柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

僕たちはどう生きるか

生きることについて考えてみる。人が生きるとはどういうことか。

 

人が生きるというのは、動物のように、単純に食事をとって生命活動を維持する、というのとはわけが違う。

 

人が生きるというのは、人らしく生きるということだ。

 

そこには、意味や理由が必要だ。意義と言ってもいい。

 

人は何かのために生きている。それは家族で在り、夢であり、成功であり、理想でもある。

 

そんな中、僕の中にあった夢や理想、アイデンティティが、今揺らぎつつある。

 

なので、自分で整理をつけることも含め、思考の中に潜ってみる。

 

生きているうえで、絶対に避けられない死。

 

どんなに成功を収めた人でも、どんなに幸せな生活をしていた人でも、もちろん不幸ばかりだった人にも、平等に死は訪れる。

 

死んだ先のことは誰にもわからない。輪廻転生があるかもしれない。

 

もしかしたら、この生きていると思っているのは、精巧に作られたゲームの体験なのかもしれない。

 

もしかしたら、人間はずっと同じループの中にいるだけで、時間も空間も超越していて、同じことを繰り返しているのかもしれない。

 

そんな物語もある。そんな宗教もある。

 

それらは、簡単に人を死なせないための方便だと思う。

 

それらがないと、人が簡単に死んでしまうからだと思う。

 

人は、誰しも自分を殺す権利を持っている。

 

心も体も健やかな人には、死は遠い存在にあるのだろうか。

 

鈍感というのともちょっと違う。死が自分の生活の中で、身近にない人。

 

生きることが当たり前で、死ぬことが何よりも怖い人。

 

学生時代の頃、学校のアンケートで、「自殺したいと思ったことはありますか?」という問いがあった。

 

僕は当然、「はい」と答えたが、それはごく普通の、誰もがそう答える問いだと思ったのを覚えている。

 

実際のところ、自殺を一回も考えたことのない人間などいるのだろうか。

 

死ぬのが怖い、と言う人は、当然のように「いいえ」と答えたのだろうか。

 

一度、国民全員に向けて、アンケートを実施してほしいものだ。

 

どうして人間は生きていなくてはいけないのか。

 

この世に生まれてきたことで、授かった大切な命?人が生きていくことは尊いこと?

 

そんな綺麗ごとはどうでもいい。

 

極論、死ぬために生まれてきたのに、生き続けることは、無意味なことだ。

 

それでも生きている期間を、幸せに過ごすためと言ったとしても、死を覆す解にはならない。

 

美味しいものを食べて幸せな気持ちになる。夢のためなら命だって賭けられる。欲しい物を買い、食べたいものを食べて、やりがいのある仕事をする。

 

そんなもの、そんな気になっているだけに過ぎない。すべては幻想だ。

 

東野幸治が言っていた、「人生暇つぶし」という言葉がある。

 

死ねないから生きているに過ぎない。その中で、生きていくしかない僕らはどう生きたらいいのか。

 

僕のこの悩みは、金があれば大抵は解決するかもしれない。成功を収めれば考えなくなるかもしれない。

 

だが、そうとは言い切れないほど、死は魅力的なのだ。

 

僕は一度、自ら命を断とうとしたことがある。

 

自分の命など、もう必要ないのだと思って、自分を極限まで追い込んだ。

 

死の淵で、僕を呼び止めたのは、両親だった。

 

最初、両親の顔もわからなくなるほど、意識と思考が消失した。

 

今はこうして、自分語りに興じているが、僕の体は徹底的に破壊された。

 

そこから、復帰するために、今は奥歯を噛みしめて生活している。

 

そんな中で、人並み程度の幸せも、もう得られる可能性もないのに、何故生きていなくてはいけないのだろうか。

 

僕を今、現世に留めている理由は、母が悲しむからだ。

 

僕を産んでくれた母がいる限り、それだけは絶対の解だ。

 

ここに、希望があると考える。

 

絶対的な繋がりを持つことで、自分の命に責任を持つ。

 

そう、人は生きていなくてはいけない責任があるから、生きているのだ。

 

死に魅了された人たちを、責める人はいない。

 

何故、そんな事態になったのか、どうすればそうならずに済んだのかを考えても、死を選び実行してしまったことを、お前の努力が足りないから、死ぬなんて最悪の選択をしたことは間違いだ、と面と向かって言える人はいない。

 

どんな酷い原因があったとしても、究極の選択をしてしまった人を誰が責められようか。

 

もし責める人がいるなら、その人はなぜそれを防げなかったのか、その責任がある。

 

僕の死を遮った両親にも、責任があると思う。

 

死ぬほど辛いことがあったなら、死んだって構わないと、僕は思っている。

 

もし、僕の目の前で、今まさに首を吊ろうとしている子供がいたら、僕は止めることが出来ないだろう。

 

きっとその子に、自分の好きな音楽を聞かせてやったり、自分の辛かったこと、楽しかったことを話すとは思うが、それでも死に惹かれているその子を引き留めることは出来ない。

 

それほど、自分には力がないし、責任も持てない。

 

それでも、その子が一人でもいいから友達が欲しいというのなら、僕がその子の添え木になってあげたい。

 

多分それは、今僕が一番欲しいものなのだろう。

 

人には絶対的な繋がりが必要だ。

 

繋がりを作ることで、自分の存在を世界に許させることが出来る。

 

それだけが、活路なんだ。

 

当たり前のことしか言えない。人は独りでは生きてはいけない。

 

あと、残っている時間でその繋がりが作れるかはわからない。

 

リミットが来るまで、僕が僕を騙し続けられるか、それで僕の寿命は決まってくる。