柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

お金について

お金について考えてみた。

 

僕にとってのお金。それは手段であって、力であって、システム(柵)だ。

そのお金について考えてみた。

 

~皆がお金をどう考えているか・手段としてのお金~

多くの人が、お金をどう捉えているのかも考えると、それは、不安を埋めるためのものだと思う。

 

一番の不安は、将来のために、というのがあるだろう。

 

それを具体化させると、最低限のものでも、

 

・食べていくため(人間は食べ物を摂取しないと死んでしまう)

 

・住居を確保するため(この国は屋根のない住居に住んでいない人を、人権者として認

めない、雨風を凌ぐために家がいる)

 

・服を着るため(人間は服を着るものだという本能に近いルールがある、服を着ていないと、体温調節ができない)

 

・自分や家族が病気にかかって、多額な治療費が必要になるかもしれない

 

などがある。

 

お金は、人間が人間らしく生活するための術だが、そうなってくると、人間らしい生活とは? となる。

 

オシャレな服を着て、いい車に乗って、ごちそうを食べて、娯楽に興じ、高度に考え、上昇志向を持ち、誰かに認められ、幸せを掴むことが、人間らしい生き方か。

 

それは、そうだと思う。本能で生きるのは、動物であって、文明を築くのが人間だ。

 

だが、人間が人間たるべく生きるのに、どうしてもお金が必要なんだとは、思えない。

 

身も蓋もないが、お金というのは、手段に過ぎない。

 

~価値について~

お金は、欲しい物があって、それを手に入れる時に、皆が同じ尺度、皆が価値があると思っている、皆が盲従しているルールの一つだ。

 

もちろん、僕は欲しい物があったら、働いてお金を稼いで、それをお店で購入する。

 

それは、欲しい物のために働くことが常識で、そうして(苦労して)手に入れた物だから、価値のあるものなんだと、納得するからだ。

 

言っては何だが、古く非効率的な物の見方だ。

 

その物の付加価値を、自分でこじつけている(思い込んでいる)。もちろん、苦労して欲しいものを、手に入れた時の充足感と言ったら、何にも代えがたいと思う。

 

それは、一種の達成感だし、それは否定しても、今までの経験から、あって良いものだと思う。

 

だが、立ち止まって考えた時。そして、これからの自分の生き方を考えた時、それでいいのかという疑問がわいてくる。

 

(それは、今人生の岐路に立っているからで、普段の生活をしている時は、頭の片隅にはあっただろうが、これと言って重要視してこなかった事案だ)

 

どんなものに価値があるのか。それは、必要とされているか否かだ。

 

だが、必要としている人が多いから、価値があるわけではない。もちろん、それもそうだが、誰も必要としていなくても、自分にだけは必要なんだ、という物にも価値はある。

 

お金はどうか。お金を必要としている人がいるから、お金には価値がある。

 

それは事実だ。現時点で、お金よりも価値のある物はない。

 

この世界の物は、価値のある物を、お金という評価基準をつけて、世の人達に、自分の苦労して稼いだお金という手段で、買ってもらうという仕組みになっている。

 

だから、買うという行為は、自分の身を切っていると言っても、いいかも知れない。

 

お金にはそういった苦労、時間と体力と思いが詰まっている。

 

もう一回言うけど、そんな柵だらけのもの(ルール)が、本当に必要か?

 

今まで疑問に思っていたことを、言語化してくれた人がいる。オタキング岡田斗司夫だ。

 

詳しく書くと岡田斗司夫の宣伝になってしまうが、彼の言うことに一理あるな、と思ってしまう自分がいる。

 

欲しいものがあった時、彼は誰かから貰う、という手段がある。と言っている。

 

それは、苦労して物を買うことの否定だ。

 

買ったもの、貰ったもの。それは、手に入れる経緯はどうであれ、確かに、本来の物の価値は、数字として変わらない。

 

それはそうだ。買った漫画と、新品の漫画を貰っても(あんまりないが)、読んだ時の『面白さ』は、変わらない。

 

それに、友達や家族から、「これ面白いよ」と勧められた漫画だって、面白い。古本屋で立ち読みした漫画だって、普通に買って読むより集中して、面白く感じる、まである。

 

買うという行為は、たかだか自己満足だと彼は言う。

 

その考え方は、

苦労して低い時給(月給)の中で、

上司や会社の圧力に耐え、多大なストレスにさらされ、

どんなに頑張っても、簡単に目測できる上限を見据えてしまいながら、

人間一人一人に分け与えられている、貴重な時間を浪費して手に入れた、

お金を根本から否定してくれている。

 

貰ったものでもいいんだ、と思えた時、僕の中で何かが開けた。

 

物の持っている本当の価値を、今見つめ返す時が来ているんだと思う。

 

僕は、漫画が好きだ。アニメも好きだ。小説も好きだ。音楽も好きだ。

 

だから、コミックスは買うし、Blu-rayも買うし、書籍も買うし、CDも買う。

 

一種のコレクター精神が自分にはある。

 

だが、その中で、買ったものというのは、棚に入れて、飾るものだ。

 

見返したりはしない。持っていることが、それだけで満足なんだ。

 

だったら何故、物を買う(集める)のか。明確に欲しいを分析すると、買わないと後悔するからだ。

 

それを買わないといけない気がする。持ってない不安に勝てない。手に入れていないと無くなってしまうかもしれない。将来に使い道があるかもしれない。

 

そう思っているのが、欲しい、の中に必ず含まれている。

 

そうなった時、それはもう本当に必要な物、とは言えないのかもしれない。

 

僕は、音楽を聴く時、iPodで聴いている。

 

当たり前だが、そのほうが便利だからだ。

 

一枚10~(多くてもせいぜい)20曲入っているアルバムを持ち歩くのに、CDを再生するプレイヤーを持ち歩くのも、不便だし、聴きたい曲が、必ずしも持ち運んだアルバムではない場合があるだろう。

 

2万曲入るiPodは、スマートに音楽ライフを送らせてくれる。

 

その時に、CDを買っていると、どうしてもに邪魔になってしまう。

 

バンドミュージックだけでも、アルバムは100枚分あるし、それをしまうのにスペースが必要になる。

 

それでも集めるのは、デジタルでは不安だからだ。

 

目に見えないものは、物質的な実感がない。

 

しかし、その物であっても、壊れれば使えなくなるし、プレイヤーがなくなってしまえば、聴けなくなってしまう。

 

物を買うというのは、先にある不安も買っていることにもなる。

 

この辺りの矛盾が、僕は面白いと思う。

 

そして、矛盾を感じるところに、チャンスは転がっているんだと思う。

 

~お金は力~

お金は力でもある。

 

人の命だって、簡単に買えてしまうし、絶対と思っている信念だって、簡単に捻じ曲げてしまう。

 

悪くばっかり言うのは、フェアじゃないが、力としてのお金は、悪いほうにしか働かない。振りかざす暴力でなく、誰かを守るための愛情の表現なら、それは手段になる。

 

力としてのお金は、人々がお金に盲従しているから成立する。

 

~お金にとって代わるもの~

では、お金にとって代わるものがあったらどうか。

 

お金にとって代わるもの。それは、『恩』だと思う。

 

何故、恩を僕は推すのか。

 

恩は、形がなく、お金よりも曖昧で、だが、その先一生残っていく事実だ。

 

恩を受けた時、(大概の)人は恩を返したくなる。

 

恩の正体は、罪悪感だと思う。

 

そう考えると、お金は罪悪感を抱かないための引換券だ。

 

それってなんだか、薄情じゃないか?

 

もちろん、今よりも生きづらくなる可能性がある。

 

罪悪感に苛まれ続ける生き方が、幸せなのだろうか。

 

それは、これから検討していかねばならない。

 

まだ結論が出ていないから話を進めるが、この人は自分のためにここまでしてくれたんだから、何か返せるものがないかと、相手に考えさせる。

 

その何かが、物質としてのお金に代わる。

 

(だが、僕が利用しようとしているのは、力としてのお金の部分だ)

 

例えば、農家をやっている友達がいたとして、畑仕事を手伝う代わりに、野菜を貰う。みたいなことだ。

 

このことで、一番の焦点は、労働の対価をお金ではなくさせることが目的だ。

 

人間生きるためには、衣食住が揃っていれば、取り合えず人間らしく生きられる。

 

家がないのなら、友達の家に居候させてもらい、家事を全部やるというのでもいい。

 

お気づきだと思うが、僕はニートを増やそうとしている。

 

そういうお金に換える労働ではなく、人に恩を売っている生き方は、非常に興味をそそられる。

 

僕の場合なら、自分の文才を使って、それを恩に変えることだ。

 

本来クリエイターのやっていることは、価値を生み出しているんだと思う。

 

価値があるからお金をもらえるんじゃなく、お金ではなく、恩を返してもらえるようなクリエイターというのは、実に面白い。

 

もちろん、交通費や交際費などで、お金は必要になる(まだこの世界はお金を必要としている)。

 

だから、作家として、世の中の人に、面白いと思わせたり、もしかしたら救いを与えられたら、それをお金として評価してもらいながら、自分は恩を返していけば、良いサイクルが回っていくのではないだろうか。

 

現時点でそれが出来ていないことは、非常にふがいないが、そのことを自分の指針に念頭に置いておこう。

 

もちろん、恩なんてものは、何の確実性のないものだ。

 

何をしても、恩も罪悪感も感じない人もいるだろう。

 

そういう人には、根気よく、その人がどうすれば罪悪感を感じるか考えなければならない。

 

ただ、世の中にはそうじゃない人が、五万といる。

 

自分の出来る範囲でも、幾らでも手を伸ばせるし、仕事に並んでとても遣り甲斐のあることだ。

 

結論、僕にとって、お金とは。

 

それは、『ないと困るもの』だ。

 

だから、『困らなければ、無くていい物』だ。