柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

思った時点でそれは表れている

 

人の口には戸が立てられないという言葉があるが、口から発したものではなくとも、思っていることは意外にも相手に伝わっているものだ。

 

なんとなくこの人は自分のことを嫌っているんじゃないか。そういう思いは態度によって表れていることが多い。

 

僕は人を見下しがちな性格をしている。

 

何故人を見下すのかというと、僕程度の人間に見下される人は、人間扱いしなくていいというスイッチが働くのだ。

 

僕は、自分というものを過小評価しているが、人によっては過大評価しすぎだという言葉を貰うことがある。

 

それは人によって見下されていると感じる人もいるし、そんなに自分を下げなくてもとみる人もいると云う事だ。

 

今僕は、障碍者就労支援センターに通っているが、その中でついつい見下してしまう人が多い。

 

ただ、見下すと言っても、能力的な優劣で自分より劣っている人に対し、僕は見下したりはしない。見下すというより、見守る姿勢を取っている。

 

しかし、見下されても仕方がない常識のない人は、やはり見下さずにはいられないのである。

 

どんな変態でも、人としての常識をわきまええつつ、人と人とは関わっていくものなのに、自分の好き勝手に振る舞う行動は、目に余る。

 

そういう人を見ると、つい成敗したくなってしまうのだが、自分も常識の中で生きている身分で、そこを蔑ろにはできない。

 

となると、そういう常識のない人は関わらないようにすることになる。

 

そうすると、どんどん思いが態度に表れてしまう。目を合わせることをしなくなったり、話しかけなくなったり、自分に行った挨拶でなければ無視したり。

 

そうなってくると、勘とか第六感ではなく、誰でも兼ね備えている日々の観察眼として、この人は自分に好意的ではないんだと相手は思うだろう。

 

そういうストレスは日々積み重なり、ふとした時にきっかけを得て破裂する。

 

だから、僕は敵を作りやすい性格をしているんだが、30年培ったこの性格は、今更変えられそうにない。

 

そうなってくると、如何に適度に相手のストレスを発散させてあげるか、ということになる。

 

普段から関わっていないからこそ、沈黙というストレスが積み重なってしまう。

 

だから僕がやることは、常識のないその人と関りを持たず、安全圏というものの中で、相手の常識の無さを責めるより、

 

自ら進んで関わっていくことで、未来にあるストレスの爆発を未然に防がなければならない。

 

岡田斗司夫は言った。この世の人たちが未熟なのは、その人たちを自分が教育できていないからだ、と。

 

貴族にはノブレスオブリージュ、持てる者の責任があると、彼は言った。

 

問題が起こるのは全部自分の責任だと思うことで、一歩越えたところから相手を見下す。

 

この考え方が僕の霧を晴らした。

 

問題というのはほったらかしにしていて、解決するものではない。

 

もちろん、望んで関わることで事態が悪化することもある。

 

しかし、関りを持たないことは、面白くもならないといことだ。

 

事態を面白がることが、何より前向きに問題に向き合える。

 

アプローチの仕方を実験的に試してみることの方が、無関心より楽しい結果を生むだろう。

 

もしかしたら、そんな常識のない人たちにも良い面が現れるかもしれない。

 

そうやって面白がることで、相手を利用する手段も見えてくる。

 

その人の持ち味を発揮させてあげることが出来れば、その人の幸せにも繋がる。

 

でもなぁ、そんなことする必要もないとも感じるんだよなぁ。

 

何の成長もせず、反省もせず、一生そのままでいろとも思ってしまう。

 

愛が足りないんだ。それかもっと見放す距離が必要なんだ。

 

自分と同等と思ってしまう部分があるし、自分も劣る部分があると分かっているから、注意喚起することで、その人が成長してしまった場合を懸念している。

 

まだまだ器が小さいな。もっと余裕と自信を持たなければならない。

 

ただ、これ以上の余裕と自信は、成功ののちにある気がするし、今のうちにそんな相手を見下し尽くした態度を取ったら、余計鼻につく事態に陥りそうだ。

 

さりげなく声をかけることから始めてみようかな。

 

このさりげなくを探すのに何日も日を跨いでしまうのだが。

 

まずはアスペ気味の父親からだなぁ。

 

やだなぁ。別にそんな善意かけてやる必要ないんだよなぁ。

 

だって、向こうは無自覚にこっちの嫌がることをし続けているんだぜ?

 

それって罪以外の何ものでもないだろ。

 

禅の領域、仏の心、アガペー。そんなものの領域に自分が入らなければ、事態は解決しないのかもしれない。

 

勉強をしているのが何より楽しくなっているが、勉強すると云う事はそういうことの所在を知ることでもある。

 

よくもまぁ倫理だの現代国語だのを好き好んで勉強しているが、そこに行き着くためだったんじゃないかとすら思えてくる。

 

愛を理論化するのが今の目標だ。そういう常識のない人(言ってしまえば悪人)を常識のある世界に引き上げてあげることも愛の形だろう。

 

何様と言われたら、神様と言えるくらい、高みに昇ろうと思う。

 

(こんな人のブログを読んでいるあなた…大丈夫ですか?)