ゲド戦記を観て宮崎吾朗監督へ送った手紙
宮崎吾郎様
拝啓
白色の強い今年の桜もすっかり葉桜に変わり、着々と命萌ゆる季節になりつつあります。次回作に向け、制作奮闘中と思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
僭越ながら、吾郎さん(と呼ばせて下さい)の初監督作品『ゲド戦記』を拝見させて頂きました。
ゲド戦記は、子供の時分で、金曜ロードショーにて、初めて視聴致しました。
その当時は、何を表現しているのか全く分からず、あまり楽しんで視聴できなかったことを、覚えています。
それから時が経ち、大人になってもう一度見返した時、なにかきっかけのようなものを感じ取り、一度、原作小説も読んでみようと、思い立ちました。
本を購入して、ページを捲ると、吾郎さんの描いたよりも前の、ハイタカの幼少時代の話から始まり、ストーリーが進むにつれ、どう吾郎さんのゲド戦記に繋がっていくかが、気になりました。
源流に近いファンタジーの世界、物事の真の名(理)『魔法』に心を奪われつつも、同時に、深く暗い悲しみと、闇も感じました。
それは、吾郎さんのゲド戦記を観ても感じました。それまでのジブリには無い、人間の暗さ。原作も、映画にも感じる、『憧れ』だと私は感じました。
ゲドが魔法使いに憧れたのと同じく、吾郎さんの父、宮崎駿さんへの強い憧れと、挫折だったのだと、そう思います。
遅ればせながら、どうしてこのファンレターを書いたかと言うと、三度目のゲド戦記を観て、私なりに気が付いたことを、伝えたいと思い、筆を取った次第です。
気づいたこと、気づかされたことは、この作品がエンターテイメント作品ではなく、吾郎さんのクリエイターとしての苦悩を、現した作品だと言うことです。
大変に失礼にあたると、自分でも理解していますが、私は原作小説のシリーズを、全て読んでから、この手紙を書いているわけではありません。
アレンが、ハイタカが、テルーが、実際はどんなキャラクターで、吾郎さんがどういう違いを着けて、描いたのかを知りません。それでも、吾郎さんの描いたゲド戦記が、吾郎さんだけにしか描けないものだと言うことを、確信しています。
それは同時に、『宮崎駿』を超える存在になれるのが、吾郎さん以外にいないと、そう強く心に予感しました。
まず、この作品に込められたメッセージ。登場人物や魔法が、何を表しているのか。
主人公のアレンは、まさに、吾郎さんそのもの。
王である父の偉大さに怯え、卑屈になっていた王子アレンが、内に秘めた闇を抱えきれずに、剣を取り、殺めようとした、というところが、宮崎駿さんの父としての大きな背中に、息子としての苦悩と格闘が、まざまざと感じられました。
その後、苦節を乗り越えても尚、澄んだ広い心で、世界を見続けているハイタカとの出会い。
アレンは、ハイタカにも父の面影を感じています。強く大きな賢人。ハイタカはどちらかと言えば、クリエイターの方の「宮崎駿」の姿のように感じます。
ハイタカにも、様々な暗い過去があります。それは「宮崎駿」がこれまで、世の中の評価や期待、それに加えた批評に翻弄されつつも、アニメ監督として作品を作り続け、戦い続けた姿に重なります。
アレンは父を殺め、逃げ出し、自分の影に怯える一方で、ハイタカに命を救われ、魔法と共に世界の理を知ります。
それは死と再生の相反するもの。勝手な解釈をさせて頂きますが、その二つを一人の人(宮崎駿さん)から、同時に感じ取った吾郎さんからこそ、映画『ゲド戦記』が出来たなら、やはりこの作品は、「宮崎駿」の息子の「宮崎吾郎」にしか描けなかったものだと思います。
物語の中でのキーパーソン。傷と痛みを抱える少女テルーは、言うなれば、アニメーション(アニメ)を表していると、感じました。
その「アニメ」とは、今までジブリの作ってきたアニメ、と言うのに近いです。
昨今のアニメには無い、アニメの正常さと言うのが良いでしょうか。アルプスの少女ハイジや、世界名作劇場、未来少年コナンに感じる正常さです。
明るく楽しく、それでいてきれいで、どこか人間のリアリティーより、創作としてのキャラクターを感じる、生き生きとした人物たち。
そんなアニメの素直な部分を、テルーは現しているのだと思います。
そのテルーが、暗く(それでいて志高く)心を閉ざしているのは、現代のアニメには、穢されない聖域のような、清らかさがあるからだと思います。
私は、現在の深夜帯にやっている、いわゆる『深夜アニメ』も好んで観ています。
その中で、キャラクターとうのは、媚びたり、味付けをしたり、物語上必要である舞台装置である、と言うのが多くなった印象です。
それでも、エンターテイメントとして、物語が進化(変化)した形だと思います。
対して、テルーの正体であった気高い竜の姿。それは本来アニメが持つ、本質的な偉大な力の象徴だと思います。
悪漢に襲われるテルーを、狂気じみた理由で、助ける、と言うより、命を投げ出して、運命にゆだねようとするアレンに、テルーは初め、命を粗末にすることを嫌います。
それは吾郎さんが、アニメに向き合った時に感じた、アニメからの大きな壁、拒絶だったのではないでしょうか。
吾郎さんも、アニメを作るにあたって、その部分は、大変に苦悩したと思います。
それまで「宮崎駿」が作ってきた、ジブリっぽい人物たちは、俗っぽさからは相反しています。
「宮崎駿」のインタビューなどを拝見すると、そう言った部分は、執拗に毛嫌いしているようにも思います。
その姿勢があったからこそ、これまでのジブリがあり、これからを担うものとすれば、どう向き合って言ったらいいのか。
想像に難いです。同時に、吾郎さんが、どういう決断と結論を出すのかは、非常に気になるところです。
次にテルーと対照的な、悪役でもあるクモ。
これは、現代のアニメーションを表していると思います。永遠の命を欲さんとするクモの、どんどんと膨れ上がっていく欲望は、俗世の刺激と成果だけを求める、俗っぽさ(クモ自体は俗っぽくない)があります。
人の弱みを握り、手練手管を使って、アレン、ハイタカ、テルー、テナーをも毒牙にかけようとする姿は、まさに欲望の化身。
しかし、クモの動機は、終盤にかけてあやふやになっていきます。
ハイタカを貶めたいのなら、目の前でテナーを傷つけ(殺す)ればいいし、途中からハイタカのことなど、どうでもいいようにも思います。
クモが最後にやろうとしたことは、アレンに絶望を与えること。
テルーを人質に取って、殺めることで、現代のアニメが、古き良きアニメを殺したことを、意味しているのだと考えました。
そして、それでも尚、アニメは死ぬことなく、竜のような偉大な存在になって復活する願いが込められていたのだと思います。
このゲド戦記の世界で、魔法は、アニメの与える影響力と考えます。物語の中で、魔法の力は次第に弱まり、真の名すら忘れされてしまう描写がありました。
それは、アニメの与える正常な力の弱まりを、表しているのではないでしょうか。
その中で、魔法で鍛え上げられたアレンの剣は、吾郎さんのアニメ監督としての才能(敢えてこう言います)。
自分の才能との向き合い方が分からなかったからこそ、アレンは最後の最後まで剣が抜けず、心を決め、その時が来て、抜き払った時、クモの腕を断ち、形を保てなくさせ、最期は復活したテルーの竜の炎によって、浄化した、ということなのだと、勝手に解釈しています。
ただ、言いたいことはまだあります。私も、創作に携わる者として、クリエイターは出来ないことがある、というのは弱点になる、と考えます。
それは、「宮崎駿」の息子、「宮崎吾郎」とすれば、一番に感じるところだと思います。
「宮崎駿」の魅力。それはワクワクする王道ストーリーと、個性豊かなキャラクター、圧倒的な世界観にあります。
物語の随所に、手に汗握る展開があり、何度も見て、分かっていたとしても、涙する程、感動するポイントが幾つもあります。
キャラクターも、尊敬と憧れの念を抱き、悪役でさえ、愛され、或いは恋までさせてしまう。どこまでも広がる世界の壮大さ。
その全部を曝け出さず、一部分だけを切り取っているという憎さも、心振るわせます。
そう言った部分、「宮崎駿」の武器を、「宮崎吾郎」は上回って行かねばなりません。
初めから正面を切って太刀打ちできるか、と言われれば、誰だって慄いて道を譲ってしまうでしょう。
未だに「宮崎駿」の領域に達しているクリエイターは存在していないと思います。その中で、対抗する、とすれば、私はこの作品で言えば、クモの部分。
現代アニメの俗っぽさに活路はあると思います。深夜アニメを作っているクリエイターの中でも、誰しもが、「宮崎駿」の『良さ』を追い求めています。
その良さは、その作り手なりに形を変え、要素であったり、法則であったり、演出であったり、間であったりします。
ゲド戦記の中にも、その片鱗はありました。アレンが野犬に襲われ、「お前たちが僕の死か……」と言うシーンに垣間見えます。あとは技術の問題だと思います。
ラピュタの親方のシャツが弾け飛ぶシーンや、サンがアシタカに干し肉を口映すシーンは、普段の生活の中で、何が自分にとって良いモノかを考え続けていれば、自ずと開けてくると思います。
結論、ゲド戦記をエンターテイメントとしての面白い、面白くないではない、思いを込めた作品と位置付けるならば、「宮崎駿」にも出来ない、血の通った物語でした。
私も、創作に携わる人間として、その姿勢に見習いつつ、今後、吾郎さんの作る作品が、非常に楽しみでもあります。
これからも、『宮崎駿』には出来ない、『宮崎吾郎』作品を作って下さい。
敬具