柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

フードバングについて

今日、一つのイベントに参加した。

 

NPO法人のユースサポーターズネットワーク主催の、地域づくりチャレンジ2daysというイベントだ。

 

先々週にオリエンテーションをして、地域づくりの活動を行っている4つの団体の紹介があり、そのうちの一つの「フードバンクうつのみや」と今回オンラインイベントという形で、活動内容の説明を受け、質疑応答をした。

 

4つあった団体の中で、何故フードバンクうつのみやを選んだかというと、私、柳真佐域は現在障害年金で暮らしており、

 

幸いに家族の助けを借りて、実家住まいをしているが、もしこのまま病気の症状と折り合いがつかなくなったり、就職やなんらかの方法で収入を得ることが出来なくなったら、

 

自分がフードバンクを利用することになるのではないかと危惧したからである。

 

4つの団体の内で、ずっとやりたかった夢でもある廃校プロジェクトもあったが、夢を抱くよりも前に、自分の足場を固めなければならないと思い、フードバンクなるものがどんな団体か知ろうとしたのである。

 

まず自分の無知と情報取集についての甘さを恥じたい。

 

私という人間は、分からないことがあったら、なんでも聞けばいいと思っている人間だ。

 

しかし、高度情報化社会の中で、それは楽をしたい愚者の選択だ。高度に文明が進んだ社会では、聞く前に調べる。

 

徹底的に調べたうえで、分からないことがあったら、それを小出しに訊くのが常識である。

 

しかし、餌を待っている燕の雛かというほどに、私は提供されていないものに対しての、自分からのアクセスの能力が著しく低い。

 

しかも、自分の欲しい情報しか求めていない節が多々ある。多分、フードバンクに対しても、自分が食に困ったら、助けてくれるありがたい団体としか認識していなかったのである。

 

今回、色々と質問して丁寧に答えてもらったが、そのうちの幾つかは、訊かなくても調べれば分かることで、イベント参加者の前で訊くことは、自分の無知を晒していることになっただろう。

 

自分の知らないことだから、世の中の人も知らないだろうと思い込む癖は直した方が良い。

 

人生に失敗はしているが、失敗から学ぶような経験値が浅い私のような人間は、苦労を買ってでもしなくてはならない。

 

今までの人生を振り返ってみると、何かに守られてきた人生だったと思う。

 

学生時代は、家は貧乏だと耳にタコが出来るくらい言われ続け、「あぁ、家は貧乏なんだ。じゃぁアレとアレは出来ないんだ」と諦めてきたが、

 

それでも貧乏だからと言って食卓に朝昼晩と三食食事が出てこなかったことはなかったし、着るものや住む場所に不満はなかった。

 

あったとしても、家から学校までの距離が長くて、夏は暑く、冬は寒いというくらいの平凡な文句で、義務教育の内は、お金が無くて学費が払えなかったことは無かったし、

 

行った高校は自分の行きたい高校ではなかったけど、それでも3年間無事に通うことが出来て、卒業も迎えられた。

 

それから先のことは、就職するのが当たり前だった工業高校の進路に、服が好きだからという理由で、ファッション関係の専門学校に行きたいと強請ったのは、贅沢な話である。

 

それでも親の庇護のもと、就職して働いて自分で稼ぐようになってからは、今度はお金と仕事というものに守られてきた。

 

あの頃は辛くて辛くてどうしようもなかったが、今と比べればサラリーマンという社会的な立場もあり、衣食住には困らず、一人暮らしも出来た。

 

そんな中、病気をして統合失調症を患って、実家にドロップアウトしてからは、社会的な立場もなくなり、金銭面でも不安に陥った。

 

それでも、働いてきた貯蓄もあって、なんとかマイナスを割り込むことは無かったが、現在に至るまで、生活水準が上昇したり、金銭的に余裕が生まれることもなかった。

 

こんな自分は、生活貧困者の内に入るのではないかと思ったが、両親はまだ元気で全員そろって貧困に喘いでいるということはない。

 

今回のイベントで具体的に生活貧困者の方の事例を教えてもらって、まだ自分は恵まれた方なのだと思い知った。

 

生活貧困者は辛い思いをしていると言うと、生活保護がもらえれば案外悠々自適に暮らせる、自分が貧困に陥ったら、まず生活保護を強引にでも貰いに行く、などという有名人の声がある。

 

生活保護の申請は、通るか通らないかは別としたら、誰でも申請が出来る権利があるというのが、法律で決まっているらしい。

 

ベーシックインカムの本を読んだ時に学んだが、生活保護を申請する人は毎年増加傾向にも関わらず、役所としては市の財源を節約するために、厳しい査定を行っているそうだ。

 

生活困窮の事実がなければ、役所としては動けないというのが、言い分なのだと思うが、今日知った生活困窮者の事例の中で、生活に困窮しているにもかかわらず、生活保護の申請を受理されないという現状を知った。

 

これは、弱者は弱者らしくしろ、という強者側の理論なのかもしれない。

 

これは被害妄想なのかもしれないが実体験でも、通っている就労移行センターで、少しでも規則に反することをしていたら、正されるきらいがある。

 

弱者が弱者らしくしていないから、助けることが出来ない、または助けたくても助けたくなくなると、施す側が思っているのなら、私たちはか弱い姿を見せ続けなければならないのか。違うと思う。

 

私は今回、このイベントに参加したのは、施される側にいて、どうやったらスムーズに施してもらえるかを学びに来たのではなく、

 

自分も施す側に立って、どうやったらこの不可解な社会を、少しでもスムーズにすることが出来るかを、知ることが出来るか確かめに来たのだ。

 

世の中では、資本主義が横行して、稼いだ人はもっともっと稼げるようなシステムを作り、アイドルに入れ込んだオタクが聴きもしないのに何十枚とCDを買ったり、好きなVtuberの気を引きたくて投げ銭をしたり、とてもおかしなことになっている。

 

必要なところにお金が足りていないのに、自分の欲求を満たすために、心血を注いで稼いだお金を注ぎ込む行為は、なにかの中毒にかかっているとしか思えない。

 

この世の中は、善いことに対して、正しく評価が下されるわけではない。

 

その時の流行りだったり、ノリや勢い、雰囲気で欲望というものがコントロールされている。

 

私は、自分が弱い人間の立場に立って、初めて資本主義というものに疑いを持った。

 

そして、そこから脱却するためには、自分の属する共同体や分離制の社会主義があってもいいのではと思うようになった。

 

稼ぐ人は相変わらずどんどん稼いでもらって構わない。それでも自分で稼ぐことが出来ない人は、ベーシックインカムのような最低限の生活の保障を国が行うべきではないかと考える。

 

その中で、フードバンクのような人間が生きていく上で、最も必要な食の提供。これが、食の保証になったらいいなと思う。

 

誰でも食べ物に困ったら、いや、困らなくても、こんなに発達した文明があるなら、国が人間の食を一生涯保証する仕組みがあっても、いいのではないかと思う。

 

私はこのような疑問を抱いて、今回の地域づくり2daysのフードバンクうつのみやのイベントに参加した。

 

お分かりの通り、そんな妄想を抱いていては、運営している方たちとの会話に齟齬が生まれることは間違いない。

 

実際的外れな質問を繰り返し、多大な迷惑をかけてしまった。

 

今回のイベントで、自分の考えている誇大妄想は、世の中のニーズに合っていないことが分かった。

 

イベントに参加した大学生の方が趣旨を理解していて、自分がどんなににわかに入れた知識に溺れ、現実が見えていないのかが分かった。

 

そんな役にも立たない知識ではなく、フードバンクでは実質的な、食品を提供してくれる人を増やし、より多くの生活貧困者の方に、食品を提供できるかを日々考えていた。

 

そこには、ただNPOにボランティアで協力支援する以上に、生活貧困者の方に寄り添って、難しい法律や役所の手続きに同行して、

 

どうやったら現状の貧困から脱せるかを具体的に相談できる窓口として、貧困者の支えになっているという素晴らしい活動があった。

 

自分もそんな人たちの手助けが出来たらと思い、来週フードバンクうつのみやに伺うことになったが、どれだけのことが出来るだろうか。

 

高度情報化社会で、一人一つスマホを持つ時代になっても、相変わらず無知な人は無知のままだ。かく言う私もそれにあぶれず、世の中のことをあまりに知らなすぎる。

 

私たちは、情報があってもそれを知るための道筋を知らない。検索をかけるにしても検索ワードが何かが想像できない。

 

頭の良い人たちは、ツールを十分に使い倒して効率よく情報を得ているのだろう。情報弱者は貧困に陥りやすいのは間違いないと思う。

 

ただ、その情報をどうやって受け取るか、何もオンラインのみにある情報を受け取れるから情報強者になれるわけではないと思う。

 

私は断じて情報強者ではないが、自分の無知をどれだけ曝せるかは、情報をキャッチするのに不可欠だと思う。

 

学生の頃、私は頭や要領が悪い方で、勉強を苦手に思っていた。何が苦手なのかと言うと、先生に分からないことを恥ずかしくて聞くことが出来なかったからだ。

 

自分の無知を晒すことは、恥ずかしいことだ。情報を得ることは、スクールカーストの上位の人だけが出来る特権だと思っていた節もある。

 

でも、そんなことは開かれた世の中では、何の意味もない縛り、呪いだ。

 

もしフードバンクと検索して、この拙い私、柳真佐域のブログに行き着いたら、弱者強者に関わらず、手を差し伸べている人たちがいるということを知って欲しい。

 

少なくとも、私は弱い立場の人間で、自分の無知をこうして晒すことで、人目を集めようとしている。

 

人目が集まってくれれば、自分の無知を晒すかいもあるし、フードバンクというこれからもっと世に名を広めていい、正しい活動をしている人たちがいることを広める機会にもなる。

 

こんな私が、インターネットを通じて、全世界に訴えても、何の力にもならないことは分かっている。

 

こんな面白みのない長々とした文より、YouTuberたちが作っている動画の方が影響力があり、それが現実だということが分かっているが、だからと言って、自分がサボって良い理由にはならない。

 

この事で、少しでも興味のアンテナに引っ掛かったら幸いだと思う。

 

フードバンクうつのみや

塙田事務所 栃⽊県宇都宮市塙⽥ 2-5-1

TEL 028-622-0021
mail info@fbu2189.org

ソフィーの世界(上)


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ノルウェーに住むもうすぐ15歳の誕生日を迎える少女の元にある日突然送り主の分からぬ手紙が来た。

 

手紙には、『 あなたはだれ?』とだけ書かれていて、少女は、「私はソフィー・ アムンセンよ」と当然のように答えた。

 

自分が何者なのか、 どんな自分が私と言えるのか。

 

端的に聞かれれば簡単な答えが出てくるが、 突き詰めてみるとこんなに深い問いもない。

 

ソフィーはこれまでの自分が何で構成されているかを考える。

 

ソフィーの元には送り主不明の手紙が次々と届いた。 それから始まるソフィーの哲学講座。

 

ソクラテスプラトンアリストテレスといった哲学者たちの逸話を元に、ソフィーは深い哲学の世界に誘われる。

 

ソフィーに哲学を教えてくれるのはアルベルト・ クノックスという謎の人物だ。

 

アルベルト・ クノックスは存在自体が謎のような不思議を絵にかいたような人物だ。

 

上巻を読み終えても尚、その謎は解明されていない。

 

不意にあらわれ、 気が付けばいなくなっているような本当に実在しているかどうかわからないように物語の中では書かれている。

 

物語の横軸は、過去様々いた哲学者たちの哲学を、一つずつ順を追って紐解いていくものだが、縦軸となるアルベルトの正体はソフィーと共に哲学講座を受けた過 去の少女ヒルダと、

 

その父アルベルト・ クノーグとの時空を超えたやり取りの中で多重構造的に解明されていく。

 

正直、読者の対象年齢を大幅に超えているほど難解だ。14 歳のソフィーがあまりにも物分かりが良すぎる。

 

この本を読むきっかけは、小さい頃に姉が持っていた本で、倫理の勉強をしていることもあり、興味を引かれた。

 

読んでみて、理解できたところの方が少ない。

 

哲学の話をするにあたって外せないソクラテスプラトンの話は勉強したところでもあったので、物語として読むことが出来たが、

 

その先のギリシャ哲学者たちの紹介や細かな哲学者たちの成したことはあまり大きく取り沙汰されていなかったので、読み飛ばしてしまった。

 

次の大きな項目はデカルトだった。しかしソクラテスほどの衝撃は無く、詳しく掘り下げていないこともあり何となくで読んでしまった。

 

哲学の話をするとき、何が正しいか分からなくなることがある。

 

幸せに正しく生きるための哲学が倫理というが、何かを証明する訳でもなく自分の中である気づきだけがあって、

 

一人の人の言っていること、考えていることを理解するもの難儀するのに、

 

世の中にはそれだけを学んで考え方を世に広めていった、そしてそれに影響力があるというのがすごいと思う。

 

倫理や哲学の勉強をしていると、自分にも哲学を語れる友か先生がいたらなと思う。

 

自分もアドラー心理学の時のような、孤独に自分と世界を探求し続けていけるのかはわからない。

 

学ぶほどに知らなければ安穏と暮らせたのかもしれないと思うこともあるし、

 

自分の出来る限りでいいから隅々まで知りたいと思う気持ちがせめぎ合っている。

 

あと一歩踏み切れたら何かが変わるかもしれない。

ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(上)


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ゲーテによる1796年に書かれたドイツの教養小説

 

幼い頃に観た人形劇に感銘を受けて、演劇に夢見るようになる商人の子、ヴィルヘルム・ マイスターの大人になり切れないモラトリアムの享受を描いた青年記。

 

300年前の小説だということもあり、 エンタメ要素はなくあまり心が動かされることがなかったが、 暇なときに時間をつぶすくらいには読み応えはあった。

 

なので、 中巻下巻は読まないかもしれない。

 

主人公ヴィルヘルムが恋に演劇に翻弄される様は、 同じように本業とは別に熱中するものがある人なら共感を生むのかもしれないが、

 

演劇という様々な人と出会い関係していく人種ならではのお話だと思った。

 

それに色恋で起きた心情がそのまま創作物に反映されるような激しさを持つ芸術・芸能は、若い男女が集まれば必ず縺れるのが分かる。

 

だからそこでいくら大層な恋が描かれていても、ことが起こるのは必然で、偶然性は薄い。

 

そうなって当たり前だという感じが否めない。

 

本文に初恋が成就するほど幸せなことはないと書かれていたが、 確かにそれ以上に幸せな経験をしたことは私自身にもない。

 

その初恋が破れる形になっても、 やはり淡い頃に異性に抱いた恋慕は初々しく瑞々しい。

 

本分を疎かにして人生の全てを捧げてしまいたくなるほど熱中して しまう気持ちもわかる。

 

その人との関係が世界の中心のように感じてしまうほど視野が狭く なり、家族にでも許していない自分の恥部を他人に明かすことは、

 

その人の隅々まで知りたい気持ちと、 余すところなく自分という存在を知ってもらおうとする欲求に支配される。

 

そういう恋は破滅にもつながるが、恋の炎が身を焦がしていることにさえ気づかない。

 

その頃にヴィルヘルムと同じく夢を抱いていたらと考えると、彼がどれだけ自分本位な人間かがわかる。

 

彼は家が裕福で、経済的な心配がないのが自分とは大きな違いで、そこを理解することは出来ない。

 

だからやっていることはボンボンのお遊びな気がしてしまうし、彼が後に家族にしたミニョンとフリードリヒも自分にそれだけ払えるお金があったからである。

 

昔の人にとって金と家族の役割は今と意味合いの違うものなのかもしれないが、やはりたわごとのような胡散臭さは付きまとう。

 

こういう毛嫌いは近代に入ってからの人間の価値観なのかもしれないが、現代では上辺だけの関係に嫌気を指して、 自分達にだけわかる本物の関係を求める人も出てきている。

 

今回この本を読むきっかけに倫理の教科書の青年期の激情を表わした疾風怒濤の時代というゲーテの言葉が載っていたことで、

 

嵐のような青春時代を過ごした私にとって、同じような経験をしたのではないかと期待して本を手に取ったが期 待を超えることはなかった。

 

青春時代を学校に通うことで消化してしまう現代より、 自らの選択によって自分の生き方を決めていた当時の時代背景を考えると、 もっと下から這い上がるような劇的な人の人生を描いて欲しかった。

 

出だしは良かった。マリアーネとの愛し合う時間も、 それが実は虚像で恋に破れる様も青春をしているなぁと思ったが、その後が残念に思う。

ゲド戦記2 こわれた腕輪

f:id:neocityproject:20201211181034j:plainげど

ゲド戦記は、冷たい冬の水か風のような寒々しい気持ちが常に背筋に走って、暗い闇をただ文字だけを頼りに進んでいるような感覚がある。

 

本来魔法のあるファンタジーの世界というものはそういうものなのかもしれない。煌びやかさなどなく土と風と水と闇で出来ている。

 

僕の好みではないけど、こういうファンタジーがファンタジーの源流を冠しているのも頷ける。

 

なんとなく怖さがあり、常に緊張感がある。人間の命の重さが今よりもずっと儚く、簡単に人は死ぬけど、その人間味は現代人のような薄く浅いものではなく、一人一人が必死に生きているのが分かる。

 

今回、(映画ゲド戦記に登場したであろう)テナーの視点で物語が進行していく。

 

自分の運命を他人に決められた少女の鬱屈と解放の物語だった。

 

映画ゲド戦記で手にマメを作って、温かいスープを作ってくれるテナーの若かりし頃は、イメージと全然違って、聡明で薄明な美しい少女だった。

 

そして、少女なりの残虐性もあって、決していい人とは言えず、それでいて慈しむ心も持っている。

 

可憐といったら褒め過ぎだが、美しくも残酷という言葉が似合うかもしれない。

 

自分の生まれが大きな力で運命を決められてしまった少女は、そうなるしかないのだろう。

 

人は自分を愛してくれる人が必要だ。

 

女の場合それは恋人でなければ満たされないのだろう。

 

彼女によくしてくれる人がいても、それは意中の人でなければ捨て置いてしまうのだろう。

 

彼女にはマナンという世話人がいたが、きっと彼のことを思い出すことは無いのだろう。

 

それが滲み出てくるように、続編で書いてあったら本物だと思う。

 

ゲドが出て来るまでの間は、やっぱり主人公スキーの僕としては物足りなさを感じたが、ゲドが出てきてからは一気に物語が進んで面白かった。

 

四巻以降主人公がテナーに移行するらしいので、今のうちにテナーに感情移入しておきたい。

 

物語に没頭できなくなってしばらく経ったが、ゲドが出て来た辺りから他の本をつまみにしなくても読める楽しさがあって、久しぶりに読書が楽しく思えた。

 

でも、自分が求めているファンタジーはもっとどんちゃん騒ぎがあって、ドッカンバトルをして、熱い友情とか美しい恋愛とか、血生臭いドロドロのドラマとかなんだよなぁ。

 

ゲドとテナーが神殿から脱出した時は、ラブロマンスが始まったなっていう感じがしたけど。テナーがいきなり雌の顔になったし。

 

ゲドは旅を止められない身であるという呪いを受けているが、それがたらしの訳になっている気がして、女泣かせな奴だなぁと思った。

 

宮崎駿が好きな理由も少しは理解出来た気がするが、ずっとあなたの作品をやるために私はアニメーションを作ってきたんだと本人に言うくらいの衝撃はなかった。

 

児童文学というものは、出しの効いた澄まし汁のような、味が分かるようになるためには舌を鍛えなければならない気がする。

 

エンターテイメントに富んだ作品は味付けが濃く、特にアニメとかだとお約束やテンプレートがあって、胃にもたれるものが多い。

 

ちょうどいい塩梅だったのが、精霊の守り人ブレイブストーリーだったから、自分は適度な濃度のファンタジーを楽しんだのか。

 

海外のファンタジーでも、モモと同様に翻訳が丁寧で読みやすかった。

 

アーシュラ・K・ル・グィンのSF成分(わけのわからなさ)が少なかったので最初から最後まで理解して読み進むことが出来たので続編もこの調子で読んで見たいと思う。

 

風の十二方位はこのあと読み終わした方が良いのだろうか。ゲド戦記に比べると物語の密度が薄いし、翻訳もわけわからんから読みにくいんだよな。

秋澤いちご園

姉の嫁ぎ先(香川県)にお歳暮を贈るのに、せっかく栃木県に住んでいるんだから、イチゴを贈ろうとして探し当てたいちご園。

 

羽の生えたクマがイチゴのパンツをはいている可愛らしいパッケージに一目ぼれしてさっそく車を出してイチゴ園へ。

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可愛いパッケージ!姪ちゃんたちも喜ぶことでしょう!f:id:neocityproject:20201209165055j:plain

一粒ずつ化粧箱に入っていて、多少揺れても傷がつかない!大ぶりのとちおとめは涎が出るほど美味しそう!赤い宝石とはよく言ったもの!

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サンタ使用の木彫りのクマさんのオブジェと共に4箱購入させて頂きました!

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女将さんが気を利かせてくれて梱包材を余計に下さいました。配送もやっているそうですが、母が贈り先の住所のメモを忘れて来たので、今回はヤマトに頼みました。

 

ヤマトの配送ですが、小脇に抱えてしまったりするので痛みやすいイチゴを贈るのはちょっと心配です。梱包材よ役目を果たしてくれ。

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木彫りのオブジェを目印に左に曲がって、

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ハウスの脇を真っすぐT字路まで行きます。

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T字路を左に曲がって、

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突き当りを左に行って中に入ります。サンタクマを横目に奥に行くと作業場があり、そこに女将さんがいました。

 

秋澤いちご園は少数生産なので、完全予約制で注文を受けているそうでしたが、今回は運よくその日の昼に母が連絡したら、4箱分なら収穫した分があったので購入が出来ました。

 

1箱 ¥3400円 とちおとめ

 

営業時間

平日土日:13:00~16:00

 

アクセス

サクラダリセット4

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あれ~?おっかしいな、面白くないぞ。

 

何でいきなり短編集が始ま ったんだ?

 

あとやり残してる管理局をぶっ壊す話と、相麻菫が生き 返ったあとの話をやらなくちゃ。

 

てか本筋のそこにしか興味ないか ら、余計な脱線は無駄だからやめてほしい。

 

面白いならまだいいけど、しかも面白くないって才能を疑うぞ。

 

前の巻がちょっと話的にも退屈だったからここへ来ての急ブレーキは 非常に困る。

 

他人に勧めてしまっている以上、一定のクオリティは 守ってもらわないと。

 

ケイの本名は恵だろうな。女の子と間違われ ちゃうって僕らの年代の男子の妄想なんだろうか。

 

ホットケーキの描写がオシャレ。こういうポイントが多いと良いん だが、なかなかにそうはなってくれない。

 

感情が機微。感情が無いように描かれている分、その中で起こる揺れには具に反応してしまう。

 

綺麗なものだけを求めていた世良佐和子、 さびしい中学生活だな。

 

極端にしないとキャラが立たないし、これ だけ個性的なメンツが揃ってると、ちょっとの個性だと埋もれてし まう。

 

相麻菫と春埼美空に比べちゃうとヒロイン格になることはな いし、そうなってくると本筋に関係のある重要な人物とは言えなく なってくる。

 

僅かに咲良田市という異能力の個性が自然とつくから、だからこそ 性格が個性的なキャラか、能力が個性的か強力なキャラじゃないと 印象は薄くなる。

 

次に活かせる風でもないと余計にだ。

 

ビー玉の中 に閉じ籠ってしまった真面目な女の子の話を延々とやられても、 解決法も読めてきちゃうから面白味がない。

 

やっぱり一人の泣いて いる女の子のためのストーリーなんだよなぁ。

 

ヒロイン攻略にすらなってないから面白くないんだろうな。相麻菫 と春埼美空が圧倒的なヒロイン過ぎる。

 

と言っても他の作品と比べ れば全然見劣りしちゃうけど。

 

ちゃんとタルト目を向けるのがギャ グ春埼だな。こういうキャラの可愛さを作者が見つけると、作品が 良くなったりするが、明らかに構成ミスだ。

 

こういうのは外伝とちゃんと銘を打ってやってほしいものだ。

 

冷静のようでいてキラーワ ードでごり押ししてるな。もはや印象が薄くてなんの感想だったか 忘れている。

 

あの表情を手に入れたって表現いいなぁ。

 

月に行きた いと願う前に能力が発現したなら月になど行けるはずがない。

 

ケイの猫のストラップを直した男こそ生き返らせる(元に戻す) 能力の持ち主だったんじゃ。

 

なんだこのホワイトパズルってケイと か全然関係してないじゃん。

 

咲良田の日常の一つでも切り取ったつ もりなんかな。

 

それにしてもケイに比べてツミキ? は要領が悪すぎていかん。

 

ケイの頭の良さでもっていた作品なんだ から、そこを下げたら魅力はなくなるよ。

 

主人公代えたい狙いがあ るとかじゃないんだったらやめた方がいいし、 ツミキの能力も結局わからずじまいだったな。

 

基本的におねショタ がしたいのかな?やっぱダメだわ、作者の顔が浮かんじゃう。
 

なんとなく生きるのを止める

なんとなく生きるのを止めたいと思う。僕は今までなんとなく生きてきた。

 

なんとなく朝、買ってきてたあるパンを焼いて食べて朝ご飯を取る。

 

そのパンは誰が買ってきたものなのか。母が仕事前にスーパーに行って買ってくることもある。父が朝早く起きてコンビニで買ってくることもある。

 

それを当たり前のように、何の感謝もなく焼いて食べる。

 

これが独りだったらこうはいかない。自分で働いた金で日々の食費を計算して、その日買える一番安いであろうパンを買う。

 

ゴミを捨てるにしてもそうだ。Amazonで注文した品が届いたら、嬉々として開封の儀をして、紙ごみは丸めてゴミ箱に入れる。ビニールもプラゴミなのか燃えるゴミなのかもよくわからない。

 

段ボールに至っては、部屋のある二階から一階に降ろすだけで、縛りもしないし物置にも入れもしない。

 

そのゴミは誰が出しに行く?段ボールは資源ごみ?資源ごみの収集の曜日はいつ?

 

そんなことも知らない。

 

今まで生きてきたが、それは何となく生かされていただけだ。

 

一人前に生きるには自立が必要だ。

 

今まで面倒臭くて誰かにやっていたものは、いつか降り積もって多額の借金になる。

 

やりたいことだけをやっていればいいわけではない。

 

むしろやりたくないこと、面倒臭いこと、誰かに任せていることを自分で引き受けるべきなんだ。

 

分からなかったら調べればいい。調べてもわからなかったら聞けばいい。

 

もっと身近な人の力を借りて、頼らず寄りかからず、感謝を忘れず誰かのために生きる。

 

当然のことのように思えるけど、そんなことさえできていないのが今の自分だ。

 

ニートにすらなり切れていなかった。

 

ニートにはニートの生き方があるのではないか。

 

どこにも所属しないからこそ、一番身近な人のために生きられるのではないか。

 

まだ猶予があるうちにそれをやっておきたい。

 

自分の財産が自分が買ったものだけしかないのは虚しい。

 

これからやろうとしていることは、想像を越えるほど馬鹿げているのかもしれない。

 

でも、10年後後悔はしないと思う。後に引けなくなったらそれなりの生き方をすればいい。

 

日本という国に生まれただけでラッキーなんだから、この幸運を最大限に利用しようと思う。

 

この国には労働の義務というものがあるらしいが、そんなもの今の時代崩壊しているといっても過言ではない。

 

Youtuberやブロガーという生き方もある。ぶっちゃけ納税していればこの国に存在して言い義務は果たしていると思う。

 

病気などで働けない人もいる。だったらその人は義務を果たしていないからこの国から出ていくべきなのか。

 

病気をしている本人の親なりが治療費や税金を払っているから良いんだといったら、そういう保護してくれる人がいない人はどうする。

 

弱者は国が支えなければ国家ではない。強い者だけが生き残る世界ならそんな世界こっちから願い下げだし、引導を渡してくれて構わない。

 

そりゃ、好きなことだけして生きている人はいないけど、そんなのは当たり前だけど、そんな存在になりたいと思った時、あなたたちの心配しているような、好きなことだけやって楽して楽しいなんてことはあり得ない。

 

やってみてこそ見えるものがある。

 

今は家のことを万全にやることが先決だけど、地盤が固まったら外に出て奉仕活動に勤しみたいと思う。

 

やりたいことを突き詰めることが怖い人はどこかに所属すればいい。

 

毎日その日やることを考えて、人の為になることをする。

 

人はそれを迷惑と思うかも知れないが、それは常識がねじ曲がっているだけだ。

 

人が本来そうすべきように僕は生きてみたいと思う。

 

そう強く思う。