作品の“重さ”について
重い作品というものがあるので、語ってみる。
作品の重さというものは何か。
これは昔友人から、友人の同僚がジブリで働いていて、宮崎駿に言われた言葉から、意識するようになった言葉だ。
「この絵は重さが足りない」
と、彼(友人の同僚)は言われたらしい。
友人は「意味わかんないよね」と言って笑っていた。
その時僕は、確かにわかんないかも(笑)と笑っていた気がする。
しかし、物語に触れるたびに、これは重い、こんな軽いものは読めないと、つい感じてしまうものがある。
重さの定義についての話だが、結論は出ていない。
条件を洗っていても、それだけじゃ不十分だと感じるからだ。
絵でも文でも、重い作品と感じる時、そこに条件があるはずだ。
・文章が堅い(難しい言い回し、漢字が多い)
・テーマが重い(命やアイデンティティに関わり、それを切実に思っている)
・リアリティがあり、共感のレベルが高い(トラウマ)
・考えが高度(頭が良い、奥行きがある、学術的)
それに加え、あまり論理化できていないが、生っぽいのがあると思う。
絵でかくなら、直にペンで書いた絵。それも毎日画材を使って描いていること。
文章で書くなら、いつも本音で話していること。
重さというのは、思いの重さという人もいる。
抽象的だが、そこに賭けられる覚悟と、積み重ねた技術と、魂をぶつけるという本音の部分がある物こそが、重い作品となると思う。
だから友人が金の為に、薄っぺらい小手先でお金を稼いでいるのに、なんら重さを感じないでいる。
自分の文は重いのか、少なくとも本音で書いてはいるが、言葉を知らないし、技術も足りない。
技術で描くことは薄く軽い気がするし、技術の足りないものも重くはならない。
宮崎駿のデザインは決して重いというデザインではない気がする。
しかし、軽いとも思わない。
アニメーションにする時に、デザインの情報量を少なくすることによって、表情をつけやすくしている手法だと思う。
情報量が多い作品が重いのか。
それもちょっと違う気がする。
塗が細かい絵、叙述トリックや読みづらい文が、情報量があるかといえば、それも違うし、重いとも言えないと思う。
そんな中、今読んでいるリーンの翼は、相当に重い。
むしろ重さしかない。
しかし、重いだけで読み込むには十分で、その重さこそ宮崎駿に一泡吹かせた富野由悠季の成した業なのだろう。
知人から勧められた、『本日はお日柄もよく』は軽かった。
僕はこれからもどんどん重い本を読んでいきたいと思う。
もちろん重いだけの作品ばかりではなく、軽い本(とはいっても必ず癖がある)の良さも感じつつ、500冊を目指して、重い本を探し続ける。