偽善か善か:追記あり
今回は偽善と善について話してみたいと思う。
例によって、グーグルで『偽善』を検索してみると、
偽善…本心からでなく、うわべをつくろってする善行。
とある。ちなみに善は、
善…正しい。道徳にかなった。徳行。
とある。ここで少しおやおや?となる。
偽善というのは昨今、良い人のふりをすることを言うと、僕は認識している。
例えば、こないだTwitterで山岡家スキーと一悶着があった。
要約すると、
山岡家の味は個人差があって、好きな人は好きでいいよね。だけど、嫌いな人が後ろから肩を掴んで、俺は嫌いだよ。って言ってくるのは何なんだろう。
というツイートがバズっていた。
ここから、僕はよく理の通らないことを言います。
まず、僕の理論ですが、バズったツイートというのは、それだけで注目に値するツイートとして、反対意見も取り込み、議論することによってバズるのだと考えています。
それだけの注目(力)を持ったものに対して、責任が付きまとうという考え方です。
僕は、そのツイートを見た時、思わず、
「いや、山岡家は不味いでしょ。チャーシュー甘かったぞ」
と、リプをしました。
すると、何だこいつ。俺らの言っていることがわかんねぇのか?俺らはお前のような奴がいるのがおかしいって言ってんだよ!
と、炎上したわけです。
しかし、ここでもうすでに意見が食い違っていることが分かると思います。
まず僕が言いたかったのは、
「山岡家(そもそも)不味いでしょ。(だって)チャーシュー甘かったぞ(お前たちの舌、普通の人と違ってるから、そのこと自覚した方がいいぞ)」
という()の中の言葉が隠れています。
僕はそもそも論がしたかったのです。何故なら、僕は山岡家を一度食べたことがあって、その時、「なんだこのクソ不味いラーメン…!チャーシュー甘いなんて味覚障害じゃねぇのか…!」と一食を無駄にしたことがあります。
僕の話の展開としては、当然山岡家スキーの皆さんから、「いいや、山岡家は旨いんだ!お前はあの味が分かっていないんだ!」もしくは「あの味の良さがわからないなんてまだまだ子供。あの味を月に一回、週に一回なんとなく食べたくなるようになってこそ真の山岡家!」
みたいなことを言われると思っていました。
しかし、彼らは味のことは一切触れずに、お前の文章読解力どうなってんの?これで自称物書きとか笑わせるわ!とか、いや、そこじゃねぇだろ、というところにしかツッコミが入りませんでした。
そこで僕は、(自分の思い通りの展開にならなかったから)本音をぶっちゃけて、
「僕は山岡家の味が嫌いで、あれを人が食うものではない不味いものと断定し、このバズったツイートをみた山岡家未体験の人が、僕みたいな被害にあわれる人がいるのかと思ってのリプでした」
と、白状したところ。「とんでもねぇ偽善者だったわwww」「どうにも話の通じない頭のおかしい奴だったみたいだwww」
みたいな言われ方をしました。
ここでやっと偽善と善の話。
それは、たとえ僕が本心から善意で注意喚起をしても、対岸にいる言うなれば僕のツイートで心を煩わされた被害者は、
お前は善意で言っているとかほざいているけど、それは善意の裏に山岡家をディスりたい本心を隠している偽善者じゃねぇか!!
と、言いたいのだと思います。
ここで、言っておきたいのが、僕が善意から始まって、この議論に参加したわけじゃないということ。
始めから善人のふりをしてあなた方に食って掛かりましたか?と言いたい。
いつから俺が良い奴だと勘違いしていた?と僕はほくそ笑みました。
始めから善もなければ偽善もないところで、こいつは偽善者だと言い放ったよくわからない人は、勝手に裏切られたと思ったのではないでしょうか。
話を戻しましょう。
現代人にとって、良い人の皮を被って自分はいい人だと思い込んでいる人が、偽善者なのだと僕は考えています。
なら、善(者)とはどういう人間でしょうか。多分僕が思うに、救世主と呼ばれるイエス=キリストや悟りを開いたブッダのような人物だけではないでしょうか。
要するに、完全な善でなければ、少しでも付け入る隙があるならば、それは善の皮を被った偽善者ということになると、思っていると考えています。
何故、そのような事態になってしまったのか。それはマウントを取り続ける現代人がかかっていしまった病気、呪いだと思います。
呪いに対して祝福もあります。
他人に言い勝ことの愉悦を得るために、皆大事なものを失くしているのでしょう。
僕も人のことを言えた義理ではありませんが、やっぱりねぇ。愛が足りないよと思う。
ただ、偽善者と言われて、ハッとした自分がいるのも確かだった。
それに、久しぶりに偽善者と言われて嬉しかった部分もある。
そういう意味ではかなり的を得ていたのだと、今では思っている。
自覚のない悪意があった時、それは既に偽善なのである。
悪意を持って偽善の皮を被ることは偽善ではなく悪だ。
自覚がない、このことが一歩進んだ解釈になるのだと思う。
そういう意味で、僕はこれからも偽善者で在りたいし、善の追究、悪の追究に加え、偽善についても追究していきたいと思う。
追記
僕が通っている就労支援センターに、とっても元気(ぶっている)なオバサンがいる。
僕はその人のことを自分でもよく形容できないくらいに気持ちが悪く思っている。
多分、同じ障碍者として、それなりに辛い人生を歩んでいると思う。
その中で、差別されたり、自分の無力さに心が濁っているはずだろうと僕は思うのである。
それでも、彼女は元気そうに振舞い、私は正常です、今は少し体調がよくなくて上手くいっていませんが、普通の人と同じ、良い人なのです。
と、全身で主張しているようにしか思えないのである。
これは、僕の病気と性格がそういう人のことを深読みしてしまう傾向にあるから、そう思うのであろうと考えるが、だからこそ人の本質を見抜く為に授けられた力だとも思います。
こういう人を、僕は偽善者なんじゃないかなと思ってしまうのである。
性格診断から、僕の最も価値を置くものとして、『真実』の追求がある。
例え惨たらしい事実でも、眼をそむけるような現実であっても、それが真実ならそれは正しいと思うのである。
真実に最も価値があるならば、嘘はその価値を損なうこと。
つまり、そのオバサンを嘘つきだと思っている。
だって彼女は辛い思いをしているのだから。
通所しても、初めのうちはスタッフに泣きながら自分のことを話していた。
そんな彼女を善の人と言える部分ももちろんあるが、泣きはらした後、悪に染まっていないのは、自分の悪性を力で封じ込めたのだろうと思う。
その姿は(が)、偽なのかもしれない。
彼女は自分の悪性に気づいて尚、それを封じ込めて正しい道を歩もうとしているのかもしれない。
その姿は、果たして善と言えるのであろうか。
今日丁度、性悪説という考え方を学んだ。
人間は、生まれながらに善としてではなく、悪として生まれてくるから、善行を行うのである。そのために、礼儀を学び(ばせ)悪性を封じ込め、その姿を偽と呼ぶのだと。
それを読んだ時、偽に気づいた時すでに、それは善ではないんだろぅと僕は思いました。
善でいることは、無垢を通り越えて、自分の中の正義と悪性に気づいて、その後、悟りを開いて善となるか、自分の悪性に溺れて悪人となるか、それとも偽となるか、←ここは選択しなければならないところだろ思う。
世の中の人を二種類に分けて分類しようとする人がいるが、それは極論を展開しているだけで、本当は三種類なし何種類かに分かれ、その中でもどのくらいそれに染まっているのかグラデーションで表されるのだと考えます。
僕はその中で、悪人のふりをしている偽善者という道を選びました。
その中でさえ、不意に偽善者と指摘された時、「おぉ、これが偽善ってやつなのか」という発見もあります。
まだまだ、読み込めるこの人間っていう書物は、本当に面白いと思います。
こんなこと書いていていいのかな、とも思いますが、まぁいいかと思う自分もいるです。
友達からはお前こそが真の悪だ、と言われたこともあります。
それが真実なら、僕はそれに価値を見出します。