柳 真佐域ブログ

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私とは何か「個人」から「分人」へ~「本当の自分」幻想~ 平野啓一郎

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「本当の自分」なんて大々的に銘を打つなら、アイデンティティを揺らがせるような大評論を聞きたかった。

 

目新しい発見もなく、正直退屈感を抱いた。

 

身近な事例から「本当の自分」とは何かを探求する書き筋も印象が良くない。もっと頭のいい話を聞きたかった。

 

手堅く置きに行った印象が強く、その程度では高校生は騙せても、大人には通用しないぞと思う。

 

ジェネレーションギャップを感じる世代なら、痛烈に批判してくれても良かったし、それでもこのくらいの世代は、若い人にもすり寄りつつ、古参には当たり障りのないこの程度話しておけば良かったのか。

 

本当の自分について。もっと奥深くに眠る人格レベルの話をしてくれることを期待していたが、所詮はペルソナ。掘り下げろよと思う他ない。

 

僕は本当の自分というものを常に自覚している側の人間で、なるべく他人には本音で話そうとしている。

 

それでも本音で伝わらない部分を包み隠し、もどかしく思うことこそが人間の在り方だと思っているし、他人によって使い分ける分人があるからこそ、人間は本当の自分を自覚しやすくなると言われても、それは甘えですよね? と言わざるを得ない。

 

本当の自分でぶつかるからこそ真に価値のある時間が作れるのであって、自分はこういう人間なんだと伝える実りのある努力をしないで、こうは思われたくない。

 

それは本当の自分ではないなんて言うのは、不勉強だし怠慢だ。

 

分人を作ることを良しとし、その中で本音で話せる人を大事にしていきましょうねとも言っていないし、ただ分人という考え方がありますよ。

 

それを使い分けてみんな生きていますよと言われても、そんな小癪なテクニック有して生きたくはない。

 

つまらない生き方だと思うし、どっちにせよ齟齬が生じると思う。

本音でぶつかってくる奴は確かに疲れる。

 

僕も今の生き方のまま、自分の周りの人間関係がこのまま築いていけるかは分からない。それでも、小癪に仮面を付け替えて、かつ個性的に生きましょうなど、何のために書いた評論なのか疑う。

 

著者は結局、こういう事実があります、あなたのそれ分人ですよ、というだけで、じゃぁあなたたちはどう生きますか? やこんな風に僕は生きています、どうでしょうか? とも言わない醜悪なこの人を僕は嫌います。

 

だが、嫌うからこそ、そこに分かり合えない壁があるのを感じるし、この壁こそ、自分が周りの人に感じている壁の正体だと思うので、勉強したいと思う。

 

本音で話し続けていくというのは危険な行為だし、そこで仮面を付け替えるテクニックを使うことで、自分を守ることが出来るなら、今実践している本音を包み隠して続ける関係が、今後自分の生き方の指針となる場合も考えられる。

 

強く思うことは、対局の生き方を使い分けることによって、達者であったり、逞しく生きられるのかもしれないという希望。

 

様々な人の意見を聞くことによって、自分の中に他者の視点を入れることは、勉強以外の何物でもない、終わりのない探求の学問だと思うのであった。