柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

現代~今

仕事もない。彼女もいない。不本意ながら、実家暮らしの子供部屋おじさんになった三十路。

 

人生の節目を迎えて、僕たちの生きる現代を振り返ってみた。

 

僕らの生まれた年、1988年代と言えば、昭和から平成へ時代が移り変わる真っただ中だ。僕の世代は、63年、64年、平成元年の三つの年を跨いで、生まれが変わる。

 

現代の移り変わりを見ると、テクノロジーの発達がある。

 

僕は、少年期の結構早い時期から、家にパソコンがあった。

 

携帯を持つ前に、ノートパソコンを持っていたから、当時付き合っていた彼女とのメールは、キーボードをカタカタ打ってやって行っていた。

 

インターネットは専らエロサイトを回り、二次元画像をかき集めていた。

 

もしこの時、情報科学の方面に興味があったなら、多分僕の人生は、少しは変わっただろうが、その当時は、エロのことで頭がいっぱいだった。

 

パソコンを制する者が世界を制す中、僕は着々と青春をして、生の人間の繋がりというものを大事にしてきた。

 

世界に繋がる術がありながらも、それをせず、漫然と時を過ごした。

 

しかし、中学を卒業すると、もう皆は携帯を持っていて、手軽に、気軽に友達と繋がり、学校では出来ないお喋りを興じ、互いの家に遊びに行ったり、学校が終わってからの時間の大切さも次第に薄れていった。

 

携帯の脅威は凄まじかった。仲の良かった学友たちから離れ、独り工業高校へ行った僕は、孤独と向き合うことになった。

 

アドレスの少ない者や、メールをして繋がっていない者はダサいとされ、皆が皆、孤独に怯えていた。

 

便利を手にした代わりに、僕等は新しい人間の関係を生み出したんだ。

 

この時の関係性が今のSNSで繋がる関係に、発展していくんだろうが、その時僕は、そんなこととは露知らず、机の下で、彼女とのメールに興じていた。

 

それから時が経ち、社会人になり、Facebook、Lineが普及し、かつての友や、メールよりももっと気軽に、人と人とが結び合うことが出来るようになった。

 

それでも、僕は人と人の結びつきが強くなったなと思ったことはない。

 

アドレスを消してしまえば、ブロックしてしまえば、相手との関係はそれっきり断つことが出来る。

 

その薄情さたるや、物悲しいばかりである。

 

そんな中、僕はTwitterを始めた。YouTubeも見るようになった。

 

世界には自分のことを見てほしい者ばかりが溢れていて、誰もが誰かと繋がりたく思い、そして、蹴落として、自分だけが生き残ろうと必死に生きている。

 

その中で、知り合いといっていいくらい交流のある人たちは、文字や画像でしか、姿を感じられないが、それでも自分が活動を続けていれば(正しく)その繋がりは希薄だがあると言える。

 

その中で、デジタルの画面から、リアルで会うようになったら、また一歩関係性が進化すると思う。

 

皆が足掻く時代になった。生き辛くなったと思う。

 

その分、面白い人がこの世には溢れ、日々切磋琢磨している。

 

時代は更にそこから、生の物を大事にしていこうという動きがある。

 

人間食べていければ生きていけるのは、前に言ったが、どう食べていくかという時代に戻りつつある。

 

食べていく中で、どう生きていくのかを考える。

 

皆自分の好きなことがしたい。動画を見たっていい、読書をするのもいい、グルメを探求して食べ歩きをしてもいい。

 

それを作る側になったっていい。

 

自由ではあるが、その世界は過酷だ。

 

どうやったら食べていけるかの方法は、まだ見つかっていない。