柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(上)


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ゲーテによる1796年に書かれたドイツの教養小説

 

幼い頃に観た人形劇に感銘を受けて、演劇に夢見るようになる商人の子、ヴィルヘルム・ マイスターの大人になり切れないモラトリアムの享受を描いた青年記。

 

300年前の小説だということもあり、 エンタメ要素はなくあまり心が動かされることがなかったが、 暇なときに時間をつぶすくらいには読み応えはあった。

 

なので、 中巻下巻は読まないかもしれない。

 

主人公ヴィルヘルムが恋に演劇に翻弄される様は、 同じように本業とは別に熱中するものがある人なら共感を生むのかもしれないが、

 

演劇という様々な人と出会い関係していく人種ならではのお話だと思った。

 

それに色恋で起きた心情がそのまま創作物に反映されるような激しさを持つ芸術・芸能は、若い男女が集まれば必ず縺れるのが分かる。

 

だからそこでいくら大層な恋が描かれていても、ことが起こるのは必然で、偶然性は薄い。

 

そうなって当たり前だという感じが否めない。

 

本文に初恋が成就するほど幸せなことはないと書かれていたが、 確かにそれ以上に幸せな経験をしたことは私自身にもない。

 

その初恋が破れる形になっても、 やはり淡い頃に異性に抱いた恋慕は初々しく瑞々しい。

 

本分を疎かにして人生の全てを捧げてしまいたくなるほど熱中して しまう気持ちもわかる。

 

その人との関係が世界の中心のように感じてしまうほど視野が狭く なり、家族にでも許していない自分の恥部を他人に明かすことは、

 

その人の隅々まで知りたい気持ちと、 余すところなく自分という存在を知ってもらおうとする欲求に支配される。

 

そういう恋は破滅にもつながるが、恋の炎が身を焦がしていることにさえ気づかない。

 

その頃にヴィルヘルムと同じく夢を抱いていたらと考えると、彼がどれだけ自分本位な人間かがわかる。

 

彼は家が裕福で、経済的な心配がないのが自分とは大きな違いで、そこを理解することは出来ない。

 

だからやっていることはボンボンのお遊びな気がしてしまうし、彼が後に家族にしたミニョンとフリードリヒも自分にそれだけ払えるお金があったからである。

 

昔の人にとって金と家族の役割は今と意味合いの違うものなのかもしれないが、やはりたわごとのような胡散臭さは付きまとう。

 

こういう毛嫌いは近代に入ってからの人間の価値観なのかもしれないが、現代では上辺だけの関係に嫌気を指して、 自分達にだけわかる本物の関係を求める人も出てきている。

 

今回この本を読むきっかけに倫理の教科書の青年期の激情を表わした疾風怒濤の時代というゲーテの言葉が載っていたことで、

 

嵐のような青春時代を過ごした私にとって、同じような経験をしたのではないかと期待して本を手に取ったが期 待を超えることはなかった。

 

青春時代を学校に通うことで消化してしまう現代より、 自らの選択によって自分の生き方を決めていた当時の時代背景を考えると、 もっと下から這い上がるような劇的な人の人生を描いて欲しかった。

 

出だしは良かった。マリアーネとの愛し合う時間も、 それが実は虚像で恋に破れる様も青春をしているなぁと思ったが、その後が残念に思う。