柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

自分のために生きるか他人と共に生きるか

私が小学校から中学校の位から、ゆとり教育は始まった。

 

相対評価で不公平だったそれまでの成績の付け方も絶対評価に変わり、点数が高ければ良い評価を貰えるようになった。

 

その時は意識していなかったが、個人を大切にする教育方針というものも取られ始めた。

 

進路を聞かれると、何かやりたいことはあるのか、得意なことはあるのか、自分とは個性とは何かを問われ、その度に自分という人間はどういう人間なのだろうと悩んだ。

 

齢14~15の子供に自分とは何かと問いかけられても、自分という人間を理解していないのに、一体何を決めれるんだろうと頭を抱えた人も多かったのではないだろうか。

 

自分探しをテーマにした歌が流行ったり、旅に出てしまう大人もいた。

 

自分とは何かなんて漠然とした問題を、私は今でも答えられない。自分という人間が何が好きで、何に怒り、どこに属していて、他の人とどう違うのか30を超えてようやく少しだけ見えてきた位だ。

 

自分という存在が見えてくると、他人との違いに驚く。他人との考えの違いに今となっては、どう向き合えばいいか自分なりに手探ることが出来るようになって、初めて他人と対等に物事を話せるようになった。

 

中学生の頃、両親に進路を変更したいと言った時、それでは将来に困るという理由で、行きたくもない工業学校に進むことになった。

 

本当はその当時付き合っていた彼女と同じ商業高校を目指すつもりだったが、それでは就職先がないと言われ、泣く泣く進路を変更した。

 

その時、じゃぁもう言う通りにすればいいんだろ!と匙を投げたのを覚えている。

 

結局最後は自分たちの意見を通すのだったら、最初からそう云う風に生きてくれと言っておいてくれと思ったのだ。

 

ようするに、この両親は子供の幸せよりも、子供が早く自立することで、自分達の手を煩わないようにしたいのだと恨んだ。

 

多分そんなことはなく、仕事にさえ就ければ、自分達のように子供を作ったり、家を買ったりすることが出来るというのを、自分の経験値から言っていたのだろが、

 

そんな思いは、今になってからでは気づくことが出来ず、障害となっている両親が自分の中で途轍もないコンプレックスになっていた。

 

しかもその時、私の進んだ工業高校には知り合いが一人もおらず、中学生の頃に人気者になった地位が0の状態に戻ってしまい、1から友達を作らなければならなかった。

 

あのまま自分の言う通り、商業高校に進んでいたら、男子校の陰湿で粘着質な性格にもならなかったのではないかと今でも思う。

 

更に当時は、家は貧乏だからと耳にタコができるくらい言われていたので、もし公立の高校に受からなかったら、働くつもりでいた。

 

冷静に考えて見ると、どうにかして学費を工面して、私立の学校に通わされたのだろうが、その時は公立高校に受からなければならないと、自分自身をも洗脳していた。

 

面接の時も、憧れはあったが、何の知識もないバイクについて、オーダーメイドのバイクを作る工場があると、テレビでやっていたのを真に受けて、

 

自分はそこで働きたいんですと、工業の世界がどれほど自分に合わないかもわからずに、真正面きって面接官に堂々と言っていたのを覚えている。

 

受験勉強のお陰でブーストした私の頭は、なんとか志望校に受かるだけの成果を上げたので、自分の力量を遥かに越えた学校に入ってしまった。

 

その中で、学期の最初のテストで、苦手な数学で98点を叩き出してしまったのが、全ての元凶だっただろう。

 

勉強しなくてもテストで点が取れるのだと勘違いして、それから一切勉強をすることはなかった。

 

やらされていた勉強は頭に記憶はされていても、更新することがなくなれば古びていく。

 

それでも授業は毎日あるし、やらなければならないことは、見る見るうちにたくさん降り積もっていった。

 

その当時、せっかく作った友人関係も、喧嘩をしてしまったことから0に戻ってしまって、本当に地獄のような日々を過ごした。

 

そんな時、家庭科の担当をしていた担任の教え子が、ファッション業界のことについて、講義してくれる機会があった。

 

中学校の頃うちの学年では、古着が爆発的に流行った。古着というより、ファッションについての関心が高まった。

 

人気があるカースト上位のクラスメイトは、こぞってブランドのポーチを身に着け、宇都宮にあった古着屋やSTUSSYの専門店で服を購入したことを証明する、ビニール袋や紙袋を提げて学校に来た。

 

あの時自分はそれに乗り遅れていて、ほとんどユニクロで上下を揃えていて、それを笑われたのを今でもずっと根に持っている。

 

それ以来、自分にとって良い服を着ることが外に出るための武装になって、自分の自尊心の根っこに根付いてしまったのを自覚している。

 

そんなファッションに、自分の将来を賭けてみたいと高校の頃思った。ついに自分というものを見つけた思いだった。羞恥心から生まれたものだけど、これは確かに自分というものを表している。

 

良い服を着ると自信が湧いてくる。自分という人間が少しまともになった気になる。

 

学生の頃は、他人からオシャレだね、だなんて言われたことはなかったが、自分はオシャレが好きなんだということは確信していた。

 

その当時、逃げ場所だった小説もあったが、自分という人間はもっと外に出て良い、外に出て活躍すべき人間なんだと思っていた。

 

両親に服飾の専門学校に通いたいと言うと、猛反対された。自分自身を真っ向から否定された思いだった。

 

確かに勉強はしてこなかった。辛い勉強を我慢してやっていい成績を残すより、その時の気分に任せて奔放に学生生活を送っていた。

 

そんな生活が楽しかったわけではない。常に自分の無力さを垣間見ながらの逃避は、辛い以外の何物でもなかった。

 

両親に反対された時、自分の好きなことをやりたい人は、必ずその前に我慢をしなければならないんだと思った。

 

家を飛び出して、裸足のまま立体交差の道路の階段で、中学最後のバスケの大会で、自分のせいで負けてしまった時と、同じかそれ以上の涙を流した。

 

この世が全部真っ暗なんだと思った。一頻り泣いて、家に帰ったがそれから数年家族とは心を閉ざすようになった。

 

自分の味方なんて一人もいないのだと思った。そんなに行きたいなら、自分で稼いだ金で学費を払って専門学校に通えと言われて、家族とは何て冷たいんだろうと思ったが、実際何百万と学費を払うのは大変なことだ。

 

それに自分のような人間が、東京で独り、生きていける気がしない。

 

学費を払ってもらったとして専門学校に通っても、日々の生活資金をバイトして稼がねばならず、結局のところが苦行が疎かになり、グズグズになってしまっただろう。

 

それに自分や他人を煌びやかに着飾る世界で、自分が一線で活躍する人たちに、引け目を感じて卑屈になっていただろうということも容易に想像出来る。

 

突出するものがなければ生きていけない世界ということもないだろうが、多分負けず嫌いな自分は、自分が負けていることが嫌になって、また目を反らしたのではないかと思う。自分には二軍で甘んじれるような要領の良さがない。

 

かといって一軍で活躍できるほどの才能もないだろう。ようするに平凡より、少し突出したいくらいの欲求しかないのだ。

 

自分は普通じゃないんだと思い込みたくて、だからといって変態とか特別だとか言えるような大きな特徴もない。

 

我ながらなんてつまらないやつなんだ、なんて面倒臭い奴なんだと思う。

 

そんなこともあり、高校の担任に言われるがまま、中小企業の上の方に位置する工場に就職することになった。

 

働いていても、自分はこんなところにいる人間じゃない、金を稼いだらすぐにでも辞めてやると思っていたが、勤続年数がかさむ度に、ファッション業界への夢はかすれていった。

 

20歳を過ぎ、自分のようなおっさんが今更、若い人たちに紛れて、同じセンスで厳しい競争の中を生きていけるのかと疑問に思ったのだ。

 

そう考えると、また自分という物の存在があやふやになっていった。ただ食って寝て働くだけの動物。まったく生きていなかった。

 

こうなるまで、自分は自分のためだけに生きていたが、それを周りが許さないという状況が続いていた。

 

そこから飛び出た人たちが夢を掴んだり、或いは更に転落してどん底に落ちるのかもしれないが、結局のところ自分は、誰かに守られた状況の中でしか、何もできないと思っていたのだろう。

 

自分なりの何かを見つけると言うよりも、自分を取り巻く状況の中で、何をしたら周りから一目置かれるのかを考えてばかりいた気がする。

 

障碍を負って、社会からドロップアウトした今になって、私という個人は、両親から半分ずつ遺伝子を貰って、三人兄弟の元で育って、

 

小中高と学校に通ってきた経験と、その間何を思い、何が好きになったかで出来ており、それは私という個人が周りの影響でも人格を形成してきた人間だということだ。

 

今私は、家族のためにコーヒーを淹れたり、料理を作ったり家事をしている。

 

それは周りの負担を軽くすることでもあるし、それによって自分の存在を集団の中に作るという生存戦略でもある。

 

遠く離れた土地で、独り立ちする勇気も力も欲望もない、それでも何者かになりたかった自分の、居場所は他者の中にあった。

 

自分を満足させるために他者がいて、そんな自分を冷たく俯瞰する自分が後ろのほうにいる。

 

お前はその程度で満足しているのか?と若い頃は思っただろうが、30を越えると、新たなる挑戦をするためのエネルギーが自分の中で湧いてこない。

 

これから先は、この自尊心とどう向き合って、平凡に生きていくかが要だと思う。

 

今庇護してくれている両親が死んだら、そこからまた何か考えるときが来るのだろうか。

 

本心を言えば、大学に通ったり、服飾の専門学校に一度は通ってみたいと思う。

 

そのための資金はないので、これは一生抱えていかねばならない棘のように尖って心に刺さっている夢の欠片なのだろう。

 

人生は一度きりしかないのだから、どうにか成仏させておきたい願いだ。個を貫く時は、天涯孤独になる覚悟をするか、

 

それが嫌だったら、周りが認めてくれるように実績を、早いうちから積んでおくことが必要だ。

 

私はそれが出来ずに、結局のところ周りに依存する形で、ずるずると歳を重ねてしまった。

 

そのことにやっと気づいて、こう思いを記せるようになったことは、何かしかの救いなのかもしれない。