穏やかに生きるということ~余裕を持つこと~
穏やかに生きると言うこと。それは安心安全で暮らすことの出来るこの日本で、最も幸せに近い生き方だと考える。
穏やか:何事もなく静かなさま。安らか。平穏無事。落ち着いていて静かなさま。
とある。
心が凪いでいたり、忙しくなく余裕があること、起伏や過度の刺激がないリラックスしているさまとも言えるだろう。
ここで僕は、どういった状態にあれば、『穏やか』と言えるか考えてみた。
まずもって、誰もが分かっているであろう、
『余裕を持つこと』について。
偏に余裕を持つとっても、そんな暇はないし、いつだって充実して生きていたいと思う人もいるだろう。
しかし、余裕を持つことは余力を持つことでもある。
常に100~120%で生きていると、それ以上の課題や困難が現れた時、潰れてしまう。
それに余裕を持っていると、いろいろ特典が多いことを言っておきたい。
まず始めるべきは、早起きだ。
早起きの利点はもちろん、昼間の活動時間が増えること。
夜、深夜まで起きて活動した方が自分は効率が良いんだと言う人もいるだろう。
しかし、そんな人の昼間の活動(仕事)の効率は?と問いたくなる。
もちろん彼らは、仕事は手を抜いて、夜の(自由)活動に精を出したいと主張すると思う。
しかし、自分が主にしている仕事を疎かにする者に、その先の発展は見込めるのだろうか。
それだけの才能が自分にあるのか。本当はもっと普通に生きたいのではないのか。
かく言う僕も、夜型人間だった。
日中の仕事は二の次で、睡眠不足で眠たい目を擦りながら、工場で検品や組立、検査の日々。
集中力も散漫で、仕事に対する向き合い方も酷いものだった。
自分の本来やりたいことではない、金を貰うために苦しい思いをしている、終業に向かうにあたって覚醒してくる意識。
帰れば、自分の好きなものを好きなだけ作って食べ、テレビやアニメを漁っては、買ってきた本を眠くなるまで読みふける。
休みの日は、若さに任せて体に無茶をして、外で遊びまわった。
そんな毎日は、刺激はあっても決して幸せではなかった。
そんな毎日に、本当に求めていたのは癒しだったのだから。
それから体を壊して、そんな楽しくも退屈な毎日が送れなくなって、私は自分の健康について考えるようになった。
考えざるを得なかったとも言えるが、病気をしてから、確かに健康に憧れるようになった。
まずもって、睡眠。
睡眠を疎かにして、自分の体を癒すものはないということが分かった。
人は寝ることで、記憶をリセットする、意識のない考えない時間、身体の機能を回復する。
それが万全でなければ、健康は成り立たない。
そのために早起きが必要なのだ。
眠たい時に眠りたいなら、寝る時間を早くしなくてはいけない。
動画配信のおかげで、深夜に起きていなければ、楽しみを逃してしまうということもない。
そもそもわざわざ深夜に起きていなくてはいけない利点は、今の僕にはない。
深夜にやっていた作業を、もっと早い時間に行えばいいだけだということが分かっているから。
早起きをすれば、早寝が出来る→早寝が出来れば、日中頭が覚醒している→頭が覚醒していれば、考えが回る→考えが回れば、アイディアも出やすくなる。
それに朝、(覚醒した頭で)時間的余裕が出来ると、その分好きなことも出来る。
私が朝やることと言えば、朝飯を食べる、昼飯を作る、髪の毛をセットできる、トイレ歯磨きが余裕をもって済ませられる、安全運転、お茶と共に本を読む、まで出来る。
他にも、(ニートなので)家のことが出来る。
家のこと!?っと仕事が増えると考える人もいるだろう。
でも、お手伝いと考えると、存外悪いものではない。
家の諸々をやるというのは、未来にかかる負債を削ることにもなる。
自分がやっていないなら、他の人(家族)がやっているのだ。
家族に負債を抱えさせていると言ってもいい。
その負債は、(必ず)巡り巡って自分に降りてくる。
逃げ切る人もいるだろう。
嫌なら出ていくしかない。家を出て家族を持っている人ならば、その負債をどうするかも考えているだろう。
その話についてはまた今度。
家族の負債を自分が肩代わりしてあげることで、家族の負担を減らすことが出来る。
誰だって余裕をもって生きているわけではない。
お手伝いをすることによって、その人の時間を作ってあげること。その人はその時間を作って、美味しいご飯を作ってくれるかもしれない。
それに愛がある。愛については後程。
早起きの利点が言い終わったところで、次は、
『お茶を淹れること』
僕は毎週日曜日、父母(と自分)の為に、珈琲を淹れる。
細かく言えば、豆を挽いて、お湯を沸かして、茶器を温めて、ドリップする。
薫りも立つし、味も良い。好きな豆を買ってくる楽しみもある。
このお茶を飲む時間を持つことこそ、穏やかに生きる重要条件の一つと言い切る。
皆が揃い、時間の余裕をもってお茶を楽しむには、休日の早朝が良い。
つまり、ここでも早起きが活きてくる。
土日くらい寝ていたいと、僕は思わない。普段からたっぷりと眠っているからだ。
毎日7時に起きればいいだけのこと。
それだけで、幸せへ一歩近づくと言っていい。まぁ僕は常に幸せなんだが。
お茶を淹れることの利点はもう一つある。
それは、家族に強制的に休む時間を与えることである。
お茶を呑んでいるその時間こそ、穏やかな時間。
人間心が穏やかなら、張り詰めたりしない。
朝の団欒で、家のやらなければならないことや、その日の予定を決めたり出来る。
ニートとして、家族は命綱だ。それが常に張りつめていては、生きた心地がしない。
心置きなく療養もしたいし、家族に幸せになってもらうことが一番だと考える。
次は、
『忙しくしないこと』。
忙しいとは、心を失うことと、何かで言っていた気がするが、心を失うことは自我を失うことだ。
自我を失えば、記憶もまばらになってしまい、考えることもまた散漫になる。
忙しいのが好きなの!生きてる感じがする!という人もいるだろう。
そんな人は別に聞かなくて結構。
でも、楽しい楽しい仕事を後から後から切れ目なく消化している日々は、心が摩耗して、やることはだんだんと機械的になって、自分は何のために働いているのだろうと自問してしまうのではないか。
心を失った仕事が果たして、人の心を動かすのだろうか。
売れている漫画家や小説家、ラノベ作家が、信念を棄てて商業に心を売った時、魅力を感じなくなるのではないか。
次。
『余るくらいストレス解消をする』。
その日のことはその日のうちに。
その日のストレスを、その日のうちに消化できなくては、いずれ潰れる。
平日は我慢して、休日にパーっとストレス解消する、なんてのはもう古い考えだと思う。
そのために毎日美味しいものを食べなくてはならなくて、家族と楽しく過ごして、長めの風呂に入って、たっぷり眠らなくてはならなくて……なんてのはコストが高過ぎやしないか。
もっとローリスクローリターンでいいはずだ。
ストレスを溜めず、家に帰れば好きなことを飽きるまでやって、また明日新しいことをする。
そういう風にルーティーンを組むことで、(良い)習慣が身につき、そんな習慣は生活を変える。習慣でしか人は変わることは出来ない。
それに、好きなことを仕事にしていない限り、家に帰って自分の好きなことをやっている時間が一番生きていると思える時間なんじゃないか。
その時間を余りあるくらいやれて、初めて人は幸せを感じられる。まぁそうとも限らないけど。
最後に、
大前提、『健康であること』。
良く食べ、良く遊び(鍛え)、良く眠ること。
これが出来ていないと、穏やかさは遠のく。
これが、第一回の穏やかさに対する私の考えである。