柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

ミニマリズムについて

ミニマリズム

 

この言葉が昨今に聞くようになった言葉だということは、僕も認識している。

 

しかし、その本質はわかっていない。

 

しかし、逼迫していく(別にしていない転換期なだけだと思う)生活の中で、ミニマリズムについて考えることがあったので、記述してみる。

 

ミニマリズムwikiで調べると、

『完成度を追求するために、装飾的思考を減らすのではなく、むしろそれらを最小限まで省略する表現スタイル。最小限主義』

 

と、ある。僕が知っているミニマリズム(もしくはミニマリスト)とは少し違う。

 

僕の知っているミニマリズム、むしろ、ミニマリストと呼ぶ人たちは、

 

そういった、省略するというより、自分の必要とするものを、とことんまでシンプルにするという人たちのことだ。

 

白シャツと下着、無地の靴下。テレビは不要で、冷蔵庫には水しか入っていないような、人間としての味をとことんまで薄くした人たち(というと語弊がかなりあるが)。

 

僕はそんな人に比べて、味やこだわりしかない人間なので、自分とは対極な人たちなんだろうと思っていた。

 

しかし、自分の必要と思うものをとことんまで見直すのは、ミニマリズムに準している。

 

そういった祖語があったことを認め、自分にとってのミニマリズムを追究してみる。

 

僕は、人に比べ物が多いほうだ。家にはCDや本であふれている。おしゃれも好きなので、服の種類も多い。

 

そんな中で、ついに部屋から物が溢れてしまった。

 

家だって、新しく頑丈なわけではない。もしかしたら床が抜けてしまうかも。

 

本棚から溢れた本は、床に積み重なっている。

 

そうなった時、これは、本当に自分に必要なものなのか、という感情が生まれる。

 

漫画は、本棚にきれいに入っているが、見返すことはない。

 

そう、僕のコレクター気質が、集めることをまず目的としていた。

 

集めて満足なら、それは本棚を飾る装飾に過ぎない。

 

つまりは、ファッションとして本や漫画を購入していたのだ。

 

CDに至っては、収納するスペースがないので、CDラックを買って、中身だけ抜いて、CDケースは捨ててしまっている。

 

そうなった時、なぜそこまでして、物を買うのかという疑問も生まれてくる。

 

前のブログに、お金について記述したが、お金を使って物を買うというのは、罪悪感を抱えないためだ。

 

それで、心が満足するためだ。

 

罪悪感。それは本来、その物を大切にしていないから生まれるものではないか。

 

本棚に飾ることが、本の一番いい使い方なのか。

 

別に、部屋に友達を呼ぶわけではない。自分が棚を見て満足する(それも普段の生活の中で見ていて満足感に浸る瞬間はほぼない。むしろ空いているスペースが埋まった時に初めて満足し、そしてさらにスペースがない、なくなったことを嘆き始める)だけのものだ。

 

そんなもの、もはや必要としているのではないと、僕は思った。

 

幾ら綺麗で感動してオシャレで壮大な絵や文が描(書)かれていても、それを見返さないなら、意味がない。

 

将来、自分の子供に見せるために、という信念があっても、それが本である、という必要性があるのか。

 

電子化が進む昨今で、kindleYouTubeなどでデータとして保存はできる。

 

データとして保存が出来るなら、収納スペースに悩むことも、大幅に減少する。

 

本当に必要なものだけを、棚に収納するというミニマリズムが、ここに生まれる。

 

棚に残ったもの。それは、『ファッション』として自分が残しておきたいものだ。

 

世の中のすべての書籍がデータ化されているわけではない。

 

だから、まだ物(質)として必要とされている。

 

音楽だってそうだ。すべての音楽がiTunesで買えるわけではない。

 

だから、僕はまだ物を買い続けるだろう。

 

でも、それがデータでいいなら、データで買うことで、自分のコレクター精神も治めることをしていきたいと思う。

 

資料はデータで。アートは手元に。

 

そうなってくると、本当に必要な物だけで生きていける気がする。

 

そのことが幸せなのかわからない。

 

でも、結局は自己満足のためなのだから、今はそれでいいと思ってしまうんだなぁ。