北原白秋
君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
〔君(不倫相手)を帰そうと見送っていると、敷石の上に(サクサクと)雪が降っている。――あぁ雪よ、リンゴの香りのように降っておくれ。〕
良い詩かと思ったら、不倫の詩かよ!日本は昔から作家は不倫するのが当たり前だったのか?恋愛しないと良い詩が書けないんだろうか。
心持の綺麗な人が詩を書いたりするものだと思うのだけど、こと恋愛においては、数をこなした方が芸術性は高いのだろうか。
それよりも童貞感を感じる詩だって悪いことはないだろうし、達したものだけが評価されるのは間違っていると思う。でもまぁ、僻みだよなぁ。
中途半端に恋愛経験があるよりかはどっちかに振り切った方が、思い切った詩が作れると思うし、作家として自分の中のものとの向き合いが出来ないなら、経験を足していくしかない。
でも不倫野郎に同情する余地はないんだよなぁ。
たとえどんなに美談だろうが、それは間違った関係だし、それを許すのは当人同士以外ありえないから、結局自分で傷を舐めているようにしか思えない。
この愛は純粋な愛なんだ!僕たちは間違った出会いをしてしまっただけなんだ!と主張しても、白々しいだけだし、当人も主張しようとも思わないのに、
こうして作品という形で後世に残っている辺りが、日本人の恋愛観のふしだらさ、といっても日本人じゃなくても不倫なんて日常茶飯事だろうけど、こうして文学作品として残ってしまうのが、なんとも気持ちが悪い。
人の恋愛事情にまで芸術性を求めてしまうのは、この作品をどうこう言うのも、どうこう言っている僕自身にも、余計なお世話だと思う。
ただこれが評価されて、名を残しているのが、悔しくてしょうがない。持てない自分も許せないし、芸術の点で負けている事実も許せない。
悔しかったらこれよりいい詩を作らなければならないが、それが出来ないのでやきもきするしかない。
クソ不倫野郎に負ける心持ちの美しさしかないことが歯痒くて仕方ない。
こういうクソ不倫野郎は石田純一のように不倫は文化だと言っているに違いないのだ。
しかも、自分の恋愛を作品にして世に発表するということは、自分の恋愛の形を世間の人にも認めてほしいという表われではないか?醜悪以外の何ものでもない。
川端康成の雪国を読んだ時にも思ったが、所詮は不倫。誰がどんなに美しく語ろうとも、その辺のゴミにも劣る何よりも価値のないものだ。
不倫なんて当人だけが楽しく端から見れば至極どうでもいいことで、誰かこの気持ちを分かって、と詩を作ったりするかもしれないが、人の道に外れたものが美しいわけがない。
そういう意味では風立ちぬの堀越二郎が結婚前だが、美女に移り気をしているのも美しくはない。それがリアルだと言われても、創作の世界だったらもっと美しいものだけを見ていたい。
昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり
〔昼なのに微かに光る蛍が一匹、(孟宗)竹(藪)から出てきて、昼の光の中へ消えていった]
ちゃんとした描写も出来るやないかい。でも蛍って夜行性じゃないのかな?暗いだけで光るのだろうか。
その辺がミスマッチでいいでしょ?と言われたら、現実にないものを描写しちゃダメだろうと言ってしまうな。
幻想とか心象風景ならいざ知らず、現実の理に反したことは真実ではないので美しいとは言えない。
前の詩の印象からこの詩に対しても純粋な気持ちで見れないでいる。やっぱり少し鼻に着く感じが否めない。
僕は他人のことを第一印象で決めつけてしまう性質がある。
第一印象が良ければ、自分の中で消化できるものとして、扱うことが出来るが、第一印象で不潔な印象を受けてしまった人に対しては、酷く冷淡になる。
蔑んで近寄って欲しくないと思い、関わることを拒絶する。自分の中での普通の基準に満たない奴に対してそういう態度をとる。
だからこういう形で第一印象がついてしまった北原白秋を不潔な人だと決めてかかってしまうし、その印象は並大抵のことでは覆らない。
美しいこと言うけど、こいつ結局クソ不倫野郎なんだよなぁと思ってしまったら、やっぱり格は一段落ちる。
だから凄いんだよという人もいると思うが、どうしてもだからダメなんだよという方向に行ってしまう。
自分の潔癖を侵された気がして不快なのだ。こんなものを俺の前に出すな!と言った感じである。
こういう人は、蛍とか雪とか林檎とか、美しいものをただの着飾る道具にしか思っていないのではないかと疑ってしまう。
突き詰めれば好き嫌いの問題になるのかもしれないが、確かに悪は存在する。
作為的な創作には技を感じるが、だからこそ美は感じない。取ってつけたような技術はただの余計な飾りにしか思えない。
そぎ落とした本質にこそ真実はあると思う。経験上、本質に近いものはすっと胸に入ってくる。
そうでなく、疑問や嫌悪があるということは、美しくはないと僕は考える。
ただし、一度ケチが着いたものが、評価を改めなくてはならないと思った経験は、非常に稀だ。その中でも、一度嫌いになったものが好きに転じることは今まで一度もなかった。直観力には自信がある。
他人から見れば、何の基準かわからないかもしれないが、自分の中で、これという感覚だけはある。
読書をしているとそのセンサーの感度を磨いていくのを実感する。そのセンサーによれば、北原白秋は大した男ではない。
照る月の冷えさだかなるあかり戸に目は凝らしつつ盲ひてゆくなり
〔煌々と光る月がでた寒い夜、明かり戸に目を凝らすも、私の失明は進んでいくものだ。〕
思わず不倫野郎の末路ざまぁ、と思ってしまうが、そう思ってしまうのは自分の心がどんどん浅ましくなっているからだ。
こうして文豪や評論家の作品や意見を見て感想を書くようになって、自分という人間はなんて底の浅くやましく人のことを卑下するのにためらいがないのが分かる。
もちろんもっと良いように言い回しを変えることも考えたりもした。
しかし、自分の抱く感想は黒くよどんだ者ばかりで、尊敬できる人ではない限り、褒めることはせず、ちょっとでも隙があったならばそこを突き、見下げてしまう。
僕の哲学の一つに、僕程度のもの以下の人間は、見下してしまっても構わない、というのがある。
他人を何で判断するかと言えば、第一印象が一番のウエイトを要する。
ということはその人が本当はどんな人かわからなくても、パッと見ただけでそうだと決めつけてしまうということだ。
だから本当はどんな奴かわからない、わかっていないというのは往々にしてあるだろう。
しかし、自分がその人と関わる短い時間の間に、印象を変えてくれないなら、その人はその程度の人として自分の中で評価が決まる。
たった三つの詩で北原白秋を判断すれば、糞不倫野郎が小手先で詩を作り、最終的には糖尿病や腎機能の低下などで目が見えなくなるまで、不摂生を続けた愚かな人だという印象しか残らない。
教科書で北原白秋を知ることは出来たが、今後気になって調べることもないだろう。
僕の印象はそこから動かない。こんな人の詩が心を打つわけないし、覆せるものなら、僕の人生に介入して覆してみろと思う。
僕は本物を探している。世の中にはまがい物でも評価を得ている者は数多ある。それが許せないし、あるべき姿になるべきだと思っている。
先生と呼ばれたり、尊敬を得ている人は、それに見合った人物であってほしいものだ。