正岡子規
三千の俳句を閲し柿二つ
ずらっと自分の作った俳句三千句を書にまとめ、それの一つ一つの出来を、柿を食いながら確かめているという句なのかな。
三千句も!?という驚きと、それを閲するという難しい言い回しをして確認しているのも、そこにあるべき言葉が納まっている感じもするし、柿二つというところも、果物が好きだった子規らしい句だと思う。
最近俳句を作ることが出来ていないが、少し前はプレバトが放送される度に一句作って、NHK俳句を見ては俳句を作ってとしていた時期がある。
その時調子が良くて、何句かいい出来のものがあったので、おーいお茶の俳句コンテストに応募した。
7月に結果は出るが、多分駄目だろう。心の中では絶対にいけると思っているが(笑)
以前、第一生命の川柳のコンテストがあった時は入賞して、ウィッシュで有名なダイゴの指の部分がない手袋を貰ったが、あんなもの運以外の何物でもない。
夏井先生が言っていたが、俳句はたくさん作る以外に成長する方法はないと言う。子規の三千句が全て良い句だったとしても、それ以上に何万と俳句を作ってきたからの賜物だろう。
初っ端で、子規という人の凄さが分かるパンチの効いた選句だと思う。
初心者だと季語を選んでから、あと残りの音数を何で埋めていくかと考えてしまうが、子規は自然に柿という季語と共に生きているので、自分が描きたい情景にすんなり文字が入っていった印象になる。
一仕事終えてから柿を食う。そんな秋の情景が、心に沁みてくる。
何となく寂しいその背中に、手元にはとんでもない価値のある文字の羅列があるという気力に満ちていないんだけど、凄みを感じる。
自分の出来不出来を見極め、納得し、甘い柿を食べて人心地着くというその情景だけでもう文学や芸術を感じる。
侘び寂びのような、質素な感じもまたいいが、それにしても三千句!?という重みがあって全体に重厚感も漂う句になっている。
子規については坂の上の雲を読まないといけないだろうなぁと思うが、一巻の時点でもう死にそうなんだよな子規。
坂の上の雲の中では結構お茶目なキャラだった子規だが、病弱ながら才能だけは誰よりもある、沖田総司のような人物だと印象している。
俳句は何処にいても作れるが、それは季語と共に生きている者だからこそだ。
昔は歳時記なんてなかったのに、日本人が季節というものに近い存在だったから、三千も俳句を作れたのだろう。
季節と近いというのは世界と近いということだ。現代は科学の力で自然を暴いてしまって、そこにある神秘性や神聖で触れることに畏れを感じることもなくなってしまい、それを言葉(ロゴス)で表す方法も、どんどん俗に塗れてしまっている。
良い句を作りたかったら、昔の俳句を詠むのもいいと思う。昔はあった神秘性を真似るとこから始めてみてもいいかもしれない。
いくたびも雪の深さを尋ねけり
雪国に行った時の句かな。
こちらはどれくらい雪が積もりましたか?あぁ、そうですか。ではまた。少し行ってまた、こちらはどのくらい雪が積もりましたか?と聞く。
雪が物珍しかったのだろうな。俳句を作るために全国を旅してそこで好奇心旺盛に、現地の人に尋ねて回る子規のお茶目なところが出てて良い句だ。
季語の主張が薄いのだが、それでも主役としてそこに座っている感じがなんとも良いな。名調子にもなっているし、幼心のような可愛らしさもある。
しかし、子規だから良いんでしょ?と訊かれたら、そうかもしれないと言ってしまうかも。
自分のそういう浅ましいところが嫌いだ。しかし、確かめようがない。
フラットな状態で、作者が誰かわからないまま、句を紹介されたならその真贋を見極めることは出来ようが、作者の名前ありきだとなかなかそれを悪い風には言えない。
権威に弱いなぁ。この句は技術を感じる句ではない。思ったことをすんなり言葉にしたという印象以外は、キャラクター性を感じるだけだ。
それでも子規という人間が少しでも分かっていると、病弱な子規が雪国などにいって、句を書いたこと自体にも価値が出てきてしまう。
しかし、同じ雪国に行った作品でも川端康成とは大違いだな。子規に童貞感は感じないが、純朴素朴な感じがよく出ている。心根が素直な人なんだろうな。
それが一番難しいということは天才は知らないんだろうな。皆がみんが心根を素直にして作品を書こうと努力するが、拗らせてしまった色々が、いくつもの邪魔なレイヤーになってしまって、その奥にある純粋性を覆い隠している。
現代人として、見知らぬ人に声をかけることは勇気を出さなければならないようになってしまったし、こういう人がいたらなぁ、と思ってしまうのも、時代のせいなんだろうか。
痰一斗糸瓜も水も間にあはず
(辞世の句ではないのかな?)
一斗(約18ℓ)程の(誇張して)血痰を吐いて、それを和らげる糸瓜の水(漢方:薬)も間に合わないという句か。
季語に糸瓜が入っているが、これが作った俳句とは思えないほど、恐ろしいまでの自然さだ。
死にゆくその時まで俳句を作ろうという執着はあれど、執念はないな。最期で歌人としてあろうというそれ自体が、彼にとって自然なことなんだろう。
思ったままのことが俳句になるなんてなんて素敵なんだろうか。ここまで達するのに、どれだけ自分にかかった呪いを払えばいいのだろうか。
本当に話しているそのままが俳句になっているかのように自然だ。無駄な部分も余計な部分も見当たらない。
間に合わなくてどうなった?(死んだのか)と思わせる緊迫感、血痰を一斗も吐いたような覚えがあるという壮絶さ、そこへ薬でもあり季語でもある糸瓜が、歌人としての一番の薬になって、自分を最後に慰めたかのようなそんな切なさがある。
俳句の名人といえば正岡子規と呼ばれるくらい名高い彼だが、その特徴は不気味なほどの自然さかもしれない。
まだ彼の句は有名どころとこの三句しか知らないが、圧倒的なまでの自然さを前にものすごく高くて厚い壁を感じる。
拗らせてしまった自分の感性をどこまでも純粋なものに研ぎ澄ましていくことから始めなければならないだろう。
そうなったら言葉というものをもっと信じなければならない。美しい言葉というのは着飾ることをせず、ありのままを映して、欲を表さない境地にあるのだろう。
出来ることなら俳句の良さがわかる上で、彼とのファーストコンタクトを図りたかった。
自分に着いてしまった余分な脂肉をそぎ落として、満たしている澱んだ血を澄んだ清流のように出来れば……
そんな気分にさせられるが、世俗に塗れたこの身体と魂では、全く立ち行かない。
憧れはある。だったら心の中に留めて、視線だけでも高くを見つめていたい。
自分の中で先生と思える一人になり得る人だ。是非三千句、全てを拝見したい。
思いの他、わかりやすい句だが、その分純粋性に驚かされた。