柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

「いいひと」戦略―1―

 

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反省しなければならない。

 

僕がやっていることは、高度に発達した情報社会・ネット社会で、隠し事をしているのだから、あとでしっぺ返しを食らうことを。

 

僕はブログで友人のことを悪く言った記事を書いている。それはそういう事実があるからそう書いているのだけど、友人のあずかり知らぬところで書いているのだから、陰口を言っているのと一緒だ。

 

それも、公の場で、罵倒しているのだから、名誉棄損を訴えられても仕方がないと思う。

 

この蓄積した隠しごと、『嘘』をこのまま溜めておくことは、自分の不利益になるだろう。近々友人に打ち明けねばなるまい。

 

「他人の悪口を言うときには、一番広い場所で言う。自分の弱点も積極的に話す。これが最大の防御になる」という言葉を深く噛みしめなければならない。

 

自分の弱点というより、世間に晒して弱みになることをブログに書かなければ、その友人は許してはくれないだろう。

 

許してくれるのが一番重要なのか、そうだろう。許してさえくれれば、何を書いてもいい

(限度はあるが)という風に持っていくことが、僕の利点になる。

 

手の内を曝け出して、利潤があれば分け合うことも意に介さず、全てを曝け出すことでしか、僕の旨味はない。

 

いい人と真逆のイメージのホリエモンの話をまず枕にすることが岡田さんの悪いところ(良い意味で)。

 

「一見損に見える言動が、実は長期的には利得になる」

 

まさに、これじゃないか。ホリエモンのことを持ち出すことで実践している。

 

僕が友人のことを悪く言うことも、長期的に利得になるのか、その辺も考えつつ、読んでいくのも面白いかもしれない。(利得にならないかもしれないが)

 

最愛の人や、自分すら騙して、「いい人」と思わせる……そんなこと可能か?

 

まぁ、僕は本音で語っているうちは、根っこの部分でいい人(正直な人)を貫いていると思っているが。

 

いい人は結局損をすると僕も思うが、いい人止まりでなく、その先があるのなら必見だろう。

 

・平凡とは真逆の生き方

・善悪を超えた戦略論

・多様化し目的や生き甲斐が見えなくなった現代で唯一、個人が目指せる「現実的な処方箋」

 

大それたことを言う。随分キャッチ―だな。岡田さんだからこの先に書いてあることに、期待しかない。

 

「長期的に見たら、あなたの利益を最大化する方法」だと?

 

面白いじゃないか。では読み解いていくとしよう。

 

ネットが浸透しすぎて、現実との垣根が薄くなっているのは、確かにそうだ。

 

多分僕は痛い目をみないと反省しない性なので、この危険性はもっと自覚せねばならないのだが、ネットに顔も大体の住所も書いているのは、自覚が足りなすぎるな。

 

それだけの危険性を侵して得る利益は少なすぎる。てゆうかない。

 

まぁでも晒しても晒さなくても一緒だろうなと思ってしまうから、晒しているのだし、晒すことでなにか変わってくれるだろうと期待したわけもある。

 

それは自分の中の根底に(表層に近い部分で)炎上してもいいと思っている病的なところがあるからだ。

 

家族に迷惑をかけてもいいと思っているし、迷惑なんぞかかりもしないとたかをくくっている。

 

むしろ炎上すらしない自分の存在価値を悲観してさえいる。

 

どこがいい人なのだろう。

 

というか、僕は付き合うに足る人間なのだろうか。

 

人生の最底辺を味わって、そこから這い出ずにいる奴なんぞ相手にしてもらえるのだろうか。

 

友達は減った。去っていくばかりだ。

 

ならば、去るよりも多く出会わなければなるまい。

 

鬱になりかけたけど、続きを読もう。

 

ジェイルバードの一説は、主人公がサイコパスもしくはアスペルガーであるのではないかと、想起させる。

 

この一説から「いい人」の存在に焦点を当てるのが、岡田斗司夫流か。

 

自分の周りにいい人がいないのは、そういう可能性も断ってきたのもあるし、実際自分からいいことがしたくなる、してあげたという経験も極めて少ない。

 

どこかにいい人になると、損をすると考えてしまう自分がいて、それを本書が払拭してくれるのを期待して止まない。

 

だって僕は、価値基準が自分の力を示したいだけの権力型なんだから、いいことをしても、それを認めてもらえるという形にしてくれないと、気が済まない性だ。

 

100%の善意=いい人、とならないと良いのだけど、形だけの自称いい人もその内に含まれるのかしら。

 

いい人と付き合うためにいい人になる。これは真理なのか?

 

確かに悪い人は人に求めるだけ求めて、自分ではなにもしない。

 

それは自分本意なのであって、たまに施してくれるのは、自分にとって得があるときのみ。

 

とにかく寂しかった青春時代のせいで、そういう選別すら出来ていなかった自分がいて恥ずかしい。

 

今の友達を捨てられるかと聞かれたら、それは例え自分に不利益になると分かっていてもうんとは言えない。

 

だったら、もっと広く、人と出会わなければならない。

 

分母を増やせ。その中でいい人を選べるように工夫を凝らさねば。

 

モンハンをゲーム機ごとあげたり、Macブックをあげたり、飲み代をカンパしたりなんて、僕の周りじゃ考えられない。

 

まずもってそんな変なことをする人間と付き合ってこなかったし、圧倒的に数が足りない。

 

数の問題じゃないのかもしれないが、そういう種類の人間は……どっちかというと僕なんじゃないのか?

 

僕は経緯はどうであれ、奉仕を受ける側ではなく、奉仕をする側の人間だ。

 

だから損をしているように感じてしまう。

 

ネットに落ちているものをわざわざ購入するのは、情弱なのか。

 

30代の僕は、良いコンテンツなら、自腹を切って金を払う。

 

それは、金を払うことで、コンテンツを発信してくれた人に対する敬意や応援の意味もあるし、金を払って自分のものにすることで、コレクションできるからだ。

 

だが、ミニマリストの精神もそうだし、現代っ子はマテリアルとしての持ち物が少ないのかもしれない。

 

この辺は若い子と接してないと分からない分類だな。

 

SNSは諸刃の剣だ。呟いている時は楽しくても、その先に不利益があった時は時すでに遅い。

 

しかし現代人として、そのあたりの責任能力も、ネットの海に溶けている気がする。

 

皆やっているからと開き直ったら常識がひっくり返る。

 

本名、住所、学歴を掲載するFacebookの存在は、そんなネット社会で生きる上で、最たるものじゃないのか。

 

今はリア充のツールとして使われているが、ネットに個人情報を晒すのが当たり前な時代が、もう来ている?

 

それでもTwitterの方がダウンロード数が上位な理由は、2chのような匿名性と拡散力なのだろうか。

 

調べてみるとTwitterよりlineの方がダウンロード数が上位なのは、利便性がもちろん、それでも顔が見える人との繋がりが持てるからだろうか。

 

でもこんな田舎で流行に乗り遅れないか心配しているのは、単なる気苦労なのかもしれない。

 

都市と田舎じゃ10年くらい文明に差がある気がする。10年じゃ利かないかな。

 

―2―に続く

 

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