名作に“力”は宿るのか
人の心を揺さぶる『名作』と呼ばれる作品がある。
名作は何故、名作と呼ばれるのか考えてみる。
『名作』について考えるとき、僕は氷菓に出てくる伊原摩耶花のセリフを思い出す。
「名作は名作として生まれる。」この言葉を僕は真理だと思っている。
どんな時代でも、誰が書いたとしても、それを読んだ時、これしかないと確信を思わせる力。それが宿っているものこそが、真の名作たる冠を戴くのだと。
しかし、それが万人に対して受け入れられるか、というのが難しい問題だ。
世の中には、インテリを称す鼻持ちならない奴もいれば、サザエさんやちびまる子でしか物語を理解できない人もいる。
どんなものを書く(描く)かは、必然的に誰に向けて書くかも考えなければならない。
そうなってくると、作品にエンターテイメント性が必要となってくるという人もいるだろう。
大衆=一番金を落とす市民に向けて書くことによって、数字が取れる。それは瞬間的なものでもある。
記録に残ったというのは、端的に作品に触れていない人たちにも、目につき易くなる。
それだけ見た人がいるのならば、それは面白いに違いないと、安心するのだ。
果たしてそうだろうか。僕は天気の子が心底つまらないと思う。
新海誠の美しい東京に飽きてしまったのだ。
新海誠の描く世界は、美しいけど、それ以上のものを感じ取れない。
君の名はでは、飛騨の景色、田舎と都会のギャップ、SF的要素、スケールの大きさと、美味しいものを全部乗せしたような、豪華さがあった。
僕が新海誠の最高傑作と思う、言の葉にはでは、憂いや、詩、大味でない雨の美しさ、そして報われない片思いと、新海誠がエンターテナーではなく、アーティストとして作った、最もエロく、最も研ぎ澄まされている感覚が見える。
しかし、記録的には天気の子のが勝り、今や君の名はも超えそうな勢いだ。
それでも、僕は天気の子を名作とは認めない。
主観的な話だが、言の葉の庭こそが、新海誠の真骨頂で、名作だと思う。
エンターテイメントを考えた時、引き合いに出てくるのは、宮崎アニメだ。
宮崎アニメにある、わかりやすさと、ドキドキハラハラの面白さ、裏側を知れば知るほど深い設定の数々や、魅力的なキャラクター達。
一時代を築いた宮崎駿に比べては、と言うのがおこがましいという人もいる。
しかし、宮崎アニメを知ってしまった視聴者たちは、天井の高さを知ってしまった。
創作者は作品を書く時、そこを越えなければならないと、覚悟をしなければならない。
その覚悟が、現代で名作を作る力になるし、そんな力を宿しているからこそ、名作としての力も宿るのだと、僕は思う。
話を戻そう。名作に力は宿るのか。
その力とは、人を突き動かす力を宿しているのかということだ。
名作を読んだ時、読んだだけではいられない、何かしかの行動に移らされてしまうほどの力。
僕は、そういう力を持った作品を知っている。
人生観の変わるような、実際に、人生に割り込んでくるような作品を読んだ時、そこに力の存在を確と感じるのだ。
宮部みゆき:ブレイブストーリー、宮沢賢治:銀河鉄道の夜、宮崎駿:天空の城ラピュタ。
僕の作品に多大な影響を与えた作品たちだ。
それも、人格を形成する前に出会っていれば、登場人物たちに憧れ、模倣し、思想を学び、少しでも隣に並び立つことが出来るように、自分を律して、精進を促す。
名作の影響を一番色濃く受けるのは、中学~高校時代だと思っている。
自分というものを知っていく中で、他人を取り込む頭と心の柔らかさがある時期だ。
大人になってからでは、参考にはできても、溶け込ませることは出来ない。
つまり、名作を一番感じる時期に、名作を読んでおくこと。
これが一番、作品を感じることだと思う。
だが、また拙い学生の身で、作品を理解することは出来ない。
最大限感じて、それを言葉に出来ず、もどかしく思うこの行為があるからこそ、名作は世から隠れてしまう。
それでも、名作が名作たる由縁は、それを読んだ時、これが名作だ!と感じた人たちが、その作品を、世に広く知らしめたからだと思っている。
嚢中の錐という言葉もある。人を突き動かしてこそ、名作は名作と呼ばれ、そこには反発もあれば、真実もあるのだろう。