柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

高浜虚子

山国の蝶を荒しと思はずや

 

 

ビッグネーム2番目来たな。

 

山岳地帯のような場所では、蝶という柔らかいものにも荒々しい野性を感じてしまう私は変かな?という句かな。

 

正岡子規に比べて、視点の誘導等の技術を感じる。

 

自分の持っている感性は変なものなのだろうか、と言っているふりをして、こういう視点もありますよと言っているような、少し達した言い方。

 

先生とか流派を持っていそうな、尊敬に値する感じだな。

 

第一印象としてはそれほど、それほど良くない。達した感じが出ているということが分かってしまった時点で、傲りを感じてしまうからだ。

 

山国、蝶、荒い、それを思うと来ると、形作った感じが凄く出る。

 

正岡子規とは逆に、そこが凄いのだが、これは好みの問題で、やはり天然ものの凄さの方に、軍配を持っていきたくなる。

 

星野高士先生の系譜を辿った先に虚子がいる感じはするな。

 

俳句に発想を取り入れた最初の人かどうかはわからないが、正岡子規のような呼吸のような自然さから、俳句を作っていこうという前向きな姿勢が見えるし、

 

その達している感じが、アニメや漫画を描いていた先人たちのような、奥深さと技術の源流を感じる。

 

山にいる蝶に野性を感じるかと聞かれれば、そこはよくわからないというのが僕の素直な感想だ。

 

そこまで機微に蝶の違いを感じたことは無かったし、読んだ時新しい視点だなと思った。

 

ただし、視点は新しくても、感じてしまえばそれはそうかもしれないという納得もある。

 

野生の意味を凄く問われる句だと思う。本質を問うているようなそんな迫りくるものもある。それも静かに。佇まいが達している。

 

名人というより達人と言った方が良いんだろうな。

 

僕の大好きな星野立子の父というだけあって、達しているがそれがわかっただけ、正岡子規の届かなさより、まだ具体性があるかも知れない。

 

正岡子規が雲の上の存在だとすれば、高浜虚子は高く険しい山の奥にいる感じかな。

 

登るルートも技術もわからないが、山としての頂上は見えているような。

 

そんなこと言って、一切近づけないような凄みも感じているんだが。正岡子規高浜虚子では流派が違う気がする。

 

 

去年今年貫く棒の如きもの

 

 

破魔矢なのかな?と思ったら別に具体的に何、というわけではないらしい。

 

去年と今年を貫く棒のようなものがある、と言っているらしいが、棒ってなんだ?と考える句なのか。

 

去年今年という季語は、夏井先生も扱うのが難しい季語だと言っていたのを覚えている。

 

容易に使ってはならないような、そんな重みのある言葉。

 

一年の終わりと始まりを一つの言葉として扱っているくらいだから、人生観が滲み出てくる俳句になるといいのだろうか。

 

簡単には使いこなせない季語があるというのも俳句の面白い所でもあり、厄介なところだ。

 

棒の如き信念といっても、所詮は棒だし、と思ってしまうし、棒の如き後悔といったら、なかなか自分から切り離せない厄介さが出るか。

 

いずれ使ってみたい季語ではあるが、最近スランプ気味なので、今向き合うべき季語ではない気がする。

 

何か自分をもう一皮むかないと、次のステージに立てない気がするが、そのための正岡子規高浜虚子たちのような名句を勉強する時期に来ているのかもしれない。

 

勉強は成果がなくても楽しいが、どうせなら欲を出して結果を伴う勉強がしたい。

 

アウトプットの仕方は色々あるが、自分にベストな形でそれが出来るように、環境を整えていきたい。

 

整えていくうちにも時間が経ってしまうし、決心も鈍ってくるものだが、一つ一つ形にしていくことで足跡は残せる。

 

こうして思いを文字にしていくこともその一環だし、溢れ出るものに名前を付けていく作業は、とても楽しい。

 

多分それが正解なのだろう。自分の思いに名前を付けていく作業が、自分の座標をここだと教えてくれる。

 

何か良いものを見つけた気がする。やっぱり良いものに出会うのは、最高だ。自分も高い所にいけたと勘違いできるし、そういう錯覚に侵されて深淵に迷い込むこともある。

 

続けること、向き合うことが大事なんだろうな。

 

 

手毬唄かなしきことをうつくしく

 

 

ほぉ!これは良いな!簡単そうに書いてあるものの方が、作るのは難しい気がする。

 

でも作っている感じはしてしまうので、子規のような自然にスッと入ってくる句ではないかな。

 

探してみたけど、手毬唄が悲しいことを唄っていたという記述はなかった。

 

その辺が作られたものの感じを出している気もするし、そうでなくて、手毬唄が悲しいことを唄っているものだったとしても、そこに人為、作為性を感じてしまう。

 

所詮は人が見たものという人間中心の考え方が、少し残念ではある。

 

その辺が、登れそうな気にさせる隙だと思う。写生句が最も素晴らしいわけではないが、第一印象もかみ砕いてみたとしても、そこに子規以上の凄みは感じない。

 

好き好みの問題だと言われればそれまでだし、技術的にすごいものではない、それよりも超越した何かを感じる子規の句を語る舌を僕は持たない。

 

高浜虚子の句の方が、ここが素晴らしいんだと言えるだけあって、評価はされやすいと思う。

 

ギリシャ神話で、水や大地を神として信仰していたのが、時代を経て、愛とか勇気を神として信仰したのとよく似ている。

 

僕はその時、源流に近いものほど高い信仰に値するものだと思ってしまう。

 

時代が進むにつれて、事物は複雑化していくと思うが、学問はいつだって根源を見据えて探求するものだ。

 

僕のような俳句初心者は歴史を学ぶことから始めた方が良いと思うし、ただ、歴史を学ぶにしても誰から始まったものなのかから知らなければならないので、

 

そこを始から順序良く出会うことも難しい中で、自分に合ったもの、それと自分と出会った順序で判断していくのは、最も正しい勉強の仕方すら難しいということだ。

 

今の現代っ子が歴史を学ぶ難しさを嘆くのはこの辺りがポイントだと思う。

 

それに加え、学ばなければならないことの以前に、自分がその学問を学べる、学べたと思うことが前提になければ、学問は身に着かない。

 

結局自分に合ったものをチョイスしていく形で、不完全な学びをすることになるのだろう。偉人たちの粗が見えてしまったら、素直に圧倒されないしね。

 

圧倒されるのが学びというのかとすれば、粗が見えたものの方が、自分なりの突っ込みどころも見つかって、印象に残りやすいかもしれないが。

 

ただ言えるのは、川端康成が表現したかったことを、虚子はたった17音で表現してしまったということだ。

 

俳句が究極の無駄をそぎ落とした表現方法だということがよくわかる。

 

世の中には自分が一生かけても一ミリも追いつけないほど先に行っている人が、何人もいる。そこに一生をかければ追いつけるんじゃないかというほどの人も何人もいる。

 

ただ、それだけが出来る人間でないことも自分で分かっているし、自惚れが過ぎる問題だが、

 

そうやって自尊心を保っていくことで、自分という人間が何とかこの世界の地面に足を着けていられるのだと思う。

 

本気にさせるほど酔わせてくれるものがないかと言うのは贅沢な話なんだろう。

 

やることが増え過ぎた現代で、名前を残せるのは、有名人だけだ。地道に時間を費やしてもそれが評価に結びつくかわからないと考えると自分のやっていることに集中なんかできなくなる。

 

誰に制約されているわけでもないし、自分に限りない自由があるわけでもない。

 

その中で、自分に出来ることを積み重ねて、運が良ければ評価を得られることがあるかも知れない。

 

そのあるかも知れないという可能性に向かって真っすぐ進むには、自分のメンタルは脆く弱いものだと思ってしまう。

幼年期の終わり(要約) アーサー・C・クラーク 


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国連事務総長代理のピーターはストルムグレンの失踪から激務に見舞われていた。世界の新聞は、全人類が世界連邦に賛成することを支持している西側のグループと、国家の自尊心を第一に考える東側のグループに分かれていて、東側のグループはせっかく独立したのに、また主導権を奪われることを危惧していた。しかしそれは一般大衆の支持とは違った。国境警備隊にしても、長き血塗られた歴史に終止符が打たれることを身をもって感じ取っていた。ストルムグレンが失踪したことにより、人類はオーバーロードたちとの懸け橋を失った。それが意味するものは……。自由連盟の無実を主張する声が虚しくこだましていた。~

 

~ストルムグレンは真の闇で目を覚ました。突然音がして、暗闇の一部からするすると光が洩れると、一人の男のシルエットが現れた。再びドアが閉まると、今度は懐中電灯の光を真正面から照らされた。そして光源の主から、「目覚めのようだね、気分も良いようだ」と声を掛けられた。ストルムグレンは自分に麻薬を含ませて拉致したのが自由連盟だと当たりをつけて訊いた。影はそんな話はまだよしておこう、とりあえずは着替えと食事だと言い、ストルムグレンは、自分が地球上のどこだかわからない地下深くにいることを察知した。~

 

~影の声は自分のことをジョーと名乗った。ストルムグレンはこれまでにあるたったそれだけの情報で、ジョーがポーランド人であることを当ててみせた。ジョーは驚いたがストルムグレンの着替えが済んだのを確認するとドアの外に誘導した。廊下に灯っていた石油ランプの光で、ジョーという男の詳細が見えた。ジョーは百キロ以上もある巨漢で正体をつきとめるのはさほど難しいことではないとストルムグレンは思った。ただしそれもここら無事出られればの話だ。ここはおそらくどこかの廃坑だろうとストルムグレンは思った。ストルムグレンはこの誘拐をさほど心配していなかった。きっとオーバーロードたちが助けてくれるだろうと確信していたからだ。しかし、その確信も数日が経っていることから揺らぎ始めた。~

 

~廊下を抜け薄暗い部屋に入ると、二人の男が座ってストルムグレンを興味ありげに見ていた。男の一人がストルムグレンにサンドイッチを寄越した。ストルムグレンはありがたく受け取りサンドイッチを食べた。サンドイッチを食べながら三人を観察するに、二人の男はジョーの手下であることが分かった。渡された葡萄酒でサンドイッチの最後の一口を流し込むと、ストルムグレンは男たちの狙いを訊く。ジョーは、それを話す前にまずこのことはウエインライト(自由連盟代表)とは何の関係もない事を前置いた。ストルムグレンもそれは予想していた。ストルムグレンがどうやって自分をここまで拉致したのかを訊くと、ジョーは熱心にちょっとしたハリウッド製のスリラー映画のようだったと話した。~

 

~ジョーは自慢げにストルムグレン誘拐の手口を話すと、ストルムグレンはジョーがあまりに得意げに語るものだから笑ってしまいそうになった。だが同時に酷く不安にもなった。カレルレンが自分を保護しようと思っているかどうかは、ストルムグレンもジョーもわからないのである。だがらこそ、率直に手口を話して、カレルレンとの繋がりを験そうとしたのだ。腹の探り合いというなら、少なくとも自信を持った態度で相手をしようとストルムグレンは思った。こんな簡単なトリックでオーバーロードを騙せると思っているなら君たちは揃いも揃って大馬鹿だ、とストルムグレは嘲笑した。ジョーはストルムグレン誘拐の訳を話した。~

 

~我々も最初から暴力的な手段を持って交渉しようというのではな決してなかったのだが、オーバーロードと人類を繋ぐ唯一のパイプであるあなた(ストルムグレン)を誘拐することで、奴らに不自由さを味わわせることが出来る。そこから交渉は始まるのだ。ジョーたちのとった手段は、決して頭のいいやり方とは思えないが、オーバーロードたちとの関係の唯一の弱点を突いていた。オーバーロードの意志を伝える代行者としての自分(たち)を脅迫してオーバーロードたちへの服従を拒否すれば、今ある全体性は崩れ去る。しばらく黙っていた後、ストルムグレンは訊ねた。~

 

~私を人質にでもしようというのか?それとも……?ジョーはもうしばらくしたらある連中がここへ来る。それまでは待遇するつもりだと言った。ジョーが合図すると男の一人が真新しいトランプを取り出した。男は真面目臭くストルムグレンにポーカーの勝負を仕掛けた。男たちのユーモアにストルムグレンは職務上のあらゆる気苦労から解放された気がした。後のことはピーター(事務補佐官)出番であり、自分にはここから何もできることは無い。男たちは本気でポーカーを楽しむつもりでいるのを見て、ストルムグレンは何年振りかの大声で笑った。~

正岡子規

三千の俳句を閲し柿二つ

 

 

ずらっと自分の作った俳句三千句を書にまとめ、それの一つ一つの出来を、柿を食いながら確かめているという句なのかな。

 

三千句も!?という驚きと、それを閲するという難しい言い回しをして確認しているのも、そこにあるべき言葉が納まっている感じもするし、柿二つというところも、果物が好きだった子規らしい句だと思う。

 

最近俳句を作ることが出来ていないが、少し前はプレバトが放送される度に一句作って、NHK俳句を見ては俳句を作ってとしていた時期がある。

 

その時調子が良くて、何句かいい出来のものがあったので、おーいお茶の俳句コンテストに応募した。

 

7月に結果は出るが、多分駄目だろう。心の中では絶対にいけると思っているが(笑)

 

以前、第一生命の川柳のコンテストがあった時は入賞して、ウィッシュで有名なダイゴの指の部分がない手袋を貰ったが、あんなもの運以外の何物でもない。

 

夏井先生が言っていたが、俳句はたくさん作る以外に成長する方法はないと言う。子規の三千句が全て良い句だったとしても、それ以上に何万と俳句を作ってきたからの賜物だろう。

 

初っ端で、子規という人の凄さが分かるパンチの効いた選句だと思う。

 

初心者だと季語を選んでから、あと残りの音数を何で埋めていくかと考えてしまうが、子規は自然に柿という季語と共に生きているので、自分が描きたい情景にすんなり文字が入っていった印象になる。

 

一仕事終えてから柿を食う。そんな秋の情景が、心に沁みてくる。

 

何となく寂しいその背中に、手元にはとんでもない価値のある文字の羅列があるという気力に満ちていないんだけど、凄みを感じる。

 

自分の出来不出来を見極め、納得し、甘い柿を食べて人心地着くというその情景だけでもう文学や芸術を感じる。

 

侘び寂びのような、質素な感じもまたいいが、それにしても三千句!?という重みがあって全体に重厚感も漂う句になっている。

 

子規については坂の上の雲を読まないといけないだろうなぁと思うが、一巻の時点でもう死にそうなんだよな子規。

 

坂の上の雲の中では結構お茶目なキャラだった子規だが、病弱ながら才能だけは誰よりもある、沖田総司のような人物だと印象している。

 

俳句は何処にいても作れるが、それは季語と共に生きている者だからこそだ。

 

昔は歳時記なんてなかったのに、日本人が季節というものに近い存在だったから、三千も俳句を作れたのだろう。

 

季節と近いというのは世界と近いということだ。現代は科学の力で自然を暴いてしまって、そこにある神秘性や神聖で触れることに畏れを感じることもなくなってしまい、それを言葉(ロゴス)で表す方法も、どんどん俗に塗れてしまっている。

 

良い句を作りたかったら、昔の俳句を詠むのもいいと思う。昔はあった神秘性を真似るとこから始めてみてもいいかもしれない。

 

 

いくたびも雪の深さを尋ねけり

 

 

雪国に行った時の句かな。

 

こちらはどれくらい雪が積もりましたか?あぁ、そうですか。ではまた。少し行ってまた、こちらはどのくらい雪が積もりましたか?と聞く。

 

雪が物珍しかったのだろうな。俳句を作るために全国を旅してそこで好奇心旺盛に、現地の人に尋ねて回る子規のお茶目なところが出てて良い句だ。

 

季語の主張が薄いのだが、それでも主役としてそこに座っている感じがなんとも良いな。名調子にもなっているし、幼心のような可愛らしさもある。

 

しかし、子規だから良いんでしょ?と訊かれたら、そうかもしれないと言ってしまうかも。

 

自分のそういう浅ましいところが嫌いだ。しかし、確かめようがない。

 

フラットな状態で、作者が誰かわからないまま、句を紹介されたならその真贋を見極めることは出来ようが、作者の名前ありきだとなかなかそれを悪い風には言えない。

 

権威に弱いなぁ。この句は技術を感じる句ではない。思ったことをすんなり言葉にしたという印象以外は、キャラクター性を感じるだけだ。

 

それでも子規という人間が少しでも分かっていると、病弱な子規が雪国などにいって、句を書いたこと自体にも価値が出てきてしまう。

 

しかし、同じ雪国に行った作品でも川端康成とは大違いだな。子規に童貞感は感じないが、純朴素朴な感じがよく出ている。心根が素直な人なんだろうな。

 

それが一番難しいということは天才は知らないんだろうな。皆がみんが心根を素直にして作品を書こうと努力するが、拗らせてしまった色々が、いくつもの邪魔なレイヤーになってしまって、その奥にある純粋性を覆い隠している。

 

現代人として、見知らぬ人に声をかけることは勇気を出さなければならないようになってしまったし、こういう人がいたらなぁ、と思ってしまうのも、時代のせいなんだろうか。

 

 

痰一斗糸瓜も水も間にあはず

 

 

(辞世の句ではないのかな?)

 

一斗(約18ℓ)程の(誇張して)血痰を吐いて、それを和らげる糸瓜の水(漢方:薬)も間に合わないという句か。

 

季語に糸瓜が入っているが、これが作った俳句とは思えないほど、恐ろしいまでの自然さだ。

 

死にゆくその時まで俳句を作ろうという執着はあれど、執念はないな。最期で歌人としてあろうというそれ自体が、彼にとって自然なことなんだろう。

 

思ったままのことが俳句になるなんてなんて素敵なんだろうか。ここまで達するのに、どれだけ自分にかかった呪いを払えばいいのだろうか。

 

本当に話しているそのままが俳句になっているかのように自然だ。無駄な部分も余計な部分も見当たらない。

 

間に合わなくてどうなった?(死んだのか)と思わせる緊迫感、血痰を一斗も吐いたような覚えがあるという壮絶さ、そこへ薬でもあり季語でもある糸瓜が、歌人としての一番の薬になって、自分を最後に慰めたかのようなそんな切なさがある。

 

俳句の名人といえば正岡子規と呼ばれるくらい名高い彼だが、その特徴は不気味なほどの自然さかもしれない。

 

まだ彼の句は有名どころとこの三句しか知らないが、圧倒的なまでの自然さを前にものすごく高くて厚い壁を感じる。

 

拗らせてしまった自分の感性をどこまでも純粋なものに研ぎ澄ましていくことから始めなければならないだろう。

 

そうなったら言葉というものをもっと信じなければならない。美しい言葉というのは着飾ることをせず、ありのままを映して、欲を表さない境地にあるのだろう。

 

出来ることなら俳句の良さがわかる上で、彼とのファーストコンタクトを図りたかった。

 

自分に着いてしまった余分な脂肉をそぎ落として、満たしている澱んだ血を澄んだ清流のように出来れば……

 

そんな気分にさせられるが、世俗に塗れたこの身体と魂では、全く立ち行かない。

 

憧れはある。だったら心の中に留めて、視線だけでも高くを見つめていたい。

 

自分の中で先生と思える一人になり得る人だ。是非三千句、全てを拝見したい。

 

思いの他、わかりやすい句だが、その分純粋性に驚かされた。

北原白秋

君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

 

 

〔君(不倫相手)を帰そうと見送っていると、敷石の上に(サクサクと)雪が降っている。――あぁ雪よ、リンゴの香りのように降っておくれ。〕

 

良い詩かと思ったら、不倫の詩かよ!日本は昔から作家は不倫するのが当たり前だったのか?恋愛しないと良い詩が書けないんだろうか。

 

心持の綺麗な人が詩を書いたりするものだと思うのだけど、こと恋愛においては、数をこなした方が芸術性は高いのだろうか。

 

それよりも童貞感を感じる詩だって悪いことはないだろうし、達したものだけが評価されるのは間違っていると思う。でもまぁ、僻みだよなぁ。

 

中途半端に恋愛経験があるよりかはどっちかに振り切った方が、思い切った詩が作れると思うし、作家として自分の中のものとの向き合いが出来ないなら、経験を足していくしかない。

 

でも不倫野郎に同情する余地はないんだよなぁ。

 

たとえどんなに美談だろうが、それは間違った関係だし、それを許すのは当人同士以外ありえないから、結局自分で傷を舐めているようにしか思えない。

 

この愛は純粋な愛なんだ!僕たちは間違った出会いをしてしまっただけなんだ!と主張しても、白々しいだけだし、当人も主張しようとも思わないのに、

 

こうして作品という形で後世に残っている辺りが、日本人の恋愛観のふしだらさ、といっても日本人じゃなくても不倫なんて日常茶飯事だろうけど、こうして文学作品として残ってしまうのが、なんとも気持ちが悪い。

 

人の恋愛事情にまで芸術性を求めてしまうのは、この作品をどうこう言うのも、どうこう言っている僕自身にも、余計なお世話だと思う。

 

ただこれが評価されて、名を残しているのが、悔しくてしょうがない。持てない自分も許せないし、芸術の点で負けている事実も許せない。

 

悔しかったらこれよりいい詩を作らなければならないが、それが出来ないのでやきもきするしかない。

 

クソ不倫野郎に負ける心持ちの美しさしかないことが歯痒くて仕方ない。

 

こういうクソ不倫野郎は石田純一のように不倫は文化だと言っているに違いないのだ。

 

しかも、自分の恋愛を作品にして世に発表するということは、自分の恋愛の形を世間の人にも認めてほしいという表われではないか?醜悪以外の何ものでもない。

 

川端康成の雪国を読んだ時にも思ったが、所詮は不倫。誰がどんなに美しく語ろうとも、その辺のゴミにも劣る何よりも価値のないものだ。

 

不倫なんて当人だけが楽しく端から見れば至極どうでもいいことで、誰かこの気持ちを分かって、と詩を作ったりするかもしれないが、人の道に外れたものが美しいわけがない。

 

そういう意味では風立ちぬ堀越二郎が結婚前だが、美女に移り気をしているのも美しくはない。それがリアルだと言われても、創作の世界だったらもっと美しいものだけを見ていたい。

 

 

昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり

 

 

〔昼なのに微かに光る蛍が一匹、(孟宗)竹(藪)から出てきて、昼の光の中へ消えていった]

 

ちゃんとした描写も出来るやないかい。でも蛍って夜行性じゃないのかな?暗いだけで光るのだろうか。

 

その辺がミスマッチでいいでしょ?と言われたら、現実にないものを描写しちゃダメだろうと言ってしまうな。

 

幻想とか心象風景ならいざ知らず、現実の理に反したことは真実ではないので美しいとは言えない。

 

前の詩の印象からこの詩に対しても純粋な気持ちで見れないでいる。やっぱり少し鼻に着く感じが否めない。

 

僕は他人のことを第一印象で決めつけてしまう性質がある。

 

第一印象が良ければ、自分の中で消化できるものとして、扱うことが出来るが、第一印象で不潔な印象を受けてしまった人に対しては、酷く冷淡になる。

 

蔑んで近寄って欲しくないと思い、関わることを拒絶する。自分の中での普通の基準に満たない奴に対してそういう態度をとる。

 

だからこういう形で第一印象がついてしまった北原白秋を不潔な人だと決めてかかってしまうし、その印象は並大抵のことでは覆らない。

 

美しいこと言うけど、こいつ結局クソ不倫野郎なんだよなぁと思ってしまったら、やっぱり格は一段落ちる。

 

だから凄いんだよという人もいると思うが、どうしてもだからダメなんだよという方向に行ってしまう。

 

自分の潔癖を侵された気がして不快なのだ。こんなものを俺の前に出すな!と言った感じである。

 

こういう人は、蛍とか雪とか林檎とか、美しいものをただの着飾る道具にしか思っていないのではないかと疑ってしまう。

 

突き詰めれば好き嫌いの問題になるのかもしれないが、確かに悪は存在する。

 

作為的な創作には技を感じるが、だからこそ美は感じない。取ってつけたような技術はただの余計な飾りにしか思えない。

 

そぎ落とした本質にこそ真実はあると思う。経験上、本質に近いものはすっと胸に入ってくる。

 

そうでなく、疑問や嫌悪があるということは、美しくはないと僕は考える。

 

ただし、一度ケチが着いたものが、評価を改めなくてはならないと思った経験は、非常に稀だ。その中でも、一度嫌いになったものが好きに転じることは今まで一度もなかった。直観力には自信がある。

 

他人から見れば、何の基準かわからないかもしれないが、自分の中で、これという感覚だけはある。

 

読書をしているとそのセンサーの感度を磨いていくのを実感する。そのセンサーによれば、北原白秋は大した男ではない。

 

 

照る月の冷えさだかなるあかり戸に目は凝らしつつ盲ひてゆくなり

 

 

〔煌々と光る月がでた寒い夜、明かり戸に目を凝らすも、私の失明は進んでいくものだ。〕

 

思わず不倫野郎の末路ざまぁ、と思ってしまうが、そう思ってしまうのは自分の心がどんどん浅ましくなっているからだ。

 

こうして文豪や評論家の作品や意見を見て感想を書くようになって、自分という人間はなんて底の浅くやましく人のことを卑下するのにためらいがないのが分かる。

 

もちろんもっと良いように言い回しを変えることも考えたりもした。

 

しかし、自分の抱く感想は黒くよどんだ者ばかりで、尊敬できる人ではない限り、褒めることはせず、ちょっとでも隙があったならばそこを突き、見下げてしまう。

 

僕の哲学の一つに、僕程度のもの以下の人間は、見下してしまっても構わない、というのがある。

 

他人を何で判断するかと言えば、第一印象が一番のウエイトを要する。

 

ということはその人が本当はどんな人かわからなくても、パッと見ただけでそうだと決めつけてしまうということだ。

 

だから本当はどんな奴かわからない、わかっていないというのは往々にしてあるだろう。

 

しかし、自分がその人と関わる短い時間の間に、印象を変えてくれないなら、その人はその程度の人として自分の中で評価が決まる。

 

たった三つの詩で北原白秋を判断すれば、糞不倫野郎が小手先で詩を作り、最終的には糖尿病や腎機能の低下などで目が見えなくなるまで、不摂生を続けた愚かな人だという印象しか残らない。

 

教科書で北原白秋を知ることは出来たが、今後気になって調べることもないだろう。

 

僕の印象はそこから動かない。こんな人の詩が心を打つわけないし、覆せるものなら、僕の人生に介入して覆してみろと思う。

 

僕は本物を探している。世の中にはまがい物でも評価を得ている者は数多ある。それが許せないし、あるべき姿になるべきだと思っている。

 

先生と呼ばれたり、尊敬を得ている人は、それに見合った人物であってほしいものだ。

文鳥・夢十夜 夏目漱石


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文鳥、なんか浮世離れした主人公だな(笑)奇人変人を素朴にした感じだな。こんな人いないよ。

 

いるとしたら随分暢気な人だな。面白いなぁ、なんで金を猫ばばしようとしてるのを目撃しても止めないんだ?

 

紳士の余裕というやつなのか?いや、騙されてる騙されてる(笑)危機感無いなぁ。喋り口調が面白い。

 

ちゃんとキャラクター化している。書く必要のない描写を書くことで主人公がどれほど悩みがなく恵まれた生き方をしているのかがわかる。

 

騙されてる~、集団で騙されてるよぉ(笑)判断がつかないのに安いなぁって言っちゃダメでしょ(笑)

 

ホントこのボンクラ可愛いなぁ。なんか落語のように思えてきたぞ。8時過ぎに起きるのでもう遅かったんだから、昔の人は早起きだよな。優しいな。

 

好感が持てる。確かに夏目漱石はあの時代の坊っちゃんって感じだな。

 

文鳥を昔の女のように思うようになったのに、世話するのも忘れてしまったのにも関わらず、

 

死んでしまった理由を下女に負わせるのは、愚かさとか薄情さより至らなさと未熟さだと思う。

 

文鳥を確かに飼って、死なせるまでいかないと書けない経験から来る創作意欲は素晴らしいことだと思う。

 

何となく傍らにいた文鳥に心を寄せているんだけど、愛着とか執着を持つ前に死んでしまい、文鳥が家族になることはなかった。

 

切ないと言えば切ないがあってもなくてもいい話でもある。それでもあった方が、人生を少しばかり豊かに、切ないものにしてくれる。

 

鳥を飼うということはその程度にしか味つけ、色づけするだけである。

 

特別なようであり、普通のようでもあるが、確かに世話をしてその分、鳥を生かしていたのは自分だったのだとわかると感慨深いものがある。

 

二夜、物騒な話だな。座布団の下になにがあったんだ?和尚と侍の話か。

 

なんだろう、無我の境地になれない侍が僧侶に嫉妬している話だったのか?

 

ものすごい短いからよくわからないうちに終わってしまった。なんとも言えない殺伐とした感じだな。

 

何を伝えたいのかさっぱりわからんが、想像力豊かな漱石が見た夢だってんなら、時代も場所も飛び越えて侍の気持ちになったりするもんなのだろうか。

 

まぁ、所詮は夢の話。深く考えさせる幻を見ただけだ。こういう時空を超えるような夢は見たことないな。

 

夢は自分の見たもので構成されている。漱石も武士のことや六夜の運慶のこととかを強く調べていたのだろうか。

 

三夜、不気味な子供だな。気持ち悪い、不気味な感じが漱石っぽいのかな。怖いなぁこの子供。

 

ホラーよりも不気味だ。聡さが怖い。うわぁ気持ち悪い。こんな短い短編でここまで気味の悪さを書けるのは凄いなぁ。

 

しかもこれが夢っていう設定で行われる凄さよ。結末は分かりそうなものだけど、そこをギリギリ引っ張るのはホラーの手法だ。確かに面白い。

 

でも本棚に置いておきたいとはちょっと思えないかなぁ。夢十夜が全部夢だってのがマイナスポイントになってる。

 

夢だからこそ面白いともいえるんだけど、夢だったら何でもありで、何でもありな割りには物語になっている辺り、気持ち悪さに整合性がついてしまっている。

 

四夜、う~ん、なんなんだろう。こんな夢見たんだけど、にしても出来が悪きやしないか?

 

この短さでなにか思えっていうのは至難の技だぞ。人の夢にとやかく言う時点で評論は成り立たない。

 

一歩引いた目で読書しなければならないが、それは研究になってしまうんじゃないか?

 

捉えようによっては変な解釈が出来るかもしれないが、それは偏見なんじゃないか?エンターテイメントとしては下の中くらいだぞ。

 

なんか夏目漱石だから出版するのが許された感じあるよな。ちょっと妬みが湧いてきた。

 

五夜、途中まで良かったけど、意味がわからんな。天探女ってなんの比喩だ?てか誰なんだ?

 

鳥が鳴くまで待ってやろうという大将に対し、天探女が鳥の真似をして二度鳴いたのに対し、

 

こいつは俺の敵だ!と名指したところ、愛する恋人も殺したこいつを最後まで憎むんだろうけど、

 

何となく手塚治虫火の鳥のようなちょっとした神話感がある。七夜、中々に良い。

 

漱石統合失調症だったということからいつも苦悩に苛まれていたのではないかと共感できる。

 

苛まれるなか、死というのは他人より身近にあって、唆される。

 

自分が生きている不安が書かれていて、心を許したくなるが、僕の求めている漱石はもっと凄い人のはずで、

 

弱さを見せるなら太宰がお株をとっているので、それ以上のものがみたい。

 

太宰が心中なら漱石は他人の目を気にして気にしすぎて心を病んでしまった感じか。

 

足が甲板から離れてからの描写が長いのは、死の恐怖や不安が徐々に自分の首を絞めていく気持ち悪さからか。

 

なにをこんなに不安がってるんだろうか。八夜、物腰が丁寧だな。なにも言えない。

 

日々の生活の一枚をただ馬鹿丁寧に描いた感じだろうか。これも小説の体を成していない。

 

山もなければオチもない。だからなんの感想も浮かばない、印象にも残らないだろう。

 

九夜、母親気がふれたのか?夢の中で母から聞いた、でバフをかけてるのか。物寂しい雰囲気と哀れな感じ。

 

十夜、お伽噺のようでもあり、寓話のようでもある。所詮は夢、不思議なことが起きて、でも支離が滅裂にはなっていない。

 

漱石へのアプローチはずっと失敗に終わっている。合う作家ではないんだろうな。

 

辛うじて読み物として成立しているが、読んでいる楽しみが見つけられなくて辛い。

 

漱石のここがいいんだよなぁ、というのが分かる前に癖の強い部分を先に読んでしまった気がして、出会い方をミスった。漱石は好人物ではないな。

 

物事を見る目は純粋素朴だが、頭が良い分、口が回る。丁寧に描写も出来るが、光るものはそれほど感じられない。やっぱり第一印象が正しかったか。

 

好きにはなれないなぁ。小説を書かねば死んでしまうという気迫も情熱も感じられない。

 

その方が一番暮らしやすいから小説かになったかのような印象を受ける。だからこそ、一生懸命やっている者から嘲笑されたり、

 

それが言葉上では理解できても感情の面で心に響くことはないのだろう。

 

読んで良かったとかためになったとか、前向きに何度でも読み返したくなるという類いの文ではないな。

 

本棚にあったら、いつまでもこれって本当に良い小説なんだろうかと悩んでしまうと思う。

 

なのでそんな迷いは背負いたくないので、読み終わったら躊躇なく手放してしまおう。

 

現国の教科書も、100分名著も良い部分を抜き出すことに成功している。その分、他の部分は捨て置いても差し支えないくらい、なにも感想が浮かばない。

 

自分の感性の栓が詰まっているのか、捉えて共感する体験が足りないのか。

 

小説家は自分の意見に共感してくれるように書くのが普通だが、漱石自体はそれよりは一歩引いた目線で置きにいっている気がする。

 

本当に短い3~4Pの短編だが、読み進まないのはつまらないのと、意味がわからないからだと思う。

 

これを書いて読者に何を思って欲しかったんだろうか。作者の意図やメッセージが伝わらない。

 

すごく頭が良いのにやっていることが普通のことだから違和感があるのか。

 

何でこの人はこんなに頭が良いのにつまらない日常のことばかり書くんだろう。日常のことが自分にとって大事件だったのか。ダメだ。

 

面白さを感じなくなってしまった。何だか小説になりきらないネタ帳を覗いてしまった気分だ。

 

好きにはなれない。

斎藤茂吉

この心葬り果てんと秀の光る錐を畳に刺しにけるかも

 

 

この怒りを鎮めやり場を作って葬ったりも決してせず、先の光る錐を畳に刺したんだよなぁ

 

どんな怒りがあったんだよ(笑)錐で畳を(何度も)刺すほどの怒りってどれほどのものなんだろう。

 

僕は怒りがあったらその場で発散してしまう性だけど、この人は深く自分の中に押しとどめて、その怒りが生半可には消えないように、錐で畳に刻んでいるようでもある。

 

普段は笑顔が好いお隣さんでも実は心の中では…みたいなサスペンスの匂いを感じる。

 

僕は怒りがあったら、(大体家でなんだが)壁を殴って穴をあける。

 

今までにあけた穴は二つだが、一つは中学生の時に、母に僕を家族として扱ってもらえなかった時に激高し、壁を殴った。

 

その時は、既に兄が先に穴をあけたシーンがあったので、その真似をした形になったが、家の壁は中が空洞になっていることを実感した。

 

思いのほか簡単に穴はあいてしまったが、激高した時にでなければ、

 

穴をあけるのは容易ではないくらいには強度があり、あいた穴は台紙で塞いでも、いつまでも残っているので、少し気まずい。

 

それでも、両親が丹精込めて建てた家を少しでも壊すことで、自分の意志を伝えたかったんだと思う。

 

二つ目の穴は最近あけたもので、ドンキで働いていた時に店長にパワハラをされて、我慢の限界がきたからだ。

 

あのままいっていたら、多分店長を刺し殺していたかもしれない。それぐらい怒っていた。

 

病気のせいか、怒りというのはある限界を超えると全身を満たしてしまって、通常の状態に戻れなくなる。

 

仕事を休んでもまたいずれいかなければならないと思うと、どんどん内から怒りが沸いてきて、多分ある一点まで怒りが昇らない限り、覚めることは無い。

 

僕は朝方、あまりの怒りに目を覚まし、この怒りをどうにか表現しないと自分が自分でなくなるという衝動に駆られて、家の壁に穴をあけた。

 

それを母に報告すると、やっとこんなに怒りが沸いているなら辞めた方がいいということになって、ドンキを退職した。

 

それに比べたら、錐で畳を刺すことなんてなんてこともない気がするが、凶器を持っている辺りに狂気を感じる。

 

実際あの時、僕も包丁を持っていたら行くとこまで行ってしまったかもしれない。

 

斎藤茂吉が常時、錐を持って憂さを晴らしていたなら、そこには犯罪すれすれのすり切れた自分がいる。

 

ちょっとでもタガが外れてしまったら、いっそのこと始末してしまった方が楽じゃないか、という方に転んでしまっても不思議ではない。

 

道具を凶器として扱うようになったらお終いだ。

 

本来人間は普通に生きている時、怒りとか憎しみや死から縁遠いところにあって、

 

そうしてしまった方が楽だと判断してしまうのは、自分の中で異常事態が起きている時だ。

 

ただし、死や鬱は周期的に巡ってくるもので、避けられるものではないとも考える。

 

心の平穏を保つために、いろいろ勉強をすること、それでもままならなくて、怒りに染まってしまうことがあっても、

 

大事な人の顔やその人の今後の人生を考えられる冷静な部分を残しておいていられることを願うばかりである。

 

自分の性格上敵を作ることは当たり前なので、上手く対処出来るようになれればと思う。

 

 

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

 

 

喉の赤いつがいの燕が屋根の梁にいて、その下で(足乳根(たらちね)=垂れた乳の:枕詞)母が死にゆかれた

 

 

母親の死というのは、男子にとってとても重いものだと思う。

 

その時、付き合っている恋人や、妻がいるなら、母の代用は可能(でもないけど)だが、

 

唯一自分を産んでくれた母を亡くすことは、一人の男として、一人の人間としての分岐点だと思う。

 

うちは祖父祖母がほぼいなかったので、唯一父方の祖母が亡くなった時、初めて人の死というものを経験した。

 

祖母はさすがあの父の母なだけあって、うちの母は随分と手を焼いたらしい。

 

比較的近所に祖母の家があったが、訪れたのは数回で、僕等は祖母の家から離れて一軒家を建てた。

 

あの時、家族を持ったら自分の家を建てるのが常識だったのもあり、うちの近所でも同年代の家が何軒も立ち並び住宅地が出来た。

 

今では残っている家族はうちくらいで、ほどんどの同年代のご近所さんは自分の家を建てたらしい。

 

僕は実家から離れることは出来ないので、きっと母の死に目にも立ち会うだろう。

 

そうなったとき、きっと病院で最期を看取るだろうから、この詩のように、多分自宅で母の最期を看取る時に、

 

偶然やって来た二匹の燕が、何か新しいものを運んでくれるようで、その下で逝ってしまう母を看取った茂吉は何か救われたような気がしたのかもしれない。

 

中学校の頃、部活帰りの学校の帰り道で、急に両親が死んでしまったらと考えて、考えが止まらなくなり怖くなって、泣いてしまったことがある。

 

今でも家族は大切だ。父はどうしようもない人だけど、母にはたくさんの愛情を注いでもらった。

 

兄はきっと別れがつらくて家族とわざと距離を取っているんだと思う。

 

自分の身体の一部になってしまったら、元妻や娘を失った時に、あんなに辛い思いをしたことは無かったのだと思う。

 

それでも、今生きている家族を蔑ろにするのはどうかと思う。

 

きっと勇気が必要なことだし、また仲良くしてしまったら取り返しはつかなくなる。

 

でもそんな理屈立てて関係するのが家族ではないと思うし、僕は母が生きている限りはずっと笑っていてほしいと思う。

 

父もどうしようもない人だけど、それでもそれを含めたのがうちのあるべき形だし、香川に行ってしまった姉も含め、柳家柳家であるために家族を大事にしたい。

 

 

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

 

 

沈黙している自分に見よとばかりに百房の黒い葡萄に雨が降り注いでいる

 

 

調べてみると、戦争が終わった後で沈黙している自分の前に百房の葡萄=日本人の群れに冷たい雨が降り注いでいるという詩らしい。

 

日本人を葡萄に例えるのは、顔が泥と土埃でまみれて、黒くなっていたからだろうか。

 

日本が負けたんだなということを表している詩、なのかな。ただ一見すると、何か鬱屈とした思いを抱えた自分(我)がある日葡萄畑にたどり着いて、

 

そこでは黒く瑞々しい葡萄、巨峰かな?が雨に濡れて光っているというような希望を感じる。

 

雨も冷たい雨ではなく、きっと天気雨のような日が降り注ぎながらの光景で、

 

大地の生き生きとした感じと主人公の思いとのギャップが素晴らしい一カットだと思ったのだが。

 

俳句より短歌の方がストーリーをつけられるが、その分何を言っているのものなのかわかりづらくはなっていると思う。

 

葡萄と言うとやはり、葡萄酒やキリストなどの聖なるものや生命の象徴のように感じてしまうが、

 

そこを敗戦した日本人の顔に例えるというのは、なかなかに秀逸な感覚だと思う。

 

負けたからこそ聖なるものに近づくという考えなのだろうか。比喩のギャップが上手いこと効いていて泥臭いはずの部分が瑞々しい表現になっている。

 

敗戦を沈黙、と例える部分も、戦後に生まれた僕達に、言えるものは何一つなかった、語るにも辛いという悲痛な感じが伝わって、重々しい。

 

重い堅い印象を与え、その比重の割合も考えられているボディに来る詩だ。敗戦をまざまざと見せつけられ、この光景を忘れるでないと誰かに言われたような気がしたのだろうと思う。

 

重い軽いの話だと、やっぱり古いもの、激動の時代のものは重く感じる。

 

プレバトの千賀や岩永さんの俳句に比べ、東国原英夫の俳句は明らかに段違いで思い。

 

若いものが薄く軽くスタイリッシュになっていく中で、ああいう昭和の親父の臭いのする俳句は、やはり味わいの奥深さが違う。

 

順当に永世名人の座に就けば、東国原英夫の俳句の方が、梅沢富雄の俳句より、句集に残る打率が高い気がする。

 

名句を作っても一段しか前に進まず、少しでも添削の余地があれば、後退してしまうルールに縛られて、東国原英夫は正しい評価を得ていない。

 

後世に残る名句が一バラエティー番組で作れるか否か。まぁ句集が出版されても、買わないと思うが、

 

単なる一夜の娯楽として大衆を楽しませるために頑張ってほしいものだ。

幼年期の終わり(要約) アーサー・C・クラーク 

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オーバーロードとの会談が終わったストルムグレンを迎えた事務補佐官のピーターは早速会談の成果を聞き、ストルムグレンは何とも言えないと答えた。そこでピーターはオーバーロードたちに対して邪推をする。ストルムグレンは苦笑した。ストルムグレンはピーターの推理を否定した。カレルレンにはなにか大きな目的があるという仕草を感じる。彼は、この星での仕事が終わればすぐに自分の元居たところに帰ると言っている。~

 

~ピーターはオーバーロードたちは神にも近い存在だと聞くが、ストルムグレンはそんな彼らでもこれから先の未来に恐れているらしいと言う。ピーターは彼らは地球を侵略するつもりだと妄想を主張する。ストルムグレンはゆっくり首を振った。彼らの背後には高度な文明世界があることは間違いない。それに彼らは我々が生まれるずっと前から地球人を見て来たんだと決めてかかる。彼は英語を私達以上に完璧に使える。彼はフィンランド語だって使うことが出来るのだ~

 

~それに全政治家の経歴を知っている。それはこれまでの政治家がしてきた裏工作だって知っているということだ。だが、彼らオーバーロードが我々人間の進化の先以上の存在とは思っていない。しかし、彼(ら)の地球にしてくれたことは我々人間には到底不可能なことだ。しかしそれでも姿を見せてくれないことにはこの邪推は止まることは無い。いつかその姿を激写するときが来るかもしれない。もしそんなことになっても彼らは何の問題にしないであろうことは分かっていたが~

 

オーバーロードが地球にやって来た最初の年、もちろんパニックは起こったがそれは予想より早く鎮まり、人類はオーバーロードたちを受け入れた。それどころか、オーバーロードたちが来たお陰で地球に初めて平和が訪れたことを感謝するまであった。しかし、人類はすぐにその感謝を忘れてしまった。それどころか姿を一向に見せないでいるオーバーロードたちに憤りを感じ始めた。しかし、ストルムグレンは国際連合の事務総長として自分とカレルレンが会見をするには意味があることだと思っていた。オーバーロードたちが必要でないことをするはずがないという確信があった。彼らとのやり取りは全部、自分とのやり取りだけに留まっている。~

 

ソビエトの(国際連合)代表団はストルムグレンばかり会談するのは憲章違反だとする何度も抗議していたが、カレルレンは気にも留めない。人類がしてきたこれまでの愚かな行為をオーバーロードたちはいともたやすく、またその抵抗も受けることもなく、鎮めてしまった。地球は未だ主義主張がバラバラで決して一つにまとまっているとは言えなかった。それでもオーバーロードたちは自分たちに関与しないのは、そんな些末なことよりも大きな改革を用意しているからだと考えていた。結論は出ないが、人類はオーバーロードたちの示す未来を誰一人知らずにいた。~

 

~ストルムグレンは国連事務総長の役目を終わらせられようとしていた。彼の一身を投げ打っての仕事ぶりだったが、世間は彼をオーバーロードたちと同一視するようになってきたからだ。今日も眠れぬ夜、ストルムグレンは自宅の屋上庭園に出た。あと四ヵ月のちには、誰か他の人間が事務総長の地位に就いている。それはオーバーロードたちの正体を知るための時間があと残りわずかしかないことを意味していた。~

 

~ストルムグレンがカレルレンを疑うのは、つい最近のことであった。自由連盟の言っていることに影響されたところもあるが、人類全体がオーバーロードの正体を知りたいと強く願い始めたからであろう。オーバーロードが人類に安心を与えてくれたのは歴史から見ても事実だ。先住民の文化を新興国が抹殺したように、今人類はオーバーロードたちに挑戦を受けている。そんなところに中央通信から、自由連盟の“人類を統治するのは怪物か?”という見出しのニュースが入った。ニュースに書かれた声明の内容は、“君たちは異様な姿から私たちに会えないでいる、そうであろう?”という今まで何度も行われた問だった。

 

~ストルムグレンは馬鹿馬鹿しいとうんざりした。たとえその問いが正しくても、人間はどんなに醜悪な見た目をしていても、それを美しいと思える心を持っている。そのことをオーバーロードたちが分かってくれれば今のように姿を現さないで指示するようなこともなくなるかもしれない。とは言いつつも、自分も単なる好奇心から彼らの姿を最後にこの眼で見たいと思っている。翌朝補佐官のピーターはストルムグレンが登庁しないことに苛立った。しかし、それもだんだんと心配に変わり、ストルムグレンの行方を捜していたが、いち早く自体に気づいた各通信社が、国連事務総長代理でもあるピーターを祭り上げた~