柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

他人を見下す若者たち 感想

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私という人間は、あまり出来の良い方の人間ではない。

 

生活水準も今のところは食うに困らない程度だが、これから先はもっと厳しくなっていくと思う。

 

そんな中で、自分の何が高められるかといったら、実質的なものよりも精神的なものに期待するしかない。

 

頭が良くなったり、性格が良くなったり。良くなったりということは、今はあまり良くないということだ。

 

先日、バカの壁という昔のベストセラーを読んだが、内容は理解できても、やはり自分はバカ側の人間なんだということが身に染みた。

 

 

そんな私は、自分程度の者以下の者に対する視線が冷たい。

 

自分という人間が誇らしい人間でもないのにもかかわらず、それ以下の行動をする者には、軽蔑の視線を送ってもいいと自分に思い込ませてきた。

 

しかし、マウントを取ることが定石になってしまった現代で、先に相手を見下しておく術や、周りをまず見下すところから人間関係を作ることを始めようという岡田斗司夫の言葉に疑問を持った。

 

何故、私たちは他人を見下すようになってしまったのか。

 

それが知りたくてこの本を読み始めた。現代の若者たちは、少子化が進んだことから、集団主義から個人主義の社会に変わって、大事に育てられてきた。

 

更にテレビや携帯・インターネットの普及により、若者だけでなく現代人が個人の世界を持ちやすくなった。

 

個人主義は自意識を高めやすい。しかし、バーチャルな世界が進化すると、実質的な経験を積む機会は減っていった。

 

そのことにより、人々は共感性を失っていった。テレビやインターネットは大人の汚い部分を露わにして、あまつさえ笑い者にし、社会の規範を失わせた。

 

子供たちは大人を軽んじるようになり、子供と大人のパワーバランスが崩れていった。

 

経験も実績もない若者たちは、相手を先に見下しておくことで、自分の自意識を保つ術を覚えた。

 

人を見下すというのは、一種の防衛方法だったのだ。人を見下してなくちゃやってられないよ、ということだろう。

 

私たちは何にそんなに怯えているんだろう。

 

昔は怖いものといえば、お化けとか殺人鬼とか暗がりだったが、今は形のない悪意が自分の不意を衝いて攻撃してくるのが怖い。

 

損するのが怖い。決定的な不利を背負うことが怖い。皆が怯えているから、いつも自分を律して戦闘態勢に入っているのだろう。

 

私は友人が原因で障害を負ってしまったが、気の置ける友人ですら今は少し怖い。

 

しかし、怖がって戦闘態勢に入っている人に、誰が手を差し伸べてくれるだろうか。

 

もっと心を開いて、穏やかにしている方が、人は寄ってきそうなものである。

 

寄ってくるとは言わないまでも、話しかける態勢、状態になっていることがコミュニケーションのスタートではないだろうか。

 

威嚇しているのが自分も相手もだったら、話にはならない。しかし、皆が皆ナウシカを求めていると考えると、現代人はみんな心が病んでしまっているのだと思う。

 

これからは愛についても勉強しなければならない。

 

相手を見下して、勝った気になるのは一種の快感だ。それまで自分が不利な立場にいるならば、余計にそう感じる。

 

しかし、その道に入れば、人の悲しみに共感が出来ず、人の不幸は蜜の味などといってしまう人間になってしまうのだろう。人の欠点をあげつらうことを、善行と思っている人たちがいる。

 

類に洩れず私もそういう人間だが、自分の正義の名の下に31年生きてきたが、正義を振りかざすこと、真実を明らかにすることは、正しいことであっても、結局は不快に思われるのが常だ。

 

今私は、自分の個性を信じて正義を貫き孤独になるか、自分の言いたいことを隠して相手に合わせるか悩んでいる。

 

このバランスを上手くやっている人が、人から尊敬される人間関係を築けるのだと思うが、私はこれまで自分の言いたいことははっきりと言ってきた方なので、この加減が分からない。

 

多分人と会った時は、相手の話をまず聞き、自分の話はこうしてブログなどで消化するのがベストなんだと思う。

 

恐いから、怯えているから先に見下すと先に言ったが、見下されたくないから見下しているというのもあるだろう。

 

そうなった時、大半の人間は実績を積んだ人たちからは見下される対象になってしまい、そんな人たちとは関わり合いを避けるようになる。

 

どんどん人間関係は狭くなっていく。集団主義が先行していた時代では、先に謝るという手法があったそうだ。

 

障碍者として、先に障害を告白することがそれに似ているが、やはり同種の人からはそれでマウントを取ってくる人もいる。

 

自分が負っている傷があるんだから、人が人を傷つけてもいい、自分はこのくらいやった、出来た人間なんだからお前にもできるはずだというのは、暴力だと思う。

 

本当に本当ならその本人になってみないとその人の問題がどういう物なのかはわからない。

 

俺じゃないんだからお前に俺の気持ちはわからない!と言ってしまいたくなるのも分かる気がする。

 

だったら先に見下して、自分は自分だけの甘い世界に浸っている方が安心出来る。

 

いつも変わらないものだけを愛でている方が、傷つかないで済む。

 

そんな人には結局、損が降りかかり、人は一生勉強しなくてはならない生き物であることも事実だ。

 

誰もが安心して暮らせる社会ではない。そんな中で、人は人を愛せるのだろうか。