柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

穏やかに生きるということ~愛で満たす~

前回、第二回「脅かされないこと」に引き続き、最終回は、

 

『愛で満たす』です。

 

愛、愛情、ラブ、慈しむこと。

 

所謂、人類史上一番不可解なものの一つです。

 

どうして愛で満たすと穏やかに生きれるのか。

 

なんとなく想像はつく気はしますが、愛についてそもそも不明瞭で、確かな定義が未だに持たれていないことを、僕も理解しています。

 

愛、というとキリストを思い浮かべる人が多いと思います。

 

しかし、聖書を読み解くのはとんでもない労力を必要とします。

 

僕の中で、キリストの言葉(の一つ)を解釈すると、

 

厳しい戒律で信者を縛っていたユダヤ教に対し、キリストは、

 

「(旧約)聖書の隣人を愛し、敵を憎めって違くね?神って自然の恩恵とか無償で愛を与えてくれる存在でしょ。だったら神様愛しましょうよ。皆救いを求めてるんだから、君が自ら愛してあげることで、(隣人を愛し)世界を愛で満たそうよ」

 

と言った。(多分)

 

現代人に欠けているのはこの器のでかさだと思う。

 

愛して、愛してくれないんだから私だって愛するわけないじゃない!!

 

って、プリプリしている人ばっかりで、自己犠牲をすすんでやっているのなんて、おかんくらいしか思いつかない。

 

おかんは、無償の愛を息子(娘にも)注ぐ。そんなの当たり前じゃん。他人にするのが難しいんだよ!

 

っていう人もいると思う。もちろんそうだ。それは「裏切られる」から。

 

僕も(たとえ偽善者と言われようが)これを実践して、裏切られたことはたくさんある。

 

そのたびに人を信じれなくなるし、これが世の中にはびこっている苦しさなのかと打ちひしがれる。

 

大体、愛してもらったことのない人間が、他人からいきなり愛を貰ったとしたら、気に入っている異性でもない限り、それは自分を騙そうとしているんだと勘ぐってしまう。

 

だから、愛するときは、手順と心構えと段取りがいる。

 

他人に信頼されるのと一緒だ。

 

ここは、まだ僕も研究段階でいるが、愛を疑っている人物に対して、どう接するか。

 

手っ取り早いのは、共通の敵を見つけて一緒に陰口を言う。

 

まぁこれは、一気に距離を近づけるきっかけになるが、愛とはとてもかけ離れた考えだし、敵がいるうちはまだいいが、いなくなったとき、別の敵を探すか、関係が薄まることになる。

 

残念だが、そういう人間と仲良くなるなら、その道に入らなければならないというのが、僕の結論だ。

 

そういう人間は、自分が頭が良いと思っていて、他の人を見下している傾向にある。

 

そういう人を、愛で絆すのは苦労する。

 

ただ、世の中そういう人が、世の中にはびこっているから、脅かされることもあるし、他人に余裕を持たせないようにしていたりもする。

 

僕の好きなアニメで、ガングレイヴというマフィアアニメがある。

 

その中で、主人公ブランドン=ヒートと悪友ハリー=マクドゥエルとの正(仁)義と悪の友情の形が描かれている。

 

寡黙で実直なブランドンは、賢く上昇志向の強いハリーと共に、マフィアの世界を上り詰める。

 

劇中、ブランドンは常にハリーを信じ続ける。彼が、野心野望のモンスターになろうとも、その命を賭して、そして賭した後でさえも、彼を信じ続ける。

 

ハリーは結局、ブランドンを殺しても尚、自分の野心に狂い、組織の頂点に立っていても、何処か常に渇望している。

 

ハリーは親友を殺すという、一番やってはいけない間違いを犯すが、ハリーの青年時代の描写から、ハリーは常にブランドンに劣等感を抱き、あの殺すシーンにこの日を待っていたんだという表情を、銃を乱射しながらブランドンの網膜に焼き付けるのだ。

 

ガングレイヴは、悪が善の心、つまり愛によって改心する話だ。

 

ブランドンはネクロライズという死体に超人的な力を付与し、蘇らせる技術で、再びハリーの前に現れる。

 

死して尚、彼が何がしたかったのかというのは、最終回のラストシーンに、二人で共闘し、組織と銃撃戦を繰り広げ、死闘の末に、一緒に死ぬことだった。

 

ブランドンは最初から最後まで、ハリーを親友だと思い続け、ハリーはそんな自分の身を二度まで犠牲にしてやっと、「こいつは俺の為に全てをかけてくれたんだ」と改心する。

 

おわかりだろうか。悪はそこまでしなければ、改心しない。

 

あなたが仕事で割を食い続け、いびられ、虐げられて、会社を休もうかと考えても、それで休んでも、そのまま会社を辞めても、なんとも思わないのである。

 

あなたがそれによって心と体を壊そうが知ったことではないのだ。

 

そんな奴に出会ってしまったら、諦めるほかない。

 

穏やかに生きられない職場なんてのは、辞めてしまった方が、何より自分の為になるのだ。

 

もちろん、自分一人で生きている人にとっては、職場というのは唯一の社会の接点なのかもしれない。

 

でも、仕事の時間を楽しい時間に出来ないで、人生棒に振ってしまう。

 

周りが頼れるなら、頼ってしまっていいと思う。

 

このストレス社会で、背負っている物がないなら、わざわざ社会のためとか、同僚のためとか、自分のプライドのためとか、背負う必要はない。

 

そこで、じゃぁ背負うものがない奴に何が残るんだ、と言った時、

 

そこには『愛』が残ります。

 

経験則からすると、自分を空にした時に初めて、無償の愛が自分に生まれます。

 

愛とは与えること。

 

持っているものが何もないのに愛が生まれるのかとおっしゃりたい方もいると思います

 

じゃぁ金を持っている時に、他人に金が渡せますか?

 

それに、あなたが持っている物、それは誰にでも手に入れられるものではないのですか?

 

僕は、自分に何もないと分かった時に、だったら自分に出来ることをしようと思いました。

 

それは家の手伝いで会ったり、朝コーヒーを淹れることであったり、毎日楽しそうにして家族を笑わせることであったりします。

 

そうしたとき、愛を実感します。

 

愛を実感できない人は、心が貧しいと思います。

 

多分、愛というものを知らないか、貰えることが当たり前だと思っているんでしょう。

 

他人の苦労を知ることで、その人の負っている業と愛を知ります。

 

ビジネス書などに書いてある、人間関係の問題解決のように、すんなり問題を解決できることはありません。

 

皆、愛し方をまず知らないからです。

 

知らない人に教えようとしても、そんなものまやかしだ!そんなものないんだ!誰かが俺を騙そうとしている!と片意地張っている人には、それこそ死ぬ思いをしなければ改心することはない。

 

そういう人は理論武装して、他人はいつも自分を傷つけようと、隙を窺っていると勘ぐっている。

 

そういう人間は、他人の隙を見れば隙を見せた方が悪いんだと、身勝手な理論で攻撃してくる。

 

とても難しい問題です。人と人には相性というものもあります。

 

何にもしていないのに、知らぬ間に憎まれていることもあります。

 

しかし、憎まれた時、本当にそれは知らぬ間だったのでしょうか。

 

してやろうと思ったことは無いでしょうか。

 

全く、こんな世の中で、(どんな地雷があるかわからないのに)相手を怒らせない技術を最初から身に着けていなければならないのは、何てハードルが高いんだ。

 

社会人として、上司や同僚、部下を怒らせなければ、社会人として一人前=完璧な姿です。

 

何故、憎まれるようになったか。

 

陰口を言ったことはなかったですか?

 

陰口というのは、必ず相手に伝わります。

 

誰かが告げ口をするというわけではないです。

 

陰口を言ったことで、自分と自分と一緒に陰口を言った相手の態度が微妙に変わってくるのです。

 

それを人間の第六感が察知して、気まずい空気になっていくと、僕は考えます。(これも研究テーマの一つ)

 

愛について。幾ら言葉を尽くしたとして、理解できるものではないと思っています。

 

それは、話す方の(分析してからの)技術の不足でもあるし、受け取る側の感覚器官の疾患でもあります。

 

愛の技術について、ある本を読みました。

 

他者と働く「わかりあえなさ」から始める組織論 という本です。

 

その中には、相手のナラティブ(物語)を知ることが重要であると書いてあります。

 

ナラティブというのは、その人がどういう経緯でその職場にいるのか、仲のいい人はだれか、何の問題を抱えているか、どんなものが好きか等、その人が持っている物語のことです。

 

相手が何で自分を嫌っているのか、と考えると、自分に間違いはない!嫌う方がおかしいんだ!となってしまうと思います。

 

そうではなく、何故自分を嫌うような経緯に至ったのか、ということを想像すること。

 

そう、想像力がキーポイントです。

 

訳の分からないものは、理解が出来ません。

 

でも、自分の経験や、誰もがそれまで培った、他人を自分の想像から理解しようとする力。

 

これも、愛の一つの形だと僕は考えます。

 

無明(無知)でいることは、悟りからも遠く、幸福からも遠いことです。

 

全てを想像出来るなら、相手の苦労もわかるでしょう。

 

相手の苦労が分かれば、助け方も思いつくはずです。

 

そこで助けられるか、放っておいてほくそ笑むかで、あなたの価値は決まります。

 

愛で満たすためには、まず自分の愛の形を知ること。

 

この文章を読んで、あぁ実践してみようかなと僅かでも思った人は、善に近い位置にいます。

 

僕は偽善者と呼ばれることもあり、それに愉悦を感じてもいます。

 

友達には悪の人がいます。相手の嫌がることを何よりも喜び、相手を喜ばせるのはその先にある自分の愉悦のためと考える、本当に極悪非道な友人です。

 

それでも、絶対に(一生)理解できないこの他人という読み切れないほどに分厚い書物を、少しでも読み解く為に、一人でも多く他人を知ることは、僕にとって愉悦以外の何物でもありません。

 

愛については、また自分の中に考えが溜まった時に、追記したいと思います。

 

三回に分けた『穏やかに生きるということ』勢いに任せた拙文、お読み頂きありがとうございました。