柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

悲鳴をあげる身体 ~自分の身体~ 鷲田清一

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いや~つまらん。

 

何が言いたかったかまとめると、人間が自分の持つイメージ像というのは、自分の目には見えなかったり、

 

感覚し得なかったりすることを想像し補うことで自分という「像」を作り上げるのだって言いたかったんだろうけど、

 

そんなことは明文化してくれたはご苦労なことだけど、別に誰かがそれを求めてたわけでもないし、大した発見でもないと思う。

 

人体学の学者だったなら文章が面白くないものしょうがないが、哲学者だったらもっとデカルトとかカントとかの印象についての深堀をしたり、変に人間の体の不思議から話に入っても、

 

そこに関して深い知識があるわけではなく、ちょっと考えれば誰でも考え着きそうなことを、こうして大々的にやられると、あぁそうですよねとしか言いようがない。

 

いいところが見当たらないが、「像」としての自分の捉え方は少し考察が出来そうだ。

 

自分という存在を一つの「像」として考えてみると、オシャレであったり、細身であったり、黄色人種であったり、男であったり、様々な要素に基づいて自分というものは構成されている。

 

その一つでも欠けてしまえば、別人になってしまうし、今からその要素を一つ変えてみようと試みれば、それこそ自分は別人になり得ることが出来る。

 

人間というものは自分の想像する一番いい形に近づき、それは日々受動的に自己が認めていく。誰もが理想の自分になりたくて足掻いているし、思春期の頃なんかは自分という存在が認められなくて、他人になりたいと願い苦しむものだ。

 

自分が自分という存在、自分の「像」を認められたときには初めて自分のやれる限界を知ることが出来る。

 

それは自分がどこまでの存在になれるか、どの程度のことなら出来るのかを知ることで、それは悲しいことかもしれないが、指針にはなる。

 

有名になりたい、人気者になりたいと、誰もが一度は憧れると思うが、そこで自分の像をわきまえていないと、思わぬ落とし穴にはまってしまう。

 

敵を知ることは難しいにしても、己を知り尽くしてしまえば、百戦とは言わずとも、五十戦は危うからずだろう。自分というものを知り尽くすために人生はある。

 

三十代になって、今までできなかったものを克服していくのが愉しい年頃になった。

 

三十代としての像を考えた時にでも、三十過ぎた働きもしない子供部屋で勉強にふけっているオジサンの像を想像してみると、時代のせいもあってか上手くやれることは見つからない。

 

本来なら結婚して子供を作って家を建てている歳だとは思うが、その路線からは脱線してしまった。

 

これからはアウトローな生き方を考えなければならないが、そんな像を身近に見たことがないので、やはり像というものが想像できず、とても危うい。

 

自分というものを探求するのは得意な方だが、それが社会の役割に合致したことは無い。

 

一人遊びばかりが上手くなって、社会の流れに溶け込めないし、仕事をした時も、自分の像ばかりを気にしてしまって、他人が求める像に沿うことが出来ない。

 

モラトリアムを拗らせているのだと思う。扱いにくい人間になってしまった。

 

もともと我が強い癖があるが、それで上手くいった試しがないので、組織としての役割なんかは苦手な性質なんだと思う。

 

たくさんいる中の一人よりも、掛け替えのない一人であることを心の底から思っているから、そういう齟齬が生まれるのだろう。

 

他人と生きるということは、ある程度その人が思う像に当てはまるように、自分を調節していかねばならないのかもしれない。

 

だったら自分で組織を作った方が面白いと思うし、時間も金もあるのだったら、そういう道を目指すのもいいかもしれない。

 

その時に、他人を「像」にはめ込んで解釈していくことがないように、誰でも成長していくものだと考え、印象することで過去の例と当て嵌めることはあっても、その想像を超えてくることを信じる。信じても期待はしない。

 

付かず離れずの関係性を保ち、心のどこかでいなくても平気と思う冷酷さがあって然るべきだ。

 

他人なんて大体摂るに足らない存在の人ばかり、一生付き合っていく人間だって僅かだ。

 

僕は僕ぼこういう他人を見下したところを気に入っているし、こういう論を聞いても、自分なりに解釈をしてしまう。

 

揚げ足を採ることに躍起になるし、筆者の変態性が見れるとほくそ笑んでしまう。

 

それが僕の像であって、この像の表層は年を追うごとに堅くなっていくだろう。

 

面白がれることを第一に考えれば、それもいいかもしれない。つまらなく正しいより、面白く間違っているのは解釈としては下の下だが、正しさの中に面白さを見出し、

 

間違っていることを正す傲慢さは、これからも僕を刺激的な日々を送る指針になってくれるだろう。反省も改善もしながら研鑽の日々は続く。