柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

勝利について

勝利について話してみる。

 

勝利、つまりは勝ち負けの世界の話だ。

 

自分が勝利をつかめば、相対する者の敗北がある。

 

僕は、学生時代、バスケットボール部に所属していたから、かなり長い間、勝負の世界に身を置いていた。

 

その中で、あまり勝利をつかんだ記憶はない。

 

あるのは、敗けの悔しさと、それまで積み重ねてきた練習という努力の跡だ。

 

それは、団体スポーツだから、一人一人にかかる敗けの責と意識が低いんだと思う。

 

現に、部活の延長で、駅伝の強化メンバー選ばれ、個人としての敗けを味わうと、そのやり場のない憤りに、文字通り痛感させられる。

 

僕の友人に、極度に負けず嫌いな子がいる。

 

僕のイメージする負けず嫌いは、絶対勝たないと気が済まない、というスポーツマンらしいものだ。

 

しかし、彼は違う。

 

彼は負けなければいい、という思想の持ち主だ。

 

それは、勝利を目指す負けず嫌いとは、似て決定的に非なるものだ。

 

彼が、負けないためにすることとは。

 

まず、勝てる相手としか勝負をしない。

 

自分の持ち札を入念に吟味して、決して負けるような勝負はしない。勝算があるもののみに自分の活路を見出だす。

 

それは、策士として、軍師として正しい姿だ。

 

彼はきっと、誇りや理想を掲げて勝負する奴等は、馬鹿に見えているんだろう。

 

頭のいい選択の仕方だと思う。

 

僕はというと、勝利よりもそれまでの仮定で満足が出来ればいいと思ってしまう質で、どうしても勝たなくてはいけないと思えない方だ。

 

あるとすれば、替えの効かないものを手に入れるかどうかの時か、負けることは自分のプライドが許せない、つまり、誇りを脅かされた時だろう。

 

彼の話に戻る。

 

彼が負けないためにしたことは、ひたすら自分の武器を研ぎ澄ますこと。

 

そして、敵と思う人物を自分の周りに置かないことだ。

 

つまりは、自分を肯定してくれる者達だけで、自分の身内を構成する。

 

そんな生き方を見ていると、随分と生きづらそうに生きているな、と思ってしまう。

 

ニュアンスから読み取れるように、彼は良い人間ではない。僕の見てきた人間のなかで、悪と断定できてしまう人柄をしている。

 

人の不幸を何よりも悦び、自分の失敗を何よりも恐れる。

 

僕はそれを見ていて、いや、もしかしたら考え違いがあるのではないか、と考えた。

 

彼は、負けず嫌い、勝ちにこだわっているのではなく、

 

どう負けるのが一番カッコいいのかと考えているのではないか。

 

彼は、命をないがしろにする。

 

自分なんていつ死んでも良いと、口癖のように言う。

 

それは、結婚しても、子供が二人出来ても変わらない。

 

彼に、誰かの責を負うという意識がないのかもしれない。

 

自分の人生は、自分だけのもので、自分が死んだ後は、どうなっても構わないと、多分、本気で思っている。

 

それでも、僕がそんな彼が面白いから、彼と付き合っている。

 

自分の中にはない思想の持ち主だからだ。

 

彼は、誰よりも負けたくないと思うがあまり、負けの美学を築き上げてしまった。

 

性格が悪いが、僕はそのことが面白くてしょうがない。

 

あれだけ負けたくないと思っている人間が、勝つことよりも、良い敗け方を考えているなんて。

 

だから彼は、僕にも無理を強要し、僕がボロボロになって朽ち果てた時、僕のことをやっと認められたんだろう。

 

彼は全力を振り絞って負けることに憧れている。

 

むしろ、勝利は次のあるかもしれないカッコ悪い負けの、布石だとも思っているのだろう。

 

それが、彼の呪いだ。

 

そんな彼でも、純粋にアニメを楽しむ心も持ち合わせている。

 

彼の認める宮崎駿等は、彼にとって気持ちよく負けを味わわせてくれる存在なのだろう。

 

しかし、僕もかかっている呪いで、賢人達の粗が見えてしまう。

 

それは、年の功から解るものか、探求の賜物なのかはわからないが、一種の業とも考えられる。

 

その時に、勝つために何をすれば良いのかというのが、見えてくる。

 

ただ、勝ち負けに拘るのは、僕のやり方ではないので、それは、成功という形で、世の中に認めれるように、努力をしようと思う。

 

やっぱり、岡田斗司夫の話は面白い。

 

岡田さんの言う、4タイプの中で、僕は完全に『理想』だし、彼は『司令』だ。