ネットが崩す公私の境 感想
う~ん、面白かった。
説教くさいところもあるし、前時代的な考えでもあるが、ちゃんと先のこと、今までのことを憂いて、全体を通して愛の欠片を感じた。
僕が抱いていたテーマを代弁してくれたようでもあるし、少し足りない感じもする。
ニーチェの言葉を引用して、自分の論を固めるやり方は、評論として正しいと思うし、終始自分の意見で話していたのが好感が持てた。
ただネトウヨ的な発想が、古いと思ったし、もっと新しく革新的な話が出来る人だとも思った。
自分の意見がまとまっていて、それが文章に表せるなら、もっと発想を柔軟にして、若い人を導くことも出来るようにも思う。
これはよくない、こっちの方がためになる、はわかるんだが、それを現代人は簡単には出来ない。
簡単には出来ないことだから価値があるんだと言いたいのだと思うが、苦労(徒労)を取るより、人間は便利さをとる。
目先の評価がもらえるならそれに飛びつくし、それがだめと言っても、その評価が溜まっていけば、ある程度、質も見込めると思う。
時間さえかければ良いものが仕上がるというわけでもないし、質が高いものが必ずしも評価されるわけではない。
ネット社会では、続けた者のみが評価されるのであって、それは一番過酷な道とも言える。
ネットでの発表が安易に出来るからといって、それを続けることが簡単というわけではない。
一日、二〇〇〇文字を毎日書き続けることは大変なことだし、それが発想から発表までの落差のないものでも、今度は別の価値が生まれる。
それは、毎日書き続けていたことに対する評価で、その著作の質(クオリティ)ではなく、親身とか身近、あとは馴れ合いからくる距離感の近さだと思うが、それもネットならではの新しい価値観だと思う。
でも編集者と練った作品の他に、評価されたコンテンツが書籍化するんだったら、文句はないと思うが、著者はそういう観点の質は求めていないんだと思う。
でも誰もが出版(発表)できる時代になっても、評価されるものとされないものとは必ず出てくる。
それを編集者と練り上げたもので、読み物としての純度の高いものとは別に、いわば野良のアーティストが成り上がり的に世に認められて活躍するのは、本の業界だけではない。
しかし、純粋に、書物としての質を向上させることのみが、書物が書物たり得る、著者が権威を持つ著者たり得るとしている。
だが、それとは違い、読者に自分と同じ考えを持ってもらっているとか、こいつの言うことはちょっと自分とはズレているけど、面白い(または為になる)と思わせる、もっと抽象的で、感情的な読者がこれから増えていくんだろうと思う。
難しいことを言っている著者の本は、勉強として本棚を飾ることはあっても、普段、毎日読むのにストレスがあっては、読者にすらならない。
これからはもっとストレスのない読み物が増えると思うし、なんなら、文字を読むというストレスのかかることは、もっと少なくなり、動画や音声などで手軽に情報をキャッチするのが主流になりつつある。
本の需要は、もっと限定されるようになり、それよりもブログ、ブログより動画にどんどん文化は移っていく。
それでも文字文化というものはなくならない。
動画や音声などで、発信されたものでも、真に理解を求める者は、文字から内容を解読せねばならない。
文字は、情報を字という物に限定することで、他の雑音を減らす。
ニュアンスが伝わらず違う風に受け取ってしまう誤解はあっても、それ以上に自分の想像が広がって、新たなる知識や知恵をつけるきっかけにもなる。
教科書に載っているくらいだから、情報が古いんだろうが、もっと現代っ子に刺さる内容だったらもっと読みたくなったな。
それが書けない人でもないだろうし、文章の構成はとても良かったように思う。読みやすかったが、短かったし足りない部分が多かった。
もっと伝えたいことが伝えられる人だろうし、兆しも感じられて、少し興味が持てた。
哲学者というものが何を生み出して、世を良くしているのかは知らない。
この程度の考えを本にして出版して稼いでいるのだったら、自分にもできそうに思ってしまう。
そう驕らせないためにももっと難しいこと、もっと新しい事を言ってくれる人でないと、敬意は払えない。
しかし、その血が通った本しかなくて教養の溢れた時代を体験してみたかった。
本なんて高級なものを買えた裕福な家庭でなきゃ無理だが、宮崎駿のような人に育ったかもわからんし。
そういう意味では娯楽は増えたけど、不幸な読書体験だな。