柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

トラウマに苛まれる

どうも、アラサー糖質ニートの柳です。

 

今日はちょっと今朝見た夢が久々にトラウマを刺激してきたので話してみようかと思います。

 

今日見た夢は、バスケットボールの夢でした。

 

僕は小、中、高校始め、社会人になってからと、バスケットボールに励んできたのですが、

 

 

それは小学校の時に貯めた体力と才能をどんどん食い潰していくバスケ生活でした。

 

小学校の頃、スラムダンクに憧れた母の勧めで、ミニバスケットボールクラブに入りました。

 

小学校の3年生の頃に入ったのですが、最初は兄の影響でクラブをめんどくさく思ってしまい、

 

 

二人で兄の友達の家に行って、ロックマンX5を一緒に見るという今を思えば何にもなら無い楽しい時間を過ごしていました。(海の藻屑と消えるがいい!が懐かしいな)

 

兄もバスケットボールクラブに入っていたわけですが、運動神経は良い方ではなく、

 

その分僕が兄弟の中でも一番運動神経がよく、母も「子供の頃は全身筋肉で出来てた」と称するくらい、体を動かすのが得意でした。

 

でも、引っ込み思案で、何事にも自信がなく、平行してやっていた吹奏楽クラブでは並みいる女子たちには慣れることは出来ず、最後まで馴染めなかったのを覚えています。

 

それでも4年生になってから、鬼のような練習量にもついていくことが出来、毎日練習が始まる前に、

 

上級生が「俺、今日の練習終わったら辞める」と溢しているのを横目に、これを乗り越えたらレギュラーが貰えるとは思っていませんでしたが、

 

練習試合の時に、ダブルスコアになったら試合に出して貰えるくらいには、信頼を勝ち取ることが出来、

 

次の世代のメンバーに入ることをほぼ約束された状態でした。

 

僕の長所は、体力と相手に食らいつくディフェンス力でした。

 

ディフェンスの要は、人並み以上の運動量と、ボールに対する執念。センスはあまり必要としませんでした。

 

それでもディフェンスしているときの、相手の呼吸を読み、ボールをスティール(カットする)のは快感で、

 

体力的にキツいのに楽しいM気質と、相手の嫌がることを常に考えS気質はこうして育まれました。

 

僕のディフェンス力は、相手のエースに当てられることが多くなりました。

 

相手チームがエンドラインからボールを放るときから、オールコートでゴール際に行くことすらしちめんどくさいくらいビタビタに張り付く僕のディフェンスは、

 

相手のエースに自分の思うようなプレーをさせないエース潰しに使われ、相手チームの攻撃力を格段に落としました。

 

僕らのチームはボックス1というゾーンディフェンスのフォーメーションをとり、

 

それが使われるのはここぞというときで、その期待に応えられるのは何よりも充実した思いを得られました。

 

小学校の時が、人生で一番頑張っていたかもしれません。

 

それからは、小学校の時に貯めた貯金を使い果たすようにして、過ごされていきました。

 

中学に入り、小学校の頃に僕のディフェンスに苦しめられた同級生のクラブメイトの評価もあり、三年生になればレギュラーはほぼ約束された形で入部しました。

 

しかし、同級生のクラブメイトたちはみんな自分の出身校から同じ中学に上がった人はほとんどいなく、僕は試合に出れない1~2年生の頃、腐ってしまいました。

 

 

小3の頃のように、練習をサボることはなかったですが、態度が悪かった。

 

不良にも目覚めてしまったときだったので、反抗するのがカッコいいとか、すれているのがイカしているとおぉうようになりました。

 

練習には不真面目、で実力はあるという厄介な立ち位置に立っていて、3年生の頃、背番号は9番だったけどレギュラーという、

 

当時、ひたむきに頑張っていたねもちゃんには悪いけど、チームに重宝される形で試合に臨んでいました。

 

 

僕らのチームスタイルは、身長が高い子がいなかったこともあり、セットプレーよりも速攻を活かした、小学校の頃のチームスタイルと一緒になりました。

 

1~2年の頃は顧問の教師をみんな嫌っていて、部室のタバコ問題などもあり、誰も言うことを聞かない状態が続いていました。

 

しかし、3年になってちゃんとした体育大学を出た体育教師でバスケ経験もあるバリバリ熱血教師の前原先生の指導もあり、

 

遅らせばれながら一丸となったチームは、真面目にひたむきに勝利を目指しました。

 

チームスタイル、プレースタイルの話をもう少し詳しくすると、うちのチームの持ち味は、相手チームがセットプレーをしているもしくは、

 

 

エンドラインからゴール際までボールを運んでいる間に、インターセプトして、その間、それを信じていた僕とユウイチが空いてるコート全力疾走してソッコーを成り立たせるというものでした。

 

大体はアイハラがカットしたボールをマー(キャプテン)に繋ぎ、マー豪速球のパスを僕が受けて、ノーマークの中、僕がシュートを決める、というものでした。

 

このノーマークでのシュートが非常に緊張する。誰も外すはずないと思っているなか、

 

全力疾走して心臓はバクバク、走ってきた勢いはついている、後ろにはディフェンスが迫ってくるなかで、打つシュートは一番のプレッシャーのかかる絶対に外せない大仕事でした。

 

必勝のパターンも見つけ出すことが出来、僕もその頃にはやる気が戻り、チームは勢いづきました。

 

しかし、悪夢は訪れるのです。

 

冬に迫った最後の大会でした。僕はその頃、アトピー性皮膚炎も患っており、冬場は手がカサカサになっていました。

 

そこへバスケットボールが強く当たるわけですから、当然手にはあかぎれが出来、そうなるとバンドエイドを貼るわけで、

 

その頃僕の手は皮膚の面積よりもバンドエイドの面積の方が多かったくらいです。

 

そうなってくるとボールがとれない、いわゆるファンブルを起こしやすくなって、僕らのアイハラがカットしたボールをマーに繋げてから速攻にするパターンは破綻していました。

 

それでも練習の時は気づかず、本番になってから、僕が使い物にならないことが分かりました。

 

それでもチームは健闘してくれて、試合は拮抗する戦いぶりを見せ、だからこそ僕の得点源が無いことが非常に悔やまれることでした。

 

結果僅差で負けることがかさみ、いよいよこの試合で負ければ中学でのバスケットが終わるという試合の時、僕は相も変わらずファンブルをしっぱなしで、

 

ディフェンスで活躍しても、得点に活かせないという悪循環よりさらに悪い結果を出してしまい、チームに多大な迷惑をかけました。

 

試合終了前の1~2分で得点は3点差で僕らのチームが負けていました。

 

そこへ相手のシュートをこれ以上決めさせる訳にいなくなり苦肉の判断で相手のシュートモーションの時にファールをして時計を止めました。

 

シュートは決まらず、フリースローは2本。祈りを込めてボールの行方を追いましたが、二本とも入って5点差。もう僕らに勝機はなくなりました。

 

僕らの攻撃が始まりましたが、そのままブザーが鳴って、試合は終了しました。

 

僕はそのとき人生で一番落ち込みました。あのシュートが入っていたら、あの速攻が少しでも活かせていたら。

 

そう思って後悔が押し寄せベンチで泣き崩れました。

 

このバスケへのトラウマは今も尚残り続けています。

 

社会人になってから、バスケットを再開したのですが、あの頃の体力もなく、それにあの頃でさえ浮き彫りになってなかった、僕のシュート力のなさが如実に曝されることになり、

 

さらに年下の僕よりバスケ歴の短い後輩にバスケが下手で舐められ、それでも実力勝負の世界で、追い抜くにはそいつより上手くならなければならないわけで、

 

そんなことは叶わず、僕のバスケットボール人生はそうやって暗黒に染まりながら終わりを迎えました。

 

トラウマを解消することはもう出来ません。こうやってまだ夢にまで見てしまう辺り、この棘は深く刺さっている。

 

抜くときに血が出るなら、この棘が自分の中で一体になるのを待とうと思います。

 

普段は考えないことでもこうして向き合うと、自分には確かに怪我をした記憶があったのだとわかります。

 

その記憶があるから今の自分があるわけで、青春の時に追った傷というのはいつまでもジュクジュクして消えることなく、心を苛み続けているのを感じます。

 

あの頃今のように出来ることと出来ないことを、はっきり分けられたら、チームを考え自分が身を引く決断を考えられるようであったら。後悔はつきませんね。

 

友人関係も清算が終わって、さらにコロナの影響で関わることすら出来なくなって、寂しい思いはしますが、スッキリはしたと思います。

 

あの頃のトラウマがあるから、中学の頃の友達と関わるのは恐れ多くて向き合えません。

 

成長を経てだんだんと老いていくなかで、いつまでも僕の中の少年の部分が不安そうな顔をしています。

 

少しでも胸を張って、大人になったんだと言えるように、今日も少しでも出来ることを重ねて。