柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

影響について

 

太宰治『人は人に影響を与えることも出来ず、また人から影響を受けることも出来ない』

 

人が人に与える影響というのはいか程のものか。

 

僕はアニメを見るのが好きなのだが、そのアニメの影響を受けて趣味を増やすことが多い。

 

けいおん!に触発されてギターを買い、弱虫ペダルを見てロードバイクに乗り、ゆるキャン△をみてキャンプ道具をそろえ始めた。

 

それらを買い、趣味にすると決めたのは、アニメの影響でその趣味を始めることで、その一時だけでもアニメのキャラと同じ空気を感じられるからだ。

 

その間に、ギターを部屋に飾るとどれほどオシャレな気持ちになるか、ロードバイクで走るとどのくらいで自分が疲れるのか、スキレットの重みや、キャンプとはいかずとも、仲間たちと外でBBQをして宴をするのは楽しいひと時が過ごせる。

 

それでも自分に根付いた趣味はほとんどない。

 

ダンベル何キロ持てる?で、ジムに通ったものの、金銭的な理由で続けられなくなったし、結局ストレスのないものしか身の回りには残らなかった。

 

ようは出来るものしか残らないのだ。出来ないものをやろうとするストレスを感じるより、出来ることだけをやって心癒すのが趣味だ。

 

太宰は人は人に影響を及ぼすことはできないとする名言があるが、アンチ太宰の僕としては、その真意を疑わずにはいられない。

 

僕自身他人に影響を受けやすい性だ。

 

友人からは、そんなに影響を受けて恥ずかしくないのか?と言われる始末だ。

 

でも自分としては良いものは、どんどん取り入れていきたいと思っている。

 

僕の周りにある僕に影響を及ぼすものは皆、僕がそれを取り入れたいと正しく判断したつもりのものだ。

 

だからそれは周りに影響されて始めたことというのも合っているが、自分が本当にやりたかったと願っていたのもが、たまたまアニメで放送されて、一緒に始めるきっかけを得たと云う事なのかもしれない。

 

僕自身他人に影響されることを恥ずかしいと思っていない。

 

影響を及ぼすものの中に正しさを感じられるうちは、自分の中に恥ずかしいという気持ちは生まれない。

 

ギターは弾けるようになっていないし、ロードバイクにも乗っていないが、やっていた時は確かに楽しかったし、それだけで満足している自分がいる。

 

ただ、趣味を深めることが出来なかったことは、恥ずかしいというより勿体ない気がする。

 

せっかく高い金をはたいて買ったものなのだから、機能的な限界を感じるところまで使いこなしてみたかった気がするが、実際そう出来なかったのは、そこが自分にとっての限界値だったのだろう。

 

その時だけ楽しければ、オールオッケーな考え方は、随分とブルジョワだが、そうやって僕の上を通り過ぎていくそれらを、惜しんだりはたまた拒絶したりすることは無い。

 

そこまで深く付き合うことがなかったと言ってしまえばそれまでだが、今は楽しい時間をどうもありがとうとしか言えない。

 

もしのその先に向かうとするなら、それはもう自分一人だけでは解決しないものだから、他人の力を借りるほかないと思う。

 

だからこそ、仲間を見つけて道具をそろえだしたのだが、それを実りにすることが出来ないのは、縁がないという他ない。

 

もしくは一人で始められて一人で完結する趣味をすればいいのだが、影響を受けて始めるものと言えば、何人かで協力して、その協力している様を味わいたいのだから、やっぱり一人で始めるべきではない。

 

唯一続いているのは、執筆活動くらいで、始めたきっかけは、本を読んでいて自分もこんな物語を書いてみたいと思ったのがあったが、これはやはり一人で完結することで、誰かと共有できるものではない。

 

共有してやりたい気持ちもある。仲間と一緒に一つの物語をつくるという目標を立てたこともあったが、これこそ意見の衝突があって、協働は出来なかった。

 

その際、仲間たちの意見に影響されることは無い。

 

あるとすれば、自分の中に溜まったそれまで見てきた物語の澱のようなもので、それだって、分がその物語を見て、自分の中にある好きと合致するものだったから、

 

触発されているのなら、それは太宰の言う通り、人から影響を受けることも出来ないと云う事なのだろうか。

 

それでも他人にも影響できないというのは、作家として言ってしまっていいことなのだろうか。

 

・突然ですがあなたは、『コーヒーにしますか? 紅茶にしますか?』と質問されたら、どう答えますか?もし、あなたが『コーヒー』を答えたら、実はそれは親の真似事です。もちろん『紅茶』と答えたあなたの判断も物真似なのです。なぜかというと発達心理学のデータで成人が大人になってから無意識に下す判断の内の8割9割が親の真似事だと言われているからです。つまり無意識での判断は親の刷り込みによる判断になっているというわけです。

 

自分の行動は(ほぼ)全て親の影響と言うのは、自分が生まれて初めて真似をする対象が一番身近な親であること。

 

一緒に暮らしている中で、作った料理を同じように家族で食べるなら、好みも必然的に似通ったりしていくんだろう。

 

人間の能力は、両親から遺伝として受ける影響が8割~9割あるそうだ。

 

それは歳を追っていくごとに、両親の特徴が自分に表れて、どんどん似ていくらしいのだが、その中で個性を出すとすれば、父親と母親の間の子というアイデンティティしかないのかもしれない。

 

あとは気質の違いや、性別や生活習慣で個体差が出るとかで、両親が嫌いだったなら、その嫌な部分が顕著に似てくるわけで、そうなったら自分がどんどん嫌な人間になっていくような感覚があるのだろうか。