天気の子
新海誠の最新作である(だいぶ賞味が過ぎた感はあるが)天気の子を調べてみた。
新海誠が、世界一受けたい授業に出演した時に、天気の子というか自身の作品の元ネタについて語ったらしい。
新海誠の作品は、どれも和歌や昔話から着想を得て、物語を作っているようだ。
新海誠「昔から語り継がれている物語には、普遍性があって面白くて学ぶべきことがとても多いんです。昔ばなしを現代風にアップデートしているのが僕の映画だ、というふうに言えるかもしれません。」
天気の子に関しては、新海誠自身が証言している2つの物語(一つは和歌)がある。
一つは、とりかえばや物語。
↓Wikipedia切り抜き
関白左大臣には2人の子供がいた。1人は内気で女性的な性格の男児、もう1人は快活で男性的な性格の女児。父は2人を「取り替えたいなあ」と嘆いており、この天性の性格のため、男児は「姫君」として、女児は「若君」として育てられることとなった。
もう一つは、夢と知りせば「小野小町」
原文:
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」
ひらがな直し:
「おもひつつぬればやひとのみえつらむ ゆめとしりせばさめざらましを」
現代語訳:
思いながら眠りについたので、(あの人が)夢に現れたのだろうか。もし夢とわかっていたなら(夢から)覚めなかったろうに。
それに加え、作中に出てくる東海龍王の伝説「晴娘」、
昔、中国の都に晴娘(チンニャン)という利口で美しい娘が住んでいました。
晴娘は切り紙が得意で、その腕前は王侯貴族達も買い求めに来るほどでした。
ある年、晴娘の住む都が連日の大雨で水害に見舞われました。
大水から家の屋根の上に逃げ延びた晴娘に天から声が響きます。
「東海龍王が汝を太子の妃にとご所望だ。従わなければ都を水没させるぞ」
晴娘が「従いますから雨をとめてください」と応えると、一陣の風と共に彼女の姿は消え、雨がやんだのでした。
その後人々は雨が降り続くと娘たちに人形の切り紙を作らせて門に掛けるようになったということです。
が元ネタになっているらしい。
やっぱりかぁ!やっぱり売れる作品は古典から着想を得るのかぁ!
そりゃぁそうだよなぁ。実際、世界に向けて日本の芸術作品を発信するなら、日本原産のそれも、いまだに難解であるし、その分十分なクオリティの古典から引っ張ってくることで、屋台骨をしっかりと固める。
一流のクリエイターは発想だけでなく、しっかりとした設定で地固めすることで、そこに自分のオリジナリティをエッセンスとして入れ込む。
宮崎駿だって、ナウシカは「地球の長い午後」というSF小説から来ているというし、千と千尋の神隠しは銀河鉄道の夜を自分なりに解釈したというし。
しかし、小野小町の和歌、えっちだな。
このえっちさは童貞の大好物だってのを新海誠は分かっている気がする。
でも、天気の子はつまらないと思う。
幾ら古典から引っ張ってきたからと言って、それをエンターテイメントにしちゃぁダメでしょ。
言の葉の庭みたいに文学にするからこそ、新海誠の真価が発揮されるというのに。
売れる作品を作る(結果を出す)+自分の趣味も入れ込む宮崎駿はやはり凄い。
あそこまで自分の中で作品を取り入れ、混合させ、消化したものを新しく生み出す人はいない。
一般的な目線でも、天気の子はキャラクターを愛せないし、RADWIMPSの曲に合わせてのアオハルシーンは臭いし、ストーリーの合理性もない。
天気の子のラスト当たりのシーンで東京が水没するシーンがあるが、あれはポニョのようなファンタジーと新海誠の世界観である現代ドラマの融合だったのかもしれないが、よろしくない。
君の名はと繋がっている世界でもあるのも僕は腑に落ちていない。
前作主人公を出すことで、ファンサービスを行ったこと+僕の作品は繋がっているんですよと安直に伝えてしまったのが、悪手だったと思う。
何かしかの意味合いが込められているのかもしれないが、次の新作を見ないことには判断できない。
ただ、天気の子を観た時に感じたあのつまらなさに、ロードショーで観ればいいか、と思ってしまうんだよなぁ。
もうエンターテイメントに振り切った新海誠に興味が持てない。
君の名はで売れる作品を作ったことで、世の中の求めているのはこれでしょ?
と、自身のフェチシズムを封印してしまったことが残念でならない。
あの頃の新海誠を返してほしいが、ポスト宮崎駿になってしまった今、痛い目を見ない限り変わることは無いだろう。(還ることは周りが許さないだろう)
新し映像は作れるかもしれないが、新しいストーリーは作ることは出来ないんじゃないかという予想に、感化されている。
絵作りにこだわっても、新海誠の綺麗な東京、庵野秀明のエヴァ(エヴァっぽい見せ方)には飽きてしまっている。
そう考えると、宮崎駿は化け物だな。
各作品にファンタジーは共通するけど、どれも世界観がガラッと違ってくる。
どれもツボを押さえていて、何度見ても新しい発見がある。
岡田斗司夫のゼミを見てもそうだが、作品に対する深め方が違過ぎる。
それでも、最近ジブリに飽きている自分もいて、よく30年も普遍性を保ってきたなと思う。
言の葉の庭は、30年耐えられる作品だろうか。
映像美としては、秒速も言の葉の庭もまだまだ見続けることが出来る。
二つは、ハリウッド映画のようなCGの発達した映像美としての限界に近い作品であると思う。
美を追求させれば新海誠の右に出るものはいないから、美に合った美しい作品。
そういうレベルの作品が見たいなと思う。
でも、天気の子って、キービジュアル見るに、陽菜がキービジュにある雲の上の草原に、頻繁に行ける超能力者で、そんな陽菜の謎を解いていく話だと思った。
やっぱり自分の思っている話以下の物語だったから、がっかりしたんだろう。
本田翼のお姉さん役もハマってなかったし、個人フィルム感が強いよなぁ。
なんjじゃないけど、リア充に憧れる新海誠の陰キャ感が出てしまった印象を受ける。
てか本田翼のお姉さんキャラじゃなくて、陽菜自身がもっと精神年齢上に設定して、帆高とオネショタした方が、フェチが出たと思う。
変に陽菜が幼いのが、帆高との幼稚なアオハルを演じなければならなかったのだろうし、うん、やっぱりもっとミステリアスなキャラにする方が絶対に良い。
まぁ、現代っ子たちには新海誠の描く天気の子の方が、身近だろうが、それはやっぱり安直と言わざるを得ない。
和歌が基盤になっているなら、真似してやろうじゃないか。
僕が書くストーリーの方が上だと云う事を知らしめる良い重りだ。