穏やかに生きるということ~脅かされないこと~
第二回『脅かされないこと』
前回余裕を持つことに引き続き、今回の副題は、
「脅かされないこと」
この現代で生きていく上で、社会に関われば必ずこの問題にぶち当たる。
(残念ながら)この世は善意だけで出来てはいない。
生きているなら、必ず外から情報を得ることだ。
僕は自分を善人と悪人の境界人だと思っている。
友人の一人に、どう考えても根っからの悪人だと断定してしまう人がいる。
その友人とかかわるのは刺激があって、大変に楽しいのだが、
相手を否定することを厭わず、自分が楽しければそれだけで満足し、
他人の不幸を何よりも愉悦を感じている。(としか思えない)
そんな人がいる世の中で、悪意を持って人を傷つけようとする者は幾らでもいる。
ネットに繋がればそういう輩に出くわすことは多い。(もちろん刺激を求めての行動だが)
穏やかに生きるに対して、これは全く逆の行動だが、これも一つの対処法ではある。
脅かされないことの一つに、武器を持つことを挙げたい。
武器というと本当に穏やかじゃない話になってくるが、この場合、武器というのは知識のことだ。
無垢(無知)であることが一番危険だと、僕は思う。
仏教にも無明という言葉がある。
無明=無知と書いてあるが、仏法の根本が理解できない状態ともある。
仏教の教えで、この世に生まれた時点で、苦行の連続だから、悟り開かないとキツイよ?
と、端的に言っている。
ブッダが悟りを開くためには、6年間の(無駄な)修行の末の瞑想により、心を穏やかにしたら開けたとのこと。
僕が思うに、この6年間の修行に鍵はあると考える。
多分、ブッダは6年間の修行でこの世の全ての苦しみを受けるくらい肉体を苛め抜いたことだろうと。
キリストも処刑されてその後復活したから救世主たる人物となったのだろう。
結局、自他ともに認めるほど、苦しみを負ったものだから、その人の言うことは聞きましょうというのと一緒だろう。
それにキリストも預言者に認められた人物だし、ブッダも士族だ。
違和感は残るが、偉い人の言うことは(疑わず)聞きましょうということだと思う。
まぁそれも無明な気がするが。
話を戻そう。
解釈すると、善意しか知らない者は、それだけで脅かされやすい。
世界は、ブッダやキリストのような聖人が作ったものじゃない。
むしろ、相手を出し抜いたり、中国の思想のような、屁理屈で神的信仰を排して、自分たちの正義を打ち出した、言ってはなんだが、逆賊のような人たちが統一してきた。
脅かされないこと、は悪の立場も理解できるようになろうということだ。
悪が晒す刃がどのくらいの刃渡りなのか、それで刺されると自分はどれくらいの血が出て、内臓が傷ついて、言ってしまえば死に至る外傷を与えるものなのかを、予想出来るようにしようということだ。
僕はよく、善の人、悪人、好い人、正義、という言葉を使う。
善の人にも悪人も、レベルがある。
善の人であれば、無垢でいることは純粋で恥ずべきことがないのかもしれない。
でも、悪意に晒された時に、刃を避ける護身術もなく、かといって刃を振り回す悪人のことを愛で包むことも出来ない。
愛だって、心の中での葛藤と打ち勝つ技術が必要だ。
信念を固めるには、悪意に晒されても尚、自分という個体をしっかりと自身で確認していないと、出来ない芸当だ。
極楽浄土もユートピアもこの世界には存在しない。
悪を知ることは、悪に染まることではない。
自分の中の正義があれば、それは発展が出来る。
この荒んだ世界で、無垢でいることは許されないと僕は思っている。
人間何らかの形で、裏切りにあい、心を裂かれることは避けられない。
その時に、心を強くして、人間としてのレベルを上げる。
RPGではないから、相手を傷つけることでレベルを上げるのではない。
相したいと思っている人は、悪人だ。
刃は切れ味を求めれば求めるほど、逆手に取られた時、自分を傷つけることにもなる。
自分の傷と向き合うこと、他人の傷に向き合うことで、善の人のレベルは上がっていく。
そうして見渡すと、それまでにそうしてきた人たちの姿も見えてくる。
知識を得ることは、そういった心の防御力を上げること、相手の武器を知る洞察力、危うきに近寄らない危機察知力を得られるということ。
知識を持つことの次は、侮られないことだ。
僕の好きな小説の中のセリフで、「そんなに殺し易いように見えますか?」というセリフがある。
悪意だらけのこの世界で、易く狩れると思われることは、非常に危険だ。
何かとマウントを取りたがる現代人において、自分の考えを押し付けたり、相手の考えをねじ伏せたがる人はかなり多い。
僕も弱い立場の人間であることから、侮られることは多い。
なので、侮られないように、相手の弱み(失敗ではない)を掴んでおく。
ん~、何と言えばいいか。人格的に相手を上回る、というべきか。
仮でもいい。相手を見下すと言って差し支えない。
自分の中で、敵を見下した時、それは自分に足る敵ではなくなるのだ。
侮られないためには、常に付け入られる隙を与えないことにもなる。
おいおい、常に緊張していなきゃいけないのか? と顔をしかめる人もいるだろう。
そのためには自分だけで全てを賄おうとする余裕のないことである、と言っておきたい。
味方を増やすこと。これも好い人ならば、同時に並行してやるものだ。
常に気を張って、傷つける者がいればやり返す、みたいな侮られたくなさを見せると、緊張し、穏やかさからは程遠くなる。
相手を包み込むほどの愛情を持つことも後で話そう。
それから、身なりを綺麗にすることも言っておきたい。
身なりからは生活の質が窺える。
清潔感というのは、結構マメに自分の手入れが出来ていなくては成り立たない。
毎日風呂に入る、なんて当たり前なことは大前提で、伸びた爪を切る、洗濯された皺がついていない綺麗めに見える服を着る、車を持っていれば、外出する時くらいは中も外も洗車しよう。
食べ物だって気を使わなければならないし、身体だって鍛えておいた方が良い。
僕は寝ぐせがついていてもなんとも思わなかった性だったが、毎日髪の毛をセットする習慣がついたとき、どんなに時間が無くても髪だけはセットしようと思うようになった。
服だって、毎年同じ服を着ているのも恥ずかしいと思う。
年に5着は服を買おう。
ゴムが伸びきってすり切れた下着で、女の子に相対せるか。
オシャレであった方が良いに決まっている。
今、自分が持っている服で、君の印象は決まっている。
オタクはオタクみたいな服装をしているし、ダサい奴はイメチェンをしない限り、何をやってもダサい。
自分にポリシーを持つというのもいいだろう。
オシャレだってわかってくれば、案外楽しいものさ。
まぁいい。あるTwitter漫画で、酔っ払いも相手を選ぶ、という。
悪意のある者達は、常に自分より弱い奴を探している。
探して蔑み虐めている。
悪人の友達に、「お前が高校の時一緒のクラスにいたら必ず虐めてた」と言われたことがある。
世の中には、虐めても仕方がない、むしろ虐められたいと思っているんじゃないか、と考えているバカみたいな思考をしている奴が結構いる。
虐めは相手がやり返してくるか来ないかのスリルを楽しんでやるものだし、そうなりたくなければ、最初から侮られないことだ。
もし、その友達が高校の時同じクラスで、虐めをしてきたら、多分僕はある時キレて、そいつをボコボコにして退学になるだろう。
そういう結末にならないためにも、まずは侮られないことが大事だし、そんな悪人の友達をも味方にするように立ち振る舞えれば、活路はあるかもしれない。
ここからは、悪の道への研究でもあるので、機会があれば書きたいと思う。