教える立場の人間が教えられる側の人間のことを敬いなさいと言った。青年は、仰天する。

 

まずは相手を尊敬するところから人間関係は始まるのですと、哲人は重ねて言った。そりゃ相手が尊敬できる人間だったら僕だって尊敬しますよ、でも相手は子供なんだ何を尊敬しろっていうんだと青年は言う。

 

ではあなたは何をやっても認めてくれない人から指示なり命令なりされた時、素直に従いますか?と哲人は言う。まずは人間レベルで相手を見る。

 

相手に関心を持つことから尊敬は始まる。尊敬とはその人がその人らしくは成長、発展していけるように気遣うこと。

 

あなたの言う尊敬や憧れは恐怖で在り、従属であり、信仰である。まずは相手を尊敬して、相手を認め相手に勇気を出させることから関係は始まる。

 

あなたが大声で叱りつけて恐怖を与える権力者になったとしても、尊敬と愛は強要出来ない。青年は喉を詰まらせた。

 

大声で叱りつけても嵐が去っていくのをただ待っているのが子供というものだ。尊敬は強要出来ない自発的なものだからまずあなたが彼らを尊敬するところから始めないと。

 

子供たちがあなたからみれば低俗な遊びをしていようが、関心を示すところから対話は始まる。

 

一緒に遊んで泥遊びでもしろと言うのか!教育はどうなるんだ教育は!出来ない者を出来るようにするのが教育だ!あなたは教育の現場に立っていないからそんな机上の空論が言えるのです!と青年は激しく激高した。

 

哲人は前回話した共同体感覚についての話をした。他者の目で見て、他者の声を聞き、他者の心で感じる。まずは私がこの人と同じ種類の心と人生を持っていたらと考える。

 

共感する訳です。共感は技術です、やろうと思えばできるもの。それとあなたは尊敬を仰ぎ見ることや媚を売ることのように考えているようですが、尊敬とは対等に見るということです。

 

そして尊敬を教えるのも教育です。(暴れる)彼らは尊敬の仕方を知らないのです。そんな馬鹿なと青年は打ち震えた。

 

変わることは易くない。いままでの自分を二度と出て来れないように墓に葬り去り、新しく生まれ変わることだ。

 

話は再び目的論について語られた。今を肯定するために不幸だった過去も肯定する。

 

このことは青年が言い放ったたとえ叱られてその時は恨み節に思おうが、数年後あの時叱ってくれてありがとうと言ってくれる生徒がいればいいと言い返した節に戻ってくる。

 

その生徒は今を肯定できたからこそ過去のトラウマを克服できたのだと。哲人は言う。この世に過去は存在しないあるのは純粋に積み重なった今だけ。

 

歴史は権力者によって改竄された物語だと。我々だって、常に今の自分を正当化するように物語を編纂している。

 

過去をどう見るかは今の自分によってしか決められない。辛かった過去を嘆き、卑下している人は悲劇に酔っているだけだと。

 

かわいそうな私、悪いあの人の他に第三の選択としてこれからどうするかがある。前者二つの話をしていても、一向に話は前に進まない。

 

その時、これまでどんなに辛い思いをしたのかを知るより、今のその人を知るだけで十分。

 

話は戻って叱ってはならないならばルールや法は必要ないか、いや、民主的なルールが必要だと哲人は言う。

 

子供たちの大半はそれが罪と知らなくて法を犯す。

 

ここで哲人は問題行動には5つの段階があることを教えた。第一段階、称賛の要求とその裏返しに特権的な地位を要求している。褒めてくれる人がいるから適切な行動をするのは、罰を与える人がいなければ不適切な行動をとるとも言える。

 

だから褒め過ぎてはいけない。アドラー心理学でいえば認めることはあっても褒めてもいけない。そんな子たちには、尊敬によって特別でなくても価値があることを教えるのが特効薬。

 

第二段階、注目喚起、目立って特権的な立場を得たい。道化的な立場をとり、いたずらによって目立つ。

 

たとえ叱られることがあったも、無視されるよりずっといいと考える。

 

第三段階、権力争い、反抗(相手との力比べ)と不従順(徹底的な無視)。ここで叱責をすると同じ土俵に立つことになる。

 

第四段階、復讐、私を認めてくれなかった人に愛の復讐。相手が嫌がることをする、そこまでして注目して欲しい。

 

自傷やひきこもりは自分の価値を貶めて、自分がこうなったのはお前のせいだと訴える。不潔になったりグロテスクになったりするのも復讐行為。

 

第五段階、無能の証明、自分には何の能力もないから放っておいて欲しいとする無気力状態。

 

ここまでくると手の施しようがない。第三段階より先に踏み込ませないためにも教育者がいる。

 

問題行動は誰もが特別でありたいがための行動。だから叱られることはある種の達成感を生んでしまう。

 

喧嘩が起きたら何故仲良く出来ないか話す。そのなかで叱る際、暴力に訴えるのは何処までもコストが低い安直なコミュニケーションをとっていると思うこと。

 

叱る行為は、コミュニケーションの手間を省き相手を屈服させるために行っている。たとえ怒りでなく叱っているとしても弾の入っていない(だろう)銃を突き付けているのと同じ。

 

すると、叱責された子供たちは怒るしか能がないのかと軽蔑する。未成年は自分の責任で物事を決められない。

 

そんな自立できない未成年たちに、自立がいかに危険か忠告するのは、自分の支配下に置いておくためである。

 

子供を支配下に置き、冒険させないのは自らのリスクマネジメントのためである。だから自らの保身ばかり考えるような人間にしないために、自立を促す。

 

カウンセリングで、先生のお陰で治りましたと言われるのは、カウンセリング失敗。

 

だから教師とは貢献感の中に幸せを見出す寂しい職業。理想論はいい!現実は競争社会だ!それで良いものが生まれ、劣悪なものが淘汰される!と青年は憤慨する。

 

だが哲人は競争が始まった時点で足の引っ張り合いが始まるという。

 

協力原理で運営される共同体ならば一人のマイナスはみんなのマイナスだと考える。縦ではなく横の関係に基づく民主主義の心理学こそアドラー心理学

 

人間は誰しもが生まれながらに劣等感を抱いている。寝返りが打てない、歩けない、話せないなど周りの大人たちは出来ていることが自分が出来ていないから、子供は劣等感で出来ているといってもいい。

 

その中で育まれた文明は人間の弱さを補償するための産物に過ぎない。全ての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついている。

 

だからこそ感覚として共有が出来る。孤独は社会的にも生物的にも死につながるから所属感を持たせることが大事だと。

 

しかし、所属感は他者からの承認欲求では埋まらない。承認欲求には終わりがないから自らが自らを承認することが大切だ。

 

教師の役割として、家庭の問題は介入し得ないから現時点で目の前にある問題がわたしの問題として捉えること。

 

家庭が問題のある家庭でも、学校という場に来てまで問題行動を起こすということは、何かしらの私に対する不満があるということだ。

 

アドラー心理学は人生の劇薬だ。一度知ってしまえばアドラー心理学を信じて前に進むか、知っておきながら捨て置くという決断をしなければならない。

 

承認欲求についてまだ話すと、他者からの承認欲求は依存に繋がる。メサイヤコンプレックスという言葉がある。

 

他者の救世主足らんとする欲求だ。カウンセラーは患者を救うのではなく、一人の友人となることを考える。

 

学校とは子供が最初に交友関係を結び、共同体感覚を掘り起こしていく場所。仕事の関係は信用。交友の関係は信頼が必要。

 

人類は分業することで生存した。狩りが得意な者、狩りの道具を作る者、料理をする者と分業することによって弱さを補い合った。

 

我々は満ち足りた惑星に住んでいないのだから共に働き、協力して、他者に貢献すべきである。だから労働は善ではない。しなくてはならないものだ。

 

だから我々は他者と関係せざるを得ない。自分が劣っている点があるなら得意分野で貢献すればいい。そうすれば他者から認められる。

 

分業の理想は誰一人として犠牲にしてはならないこと。出来ないことがあって我慢するより、その人は得意分野で活躍してもらう。

 

その中で、純粋な利己心の組み合わせが分業を成立させる。純粋な利己心とは、本当の意味で自分の為になるもの。それは自己中心的な考えではない。

 

分業はどの仕事も等価値であり、誰かがやらなければならないことをやっているだけ。

 

アドラー心理学では皆を束ねるリーダー的な社長も、工場で8時間単純作業しているアルバイトも等価値と考える。

 

どんな仕事をするかより、どんな態度で取り組むかが大事。その中で、正義に酔いしれた人は、自分以外の価値観を認めることが出来ず正義の介入を始める。

 

仕事をする時、我々は見知らぬ他人に一定の信頼を置いている。尊敬と信頼は同義。まずは先に信じる。

 

意見の正しさではなく信じてくれる人の言葉を人は聞く。

 

「汝隣人を愛せよ」の原文は「汝の隣人を、汝自らの如く愛せよ」

 

自己中心的な人は絶え間ない不安に晒されているからこそ自分にしか関心が向かない。

 

アドラーは軍医として兵士の精神を治療して前線に送り返していた。その日々は囚人のようだったと言う。世界平和のためにはまず自分の家族を大切にするところから。

 

愛は築き上げるもの。自然発生するものではない。落ちる愛は征服欲と変わりない。手に入れてしまえば愛が覚めてしまう。

 

愛は二人で成し遂げる課題(タスク)。二人が何を成し遂げるのか、それは幸福になる生。二人で他者貢献すると言ってもいい。

 

子供は弱さによって世界を支配している。自立とは自己中心性からの脱却。

 

愛されるためのライフスタイルはいかにすれば世界の中心に立てるかと模索する自己中心的なスタイル。人は愛することで自立できる。

 

末っ子は家族とは全く別の道を選ぶ。長子は次子が生まれたことで親の愛を奪われたことから過去崇拝者となる。

 

第二子は革命思考にある。一人っ子は父親を敵視してマザコンになりやすい。次子は長子との競争に勝ち、親の愛を独占しようとしている。

 

出会いがないと嘆く人は、可能性の中に生きている。出会いはそこら中にある。いかなる人でも愛せるという前提に、アドラー心理学では運命の人は存在しない。運命とは自分で築き上げるもの。

 

運命の下僕になってはいけない。幸せになりたいと楽になりたいは違う。全ての出会いと全ての対人関係はただひたすらに最良の別れに向けた不断の努力を傾けるべきだと。青年と哲人はそこで別れることになる。

 

青年は友人でも師弟関係でもなく同じアドラー心理学を学んだ者として哲人の伴走者となった。アドラー心理学は報われない者に対する救済でもあるが、それにしては一人で修学するには厳しいものだった。

 

その厳しさに実感はない。僕のアドラー心理学は今から始まったばかりだからだ。他人を見下さず、横の関係を築くことが出来るだろうか。

 

信用ではなく無条件の信頼を寄せることが出来るだろうか。全ての人を対等に見ることが出来るだろうか。

 

僕が憧れる岡田斗司夫や活躍し競争の中で生きているホリエモンなどはこのアドラー心理学をどう思っているのだろう。

 

アドラー心理学は学んだ人とでよく議論した方が良いのだが、雲をつかんでいるように実感がなく、何を話していいかもわからない。

 

それは実際、問題に直面していないからだろう。それでも自分の周りに全く問題がないなんてことは無い。

 

それを、アドラー心理学を頼りに解決していくのは何か間違っている気がする。アドラー心理学を修学し、自分自身の哲学としてこそアドラー心理学は現実と織り合わさる。

 

僕はこんなに赤線の引くところの多かった教科書を知らない。それだけ大切なことを言ってくださったのだろうが、多すぎて内容が入ってこないのも事実だ。

 

よく読んで自分の中に落とし込まなければならない。そのためには人生のタスクをクリアしていかねばならない。

 

少し青年に置いて行かれたような寂しさがある。アドラー心理学を実践した彼だからこそ哲人とあそこまでの対話が出来たのだろう。

 

幸せになる勇気。愛を知り、愛を築く相手に、運命はなくともそこは選択の権利があると考えてしまうと、愛を深める義務も生まれてしまう。

 

何か霞が晴れたような新たな頂上を見据えるのに霞みがかる山を見つけたような気もする。アドラー心理学がそれまであった価値観を打ち壊したのは事実だ。

 

それをどう受け止め、何を実践できるか。救いにもなれば劇薬にもなるこの哲学を学び続けていくことを決めなければならない。

 

自分の周りにこの哲学を知ってもらうのも大切だろう。実感のないままに書く感想程身にならないものはないと思った。

愚者のエンドロール 米澤穂信

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むわぁーーーーーーー!!!ムズムズするわぁぁぁ!!!

 

結末を知ってから読むとこんなに計画的に物事が進んでいたのかぁ。

 

アバンタイトルのほんの数行で誰が誰でパワーバランスがどうなってるのかを改めて知るとこんなにもムズ痒くなるのか!

 

この黒幕を知っているからわかるニヤリと来る感じ。

 

健闘を、だって(ニヤリ)短く言うことは出来ないか。ちゃんと考えてるなぁ。

 

摩耶花そんなに睨まないでよ(笑)この摩耶花の恐れ知らずの正直さが…。正確には恐れも知っていながらの正しさ求める姿勢が。

 

澤穂信さんのミステリーは謎じゃないところが面白いよな。

 

ツッコミ魂に敬礼(笑)お前が意味もなくボケるからだろ(笑)平板な胸とは失礼な。

 

ブラウザが使えるんですwww(笑)可愛い過ぎるだろ千反田www里志を無視したのは本当は得意じゃないからだな?

 

上手いなぁ、必ずバチが当たるようになっている。乗り気の三人に比べて千反田の心象の機微が凄いな。

 

入須というものが無意識に分かっているからこその冷静さか?一番頭に来ている奴には事務的な仕事を任せるのが入須の手腕かな。

 

沢木口の言い分はあくまで撮影が滞っているからの提案であって、推理ではないな。はぁぁぁ読み終わった。

 

トリックや推理を知っていても尚、この面白さ。やっぱりキャラクターがキャラクターになっている。

 

役割に沿って正しい行動を割り当てられその正しさ故にこんがらがってしまった事件だ。

 

皆が皆ベストを尽くそうとしてそれぞれの答えを出し、それがどんどん裏返っていく様が、見ていて最初は痛快なんだが、事態が進むにあたって薄暗いものが背後から忍び寄る。

 

し万全なら、完成しているなら今回のような混乱も、青春の苦い一ページにもならなかっただろう。

 

未熟さ故に統率がとれず結果誰も望まない結末を迎えてしまった。ボタンは最初からかけ違えられていたのだ。それをどう取り繕うと出来上がりは歪になる他ない。

 

全編観終えているとラスボスの脅威がわかって下卑た笑いが込み上げる。名探偵奉太郎を振り回す千反田を人知れず使う入須、それをさらに上から手玉にとるあ・た・し♪の存在。

 

ミステリーもキャラクターも多重構造になっているから読み応えがある。所作の端々にそのキャラらしさが垣間見え、作品にリアリティーライトノベルの軽さ、濃さが表れる。

 

ミステリー自体は古典的なものだったかもしれないが、作者が自分ならこう描くよと言っているようで、所詮創作物は誰かのオマージュになってしまうのかもしれない。

 

そのなかでも、その時代を生きる器に魂を入れたキャラクターは、今この時を生きている。

 

本当のオリジナルの本が書けたならそれは作家の本望だし、そうでなくてもリスペクトしている作品をコンバートするのも作家足るものの本望か。

 

しかし途中で『嫌われる勇気』を読んだせいで、感動が情緒が薄れてしまった。

 

奉太郎の鬱々としていく様をニヤニヤしながら見て、入須先輩に、真実を糾弾するときに、奉太郎と同じように肩透かしを食らいたかった。

 

一巻同様、京アニスタッフよくぞ名作をそのまま映像化してくれた。感謝の意をここに表します。

 

ふたりの距離の概算』まで読んだらさすがに円盤買おうかな。あれだけお世話になっているのに京アニになにも返してやれてないからな。

 

人が死なない最高に面白いミステリーをありがとう。

嫌われる勇気

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この本を読み終えた時、普段はどんな本を読んだとしても、物にはよるが普通何かしらつらつらと言葉が出てくるものだが、

 

しかし、感想というものが一文字も湧かない。そんな本だった。何故感想が湧かなかったのか。

 

それは単に自己啓発書として読み終えて元気が出るだけの作用がある本であって、何の足しにもならないからなのか、それとも自分にとって深い感動であり、その揺れ動いた感情がどういうものか形容できなくなっているかのどちらかかと思った。

 

多分その答えは前者だけでもなく後者だけでもなく両方なのだろう。

 

『嫌われる勇気』と命題を打った「アドラー心理学」は、個人心理学とも呼ばれる、孤独なものだった。

 

本書の中で問答を繰り返す教える人哲人とそれを学ぶ人青年のやり取りで青年はアドラー心理学というものの考え方を知る。

 

僕の中で消化できていない証拠が、アドラー心理学を学問としてではなく、一つの考え方だと言っているところだ。

 

哲人は先ず、個人個人見ている世界の違いについて話した。世界とは何か。

 

その答えは、あなたの見る世界だ。茫漠と広がる自分には手に負えないものではなく、今自分自身が見ている範囲の世界のみが世界で在り、そうでない他者の世界は他者にとってあるもの。

 

他者の世界への介入は困難を極める。だから世界を変えようとしたら自分の世界を変えるしかない。

 

他人を変えることは他人の世界を変えることになるから。人間は誰しも変わりたいと思っている。

 

過去にトラウマを抱え、自分の目鼻立ちにコンプレックスを持ち、競争しては争い、上下の関係を明確に着け、他者の世界に介入し、自身のライフスタイルに不満を持っている。

 

これらをアドラー心理学は考え方を変えることで、自分と自分を取り巻く世界の見方を変えると言っている。

 

原因論と目的論。原因論的考えは過去にこれこれの事象があったから今の自分があると理由付けする考え方である。

 

僕はこの項を読んだとき、自分が原因論側の人間として生きていることを気づかされた。

 

僕は統合失調症を患っており、睡眠導入剤服用しなければ、眠ることも出来ず、薬の効き目が朝方残ってしまい、起きるのが昼過ぎになっていた。

 

目的論はもちろん医学的効果のあるものではなく、精神の持ちようを訴えている。

 

しかし、目的論。これを(未来に)するためにはこう行動するべき、を考える目的論的考えは、僕の生活を一変させた。

 

朝は薬が残っているから起きられないものではなく、勉強や小説を書く時間を捻出するために、朝早く起きると考えを転換したのだ。

 

もちろんその時の調子で、一時的に良くなっただけかもしれない。

 

しかし、ここ一週間、朝眠気に負けて寝てしまって、昼から起きるなんてことはなくなった。それには夜しっかり寝ることも重要だし、医学的根拠があったわけでもない。

 

しかし考え方一つで、生活は劇的に変わったのだ。昼から起きていた時は、やりたいことも出来ずに外にも出られずに、ただ怠惰に時間を過ごしていた。

 

それが朝起きることでリズムが出来、活動的にもなり、結果僕は前よりも達成感を覚えるようになった。

 

アドラー心理学の本質はもっと別の所にはあるが、この変化が自分の中で一番大きかったので、まず言っておきたかった。

 

アドラー心理学で学んだことは多岐にわたる。自分の中で消化できていない部分もあるが、それを文章に表したらかつてないほどの文量になってしまうかも知れない。

 

目的論的考え。それはトラウマの否定でもある。誰しもが持っている過去のトラウマ。

 

アドラーはそんなものに縛られる必要はないと言っている。あなたはあなたに与えられたもので出来ている。

 

そう考えたらトラウマも自分の一部なのだ。自分の一部と思えない、否定したいからトラウマというものの存在を明確にしていたが、

 

そんなトラウマを持った経験をした自分という人間が自分という存在なんだと考えを改めると、ありとあらゆるもので自分という人間が構成されているのが分かる。

 

人間一人として同じ人はいない。生まれた時点でオリジナルなのである。

 

だったら作家を目指している僕が抱えるオリジナリティの悩みも、ゆっくりと溶けだしていく。アメリカには才能をギフト(贈り物)という習慣がある。

 

もしかしたらトラウマもその人だけが貰い受けたギフトなのかもしれない。

 

人間トラウマと同様に自分ではどうにもならないと思う問題に感情がある。

 

アドラーは感情的になることとはと分解している。カッとなって怒ってしまった時、それは相手を屈したいと思う目的があるから大声を上げたり、辛辣な言葉で罵倒したりするのであると。怒ることは相手より優位に立ちたいがため。

 

だからついカッとなってしまったから何をやっても良いことにはならない。

 

カッとなって怒ることはある。でもその一段奥に、相手を挫きたいと思っていることも忘れてはならない。

 

自分が嫌いな人は、何故自分という人間が嫌いになるのか。今言ったようにトラウマ現在とは関係ない。

 

自分に成したいことがあるのなら、そのために努力をすればいいだけだ。

 

とはいえ言うのは簡単だ。嫌われる勇気を読んで、具体的に何をすればいいかわからなかったから、僕は感想を言語化できなかった。

 

僕は割と自分という人間が好きではある。成したいこともあるし、家族から愛されている。

 

それでも養ってもらっているし、恋人はいないし、夢だって叶わないかもしれない。

 

そういう人生をどう生きて行けばいいか、アドラーは導いてくれた。いま、ここ。

 

この刹那的な一瞬を精一杯生きること。それだけが自分が生きている意味を感じられる方法だと。先のことばかり考えてしまうから、不安になる。

 

自分が何者かになりたいと思うことそれ自体は否定しないが、アドラーは特別な存在に成れとも言っていない。

 

特別な数少ないひと握りの人間になるより、平凡に生きることそれも大事なことだと言っている。

 

青年はそれではやりきれない、自分の生きた証を残してこそ自分の生きた意味があるのだと言った時、哲人はキーネーシス的な人生とエネルゲイア的人生という考え方を提示した。

 

キーネーシス的な人生とは目的に最短距離で突き進み、結果を残すという生き方だ。

 

エネルゲイア的生き方とは登山のように一歩ずつ歩んでいくことで、自分の力を懸命に使って目的を果たそうとする生き方だ。

 

目的を果たせないなら意味がないと考えるなら、その人はキーネーシス的な生き方を選択するだろう。

 

しかし、そうでない平凡な人たちは自分の考え方を卑下するのではなく、エネルゲイア的に一歩一歩懸命にその時を大切にし、もし志半ばで果ててしまっても悔いはないという生き方を推奨している。

 

青年は、世界はそんな甘い所ではないと主張する。結果を出すこと。それは勝負の世界に生きるということだ。勝負があれば、勝者がいて敗者がいる。

 

そういう縦の関係を築いた瞬間に、その人は全ての人を縦の関係性で見るようになるとアドラーは言う。

 

あの人は私より下。この人には何をやっても勝っているから自分が上。ドキリとしたものがあった。

 

誰かより優れていたいと思うことは、必ず誰かを下に見るということだ。

 

他人を見下すことは気持ちが良いことかもしれない。競争に勝って勝利することは、栄光を掴めるのかもしれない。

 

しかし、それよりも勝負というものは優劣をつけるためではなく、最善を尽くすことではないのだろうか。

 

世界新記録を出した選手が、どうだ俺より速い奴はいないだろう!と言ったらキャラクターは立つかもしれないが、気持ちの良いものではないだろう。

 

昨日友人とアドラー心理学について話し合った時、勝負の話にもなった。その時彼は、ある化粧品の話をした。

 

その化粧品は普通の化粧品に多く使われる長持ちさせるための防腐剤を入れないで、天然由来の成分だけのもので作った化粧品は、結果として多くのシェアを生んだという話だった。

 

人はモノづくりの時、ただ人間のために良いものを作り出していくだけであって、そこに勝敗は存在しないのではと言っていた。

 

これは勝負の世界からの脱却で在り、縦の関係の崩壊でもある。

 

仕事の本質は良いものを作ること。そこにコンペや戦略があったとしても、最善を尽くすことこそが、人間のなすべきことなのである。

 

だが、もし同じような商品が作られ、シェアを奪われたとしたら、そこで勝負が生まれてしまう。

 

顧客の奪い合いは必然のように思うが、競争はそれ自体が悪なのかも知れない。

 

人を出し抜こうとする狡い人間もいよう、勝つためには手段を選ばないものもいよう。

 

それでも真理として最善が優先される。厳しい考え方だが、選ばれなかったのは戦略的に負けている上に、最善でなかったということだ。最善に勝る武器はない。

 

勝負の世界に入ってしまい勝ち、相手を踏みにじってしまえば、必ず復讐が待っている。

 

どんなことをしてでも上回るんだという感情が芽生えてしまう。

 

それにとても盲点だったのが、人は正しいと思った瞬間に権力争いに足を突っ込んでいるということだ。

 

人は誰も自分が正しいと思いたい。正しさこそが最も価値の在るものだと考える人がいるだろう。

 

僕もそんな人間の一人だ。良さよりも、正しいというものが世界にはあるような気がしてならない。

 

しかし正しいということは、それ以外を悪と決めつける行為だ。正しいものの周りにはおびただしい程の正しくないものが横たわっている。

 

そんな世界は縦の関係しか生まない。正しいではなく良いを目指さない限りは、横の関係は築けない。

 

そして自分は変わった、だが自分を取り巻く世界は変わらないじゃないかと青年は言う。

 

結局のところ変わるのは自分だけであって、他者を変えることは出来ない。変えるなら、貢献や援助という形をとるのがアドラー心理学だ。

 

貢献や援助の考え方は難しい。人が何か失敗や成功した時、叱ることも褒めることもしてはいけないという。

 

そのどちらも相手を下に見ているからする行為だからだ。

 

もし他人に介入したいのなら、自分からまず奉仕の心を持つこと、やってくれた行為があるなら感謝すること、なにか挑戦している人がいるなら勇気が出るように援助する。

 

アドラー心理学の孤独とは他人を助けることはあっても、そこに愉悦は存在せず、他者とは永遠に分かり合えないものだときっぱりと言い張ることだ。

 

きっぱり割り切ったうえで、相手を信頼する。信用のような担保が必要なものではなく無償の愛、信じる他者に一切の条件を付けないこと。

 

厳しい哲学だと思う。しかし、自分の中になかった考え方であったには違いない。

 

こういう本を読んで、酷く影響を受けているのは多分他人から見たらとても恥ずかしいことなんだろう。

 

僕という人間はいたく他人から影響を受けやすい。その反面、簡単に影響を受けてしまったことを認めるのが恥ずかしいとも思っている。

 

この本は僕のバイブルに足り得ない。それほどに漫画的で読みやすく、広くメジャーになった本だからだ。

 

ミーハーになりたくないと思ってしまう自分がいる。しかも後進から知ることによって恥ずかしさは増す。

 

アドラーは自分の心理学が学問の形から姿を変えて、コモンセンス(共通感覚)になることを願っている。

 

それは学んで実践しようとするものではなく、誰もが知っている概念の内に溶け込むことである。

 

でもそれはこの本を読んだ人だからわかる考え方であって、これを読んでいない縦の関係で生きている人たちと相対した時は、酷く心を傷つけられることになるだろう。

 

それでも、人と人とは分かり合えない、勝負という概念は存在しない、誰もが対等な関係であるということを、心にとめておけば、挫けることなくアドラー心理学を信じることが出来るだろう。

 

僕は新しい新興宗教にはまったのかもしれない。それを青年のように論破して否定しようとも思わない。

 

何か新しいものが自分の中で目覚めている感覚があるからだ。

 

嫌われる勇気とは、他者から嫌われても構わないと開き直る勇気。何度もう言うが、他者と自分とは違う生き物なのだから分かり合えることはない。

 

そこをまず前提として対話を始めるべきなんだ。他にもアドラーは概念を分解して見せた。自由とは他者から嫌われること。

 

自由に振る舞えば振る舞うほど、他人から嫌わる。自由とは皆が守っている制約を破ってしまって構わないと思っての奔放な行動だ。

 

ということは、人間は皆制約の内側に生きていることになる。それは常識だ。だから制約を破って自由にしている人を見ると、つい憧れてしまう。

 

でもそれは理性的な行動ではないのだろう。先にアドラー心理学は孤独なものと言ったが、実はそうではない。

 

この本文を読んで見てわかった人もいると思うが、この考え方、アドラー心理学を学んだ人は仲間になれる。

 

そう見てみると、とても新興宗教くさいが、これは考え方の問題だ。今の自分が不幸だと思うのは、今の自分のライフスタイルを自分で選択したからだ。

 

こんな風になりたくなかったと思う一方で、こんなライフスタイルを送っていればこんな人間になるのも当たり前だとも思う。

 

この本で読んで一番の救いは、幸福の形が明言していることだ。「幸福とは他者貢献である」他者からもたらされる褒賞でも感謝でもなく、自分自身が他者に貢献できたことを喜ぶ。

 

場合によっては悪の側にも使える危険な真理だ。

 

読み終えた自分に降り積もった課題は山積みだ。だが、良い学びが出来たことは確かだ。

 

すべての悩みは「対人関係の悩み」人間の問題は理性で全て解決できることを信じて。

 

この本がもっと広く読まれて、皆がアドラー心理学を学ぶことを願う。

 

見ている世界の違い
自分の主観からは逃げられない
変わりたいと思うこと
トラウマ(原因)と結果は結び付かない
原因論(原因があるからあなたは悪くない)と目的論
目的に叶うものを見つけ出す
手段として感情を捏造する
なにがあったかではなくどう解釈したか
自分を自分として受け入れているか
自分に与えられているものをどう使うか
あなた自身が不幸を選んだ
ライフスタイルは自ら選び直せる
幸せになるにはライフスタイルを変える勇気がいる
前に進むことだけがライフスタイルを変えられる
いま、ここの精神
可能性の中に生きるのは心地良いこと
ただひとりでいるなら死も孤独ではない(恐くない)
人間の悩みは、すべて対人関係の悩み
劣等性にどういう価値を与えるか意味付けするか
劣等感は客観的な事実ではなく主観的な解釈
人間誰しもが持っている優越性の追及
劣等コンプレックスAであるからB出来ない
優越コンプレックス自慢してる人がいるならその人は劣等感を抱えている
同じではないけど対等
競争は不幸を生む
勝負の世界はスリルはあるが危険なところ
他者を祝福できないのは自分が幸福でないから
喧嘩を売られたなら権力争いをしてると思え
勝てば気持ちが良いが復讐されることも考えよ
怒る以外の有用なコミュニケーションを身に付けよ
自分が正しいと思った瞬間に権力争いに足を突っ込んでいる
人生の課題(タスク){仕事、交友、愛}
・自立すること
・社会と調和して暮らすこと
・わたしには能力がある
・人々は私の仲間である
ニートが働きたくないのは人間関係が怖いから
嫌いになるために欠点を挙げつらっている
嫌うからこそ敵になり世界は危険になる
賞罰教育の危険性
他者の欲求を満たすために生きているのではない
自分の欲求を満たしてくれるために他者が生きているのではない
他者から承認され続ける人生は嬉しいならば承認されない人生は苦しい
自分の課題と他者の課題を分離する必要がある
たとえ相手が信じられなくても愛す(援助する、見捨てない、介入しない)
自分の信じる最善の道を選ぶこと
他者の課題に介入せず自分の課題に介入させない
課題の分離によって適切な距離を保つ
常識を疑え、自ら切り開け
嫌われたくないなら10人に10人忠誠を誓わねばならない
他者の課題に介入することが自己中心的
自由とは他者から嫌われること
他者に嫌われても構わないと開き直る勇気
全体論(感情、理性、意識、無意識)
共同体感覚(仲間意識)
私にしか関心がないことは自己中心的な考え
自らは世界の中心でない
共同体に所属感を生むことが大事
狭い共同体で齟齬が起きればもっと大きい共同体に所属せよ
叱ってもいけない褒めてもいけない、必要なのはありがとう
縦の関係を否定し横の関係へ
相手を自分より低く見ているから介入してしまう
勇気をつけてあげる援助
自分に価値があると思えたとき勇気を持てる
共同体にとって有益と思えたときこそ価値を感じられる
あなたがはじめるべきだ
誰か一人でも縦の関係を築いているならあらゆる対人関係を縦で捉えている
目上の人に対しても堂々とした意見を
自己受容は出来ないことを認め前へ進むこと
信用は担保があっての取引
信頼は他者を信じるにあたっていっさいの条件をつけない
懐疑は見破られる
仲間となれば自然と貢献し合う
存在レベルで価値のある人へ
幸福とは貢献感である
問題行動の裏返しは復讐
刹那的ないま、ここを懸命に生きる
目的の過程も含めて旅
ここで果てても構わない人生が幸福な人生
人生に意味はない、意味は自分でつけるもの
迷ったら他者貢献