斎藤茂吉
この心葬り果てんと秀の光る錐を畳に刺しにけるかも
この怒りを鎮めやり場を作って葬ったりも決してせず、先の光る錐を畳に刺したんだよなぁ
どんな怒りがあったんだよ(笑)錐で畳を(何度も)刺すほどの怒りってどれほどのものなんだろう。
僕は怒りがあったらその場で発散してしまう性だけど、この人は深く自分の中に押しとどめて、その怒りが生半可には消えないように、錐で畳に刻んでいるようでもある。
普段は笑顔が好いお隣さんでも実は心の中では…みたいなサスペンスの匂いを感じる。
僕は怒りがあったら、(大体家でなんだが)壁を殴って穴をあける。
今までにあけた穴は二つだが、一つは中学生の時に、母に僕を家族として扱ってもらえなかった時に激高し、壁を殴った。
その時は、既に兄が先に穴をあけたシーンがあったので、その真似をした形になったが、家の壁は中が空洞になっていることを実感した。
思いのほか簡単に穴はあいてしまったが、激高した時にでなければ、
穴をあけるのは容易ではないくらいには強度があり、あいた穴は台紙で塞いでも、いつまでも残っているので、少し気まずい。
それでも、両親が丹精込めて建てた家を少しでも壊すことで、自分の意志を伝えたかったんだと思う。
二つ目の穴は最近あけたもので、ドンキで働いていた時に店長にパワハラをされて、我慢の限界がきたからだ。
あのままいっていたら、多分店長を刺し殺していたかもしれない。それぐらい怒っていた。
病気のせいか、怒りというのはある限界を超えると全身を満たしてしまって、通常の状態に戻れなくなる。
仕事を休んでもまたいずれいかなければならないと思うと、どんどん内から怒りが沸いてきて、多分ある一点まで怒りが昇らない限り、覚めることは無い。
僕は朝方、あまりの怒りに目を覚まし、この怒りをどうにか表現しないと自分が自分でなくなるという衝動に駆られて、家の壁に穴をあけた。
それを母に報告すると、やっとこんなに怒りが沸いているなら辞めた方がいいということになって、ドンキを退職した。
それに比べたら、錐で畳を刺すことなんてなんてこともない気がするが、凶器を持っている辺りに狂気を感じる。
実際あの時、僕も包丁を持っていたら行くとこまで行ってしまったかもしれない。
斎藤茂吉が常時、錐を持って憂さを晴らしていたなら、そこには犯罪すれすれのすり切れた自分がいる。
ちょっとでもタガが外れてしまったら、いっそのこと始末してしまった方が楽じゃないか、という方に転んでしまっても不思議ではない。
道具を凶器として扱うようになったらお終いだ。
本来人間は普通に生きている時、怒りとか憎しみや死から縁遠いところにあって、
そうしてしまった方が楽だと判断してしまうのは、自分の中で異常事態が起きている時だ。
ただし、死や鬱は周期的に巡ってくるもので、避けられるものではないとも考える。
心の平穏を保つために、いろいろ勉強をすること、それでもままならなくて、怒りに染まってしまうことがあっても、
大事な人の顔やその人の今後の人生を考えられる冷静な部分を残しておいていられることを願うばかりである。
自分の性格上敵を作ることは当たり前なので、上手く対処出来るようになれればと思う。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
喉の赤いつがいの燕が屋根の梁にいて、その下で(足乳根(たらちね)=垂れた乳の:枕詞)母が死にゆかれた
母親の死というのは、男子にとってとても重いものだと思う。
その時、付き合っている恋人や、妻がいるなら、母の代用は可能(でもないけど)だが、
唯一自分を産んでくれた母を亡くすことは、一人の男として、一人の人間としての分岐点だと思う。
うちは祖父祖母がほぼいなかったので、唯一父方の祖母が亡くなった時、初めて人の死というものを経験した。
祖母はさすがあの父の母なだけあって、うちの母は随分と手を焼いたらしい。
比較的近所に祖母の家があったが、訪れたのは数回で、僕等は祖母の家から離れて一軒家を建てた。
あの時、家族を持ったら自分の家を建てるのが常識だったのもあり、うちの近所でも同年代の家が何軒も立ち並び住宅地が出来た。
今では残っている家族はうちくらいで、ほどんどの同年代のご近所さんは自分の家を建てたらしい。
僕は実家から離れることは出来ないので、きっと母の死に目にも立ち会うだろう。
そうなったとき、きっと病院で最期を看取るだろうから、この詩のように、多分自宅で母の最期を看取る時に、
偶然やって来た二匹の燕が、何か新しいものを運んでくれるようで、その下で逝ってしまう母を看取った茂吉は何か救われたような気がしたのかもしれない。
中学校の頃、部活帰りの学校の帰り道で、急に両親が死んでしまったらと考えて、考えが止まらなくなり怖くなって、泣いてしまったことがある。
今でも家族は大切だ。父はどうしようもない人だけど、母にはたくさんの愛情を注いでもらった。
兄はきっと別れがつらくて家族とわざと距離を取っているんだと思う。
自分の身体の一部になってしまったら、元妻や娘を失った時に、あんなに辛い思いをしたことは無かったのだと思う。
それでも、今生きている家族を蔑ろにするのはどうかと思う。
きっと勇気が必要なことだし、また仲良くしてしまったら取り返しはつかなくなる。
でもそんな理屈立てて関係するのが家族ではないと思うし、僕は母が生きている限りはずっと笑っていてほしいと思う。
父もどうしようもない人だけど、それでもそれを含めたのがうちのあるべき形だし、香川に行ってしまった姉も含め、柳家が柳家であるために家族を大事にしたい。
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
沈黙している自分に見よとばかりに百房の黒い葡萄に雨が降り注いでいる
調べてみると、戦争が終わった後で沈黙している自分の前に百房の葡萄=日本人の群れに冷たい雨が降り注いでいるという詩らしい。
日本人を葡萄に例えるのは、顔が泥と土埃でまみれて、黒くなっていたからだろうか。
日本が負けたんだなということを表している詩、なのかな。ただ一見すると、何か鬱屈とした思いを抱えた自分(我)がある日葡萄畑にたどり着いて、
そこでは黒く瑞々しい葡萄、巨峰かな?が雨に濡れて光っているというような希望を感じる。
雨も冷たい雨ではなく、きっと天気雨のような日が降り注ぎながらの光景で、
大地の生き生きとした感じと主人公の思いとのギャップが素晴らしい一カットだと思ったのだが。
俳句より短歌の方がストーリーをつけられるが、その分何を言っているのものなのかわかりづらくはなっていると思う。
葡萄と言うとやはり、葡萄酒やキリストなどの聖なるものや生命の象徴のように感じてしまうが、
そこを敗戦した日本人の顔に例えるというのは、なかなかに秀逸な感覚だと思う。
負けたからこそ聖なるものに近づくという考えなのだろうか。比喩のギャップが上手いこと効いていて泥臭いはずの部分が瑞々しい表現になっている。
敗戦を沈黙、と例える部分も、戦後に生まれた僕達に、言えるものは何一つなかった、語るにも辛いという悲痛な感じが伝わって、重々しい。
重い堅い印象を与え、その比重の割合も考えられているボディに来る詩だ。敗戦をまざまざと見せつけられ、この光景を忘れるでないと誰かに言われたような気がしたのだろうと思う。
重い軽いの話だと、やっぱり古いもの、激動の時代のものは重く感じる。
プレバトの千賀や岩永さんの俳句に比べ、東国原英夫の俳句は明らかに段違いで思い。
若いものが薄く軽くスタイリッシュになっていく中で、ああいう昭和の親父の臭いのする俳句は、やはり味わいの奥深さが違う。
順当に永世名人の座に就けば、東国原英夫の俳句の方が、梅沢富雄の俳句より、句集に残る打率が高い気がする。
名句を作っても一段しか前に進まず、少しでも添削の余地があれば、後退してしまうルールに縛られて、東国原英夫は正しい評価を得ていない。
後世に残る名句が一バラエティー番組で作れるか否か。まぁ句集が出版されても、買わないと思うが、
単なる一夜の娯楽として大衆を楽しませるために頑張ってほしいものだ。