石川啄木
たわむれに母を背負いてそのあまり軽さに泣きて三歩歩まず
いやぁわかりやすくていいなぁ。
年老いた母を遊び心で背負ってみたらあまりに軽くて泣けてきた、軽いはずなのに三歩も歩けない自分がいる。
仲のいい孝行息子の像が浮かんでくる。
それかそれまで孝行なんてしたことのなかった息子が、足の疲れた母をおぶってやっからと持ち上げた瞬間に、こういう光景になったのかもしれない。
うちの母はふくよかな方なので、おぶることなど一生ないと思うが、年老いた枯れ木のような母を背負うという好い情景に、心が動く。
親の老いを感じる瞬間は何とも言えない寂しさがある。
それを背負ったことで肌身でそれが実感できて、もう別れも近いんだなぁとしみじみ思って泣けてきたのだろう。これは男にしか書けない詩だ。
自分はこれからの人なのだろうが、それも子を生し、年老いていけば巡り巡ってくる。そうやって母の重みを知るとも知らぬとも死というものが迫ってくる歳になって、なんとも抗いようのないその理に、ぐっと奥歯を噛みしめるしかない。
こういうシチュエーションが少なくなってきたとはいえ、ないとは言えないから、現代でも通用する良い詩だ。かーちゃんって呼んでいるんだろうな。
重かったかい?いや……かーちゃん。あんまり軽くて泣けた。枯れ木でも背負ってるみてぇだ。なんて憎まれ口言ったりして。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻とたしなむ
平凡な男の詩だなぁ。友人が偉くなって自慢されたり噂を聞いたりしても、それでも自分は妻を愛することしか出来ない。それでいいじゃないか。
そんなときに花を買って行ったら妻は喜ぶだろうな。みたいな。
情景がパッパと変わって、最後に納まりのいい場所に落ち着く。
こんな平凡な人でも、愛した妻がいるのは幸運なことだろうな。
多分妻を愛するだけで、男の一生は意味のあるものになると思う。
男女が愛し合うということはどんな難解なパズルや問題より難しい。
ちょっとしたことで喧嘩になるし、ちょっとしたことでも気づいてもらえなかったら寂しいし、怒る。
そんな中で、どんどん偉くなっていく友人たちを見ていくと、自分がなんて情けない生き物なんだろうと思うけど、そんな悔しさも妻と花を愛でることで少しは癒される。
その少しの癒しが心に余裕をくれる。素朴でもあり男の強さと弱さを描き分ける啄木、結構好きだぞ。
分かりやすい詩だからしみじみ良いなぁと思う。こんな簡単な言葉しか組み合わせていないのに、世界を作る作家というものはやはり凄いな。
短歌は5・7・5・7・7でちょっと長いからその分自由度があり自分の思いみたいのがにじみ出る。
俳句だけでも手一杯だけど、余裕があったら短歌も勉強してみたい。
自由度が高い分短歌の良さも移ろいやすい。テーマを立ててどれだけそれを無駄なく表現できるか。自分というもののキャラクターを立たせることが出来たら、掴みどころはあるかも知れない。
みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな
昔の人は、読み物が限られていたし、今のように出版業界も有象無象が蔓延っていなかったから、確かに教養がある本が出回っていて羨ましい。
それでもそういう教養本は限られた人にしか読まれていなかったから、その時代に僕みたいのが生きていたら、仕事に追われて日銭を稼ぐことで精一杯で、読むことは無かったのだろうか。
それとも限られた時間、限られた金で一冊一冊を大事に買って、大事に読んでいたのだろうか。
最近教養本と呼ばれる本を読むようになって、その難解さに、昔の人は頭が良かったんだろうなと思う。
まぁ全体を通してみたら教養のない人の方が多かったんだろうが、現代文を学んでいて、端的に刺さるような文章を書く人は少ない。
小説家においては、見るに堪えないものばかりだ。そんな中、ただ海外小説をみぞれが降る汽車の中で呼んでいるだけで詩になってしまうこの力。
それだけで成り立たせてしまう世界。ツルゲエネフの小説がどんなものかわからないけど、それは良いものなんだろうなと思わせてしまうこの、
ツルゲエネフの小説を読んでいるんですよ、みなさん教養があるでしょ?何を読んでいるのか想像してください。分かるでしょ?という感じが、羨ましい。
このツルゲエネフが角田光代じゃこれは成り立たないし、その時代に生きていた人か、ツルゲエネフを読んだ人にだけ何を読んでいたのか分かると想像させる誘導がズルい。
ツルゲエネフが大したことない人だったらこの詩は成り立たない。