柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

その子二十 与謝野晶子

その子二十 櫛にながるる黒髪のおごりの春の美しきかな

 

〔二十歳になった美(少)女の自慢の黒い髪。櫛も流れるほどの指通りは青春に満ち満ちている証。〕

 

二十歳の娘っていうと昔は少し年齢がいき過ぎてやしないかと思うんだが、その辺はフェミニストの人の逆鱗に触れそうだよな。

 

今時黒髪ストレートの美女も珍しいし、古き奥ゆかし日本の美って感じだけど、えっちさが溢れ出てしまっていて、いかん。

 

短歌は制約が少ない分長めの詩になっているので、ストーリーがつけやすく自由な発想も出来れば、その分難しくもなる。

 

初っ端から字余りだったので短歌だと思えなかった。女性から見た女性も良いよね。

 

太宰の描く女性とあまり差異はないけど、女の視点で書かれているっていうレイヤーがあるだけで、すんなり、それでも迂闊に入れられない、気易く触らないでっていう気高さも感じる。

 

二十歳じゃなかったらもっと、触れてはいけない感じが出たんだろうけど、それはちょっとロリコンっぽい発想か。

 

美しきかなで終わる詩はいいなぁ。なんと美しいことでしょうという詠嘆で終わる。

 

与謝野晶子が二十歳の頃を思って書いた詩なのか、二十歳の娘を見て書いた詩なのか。

 

どっちにしても女性の美を捉えるセンサーの感度がヤバイ。

 

櫛を梳いていなくては、そのすごさは解らないし、それが出来る自分(もしくはあなた)の傲り高ぶりも書いているのならよーく女性を観察し、女性というもの肌感で捉えている証拠。(まぁ女性なんだけど)

 

そこに春(青春)を取り合わせる辺り、瑞々しさが出て良いな。

 

 

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 

〔せっかくの美少女の柔らかい肌も、その奥に流れる血の熱も感じずに、道学なんて説いて寂しくないですか?君。〕

 

萌えやわなぁ。

 

「君」は「あなた」とかって訳されるだろうけど、ここはあえて「君」のまんまで、同級生を「君」呼びする女生徒を設定したい。

 

非常にえっちな詩です、はい。

 

こんな詩を夕暮れの教室で詠われたら、発情せずにはいられないだろう。流行んないかな詩で愛を伝える女の子。

 

柔肌の熱き血潮と来た辺りでこりゃぁ美少女の柔肌だって見せつけるこの手練れ感よ。

 

寂しくないですか?寂しいでしょう?なら触ってみましょうよ。と来るこのえっちさ加減よ。

 

生々しくもないけど爽やかにえっちだ。私は寂しいですよも垣間見えているな。

 

誰もいない夕暮れの教室で、前の席の眼鏡をかけた黒髪おさげ(ただし美少女)が机に突っ伏して呟くように詠う。

 

私はあなたにこれだけ好意を持っているのに、あなたは気づいてくれない。

 

それを一瞬遅れて彼が気づく。待たせた分、お預けを食らうんだろうなぁ~!

 

CV.は伊藤静で!

 

鎌倉や御仏なれど釈迦牟(しゃかむ)尼(に)は美男におはす夏木立かな

 

〔釈迦ってホントに美男子よね。夏の熱さにも黙って瞑想する仏様は本当にいい男。〕

 

釈迦にまで発情する与謝野先生に感服です。意味を知るのが楽しいな。

 

鎌倉やときて、御仏と来るまでは普通の詩なのに、それを美男子ねと心に留めておく感じがまたエロい。

 

自分は汗で蒸れているのに、仏は涼しげに瞑想している辺りも、女と仏の差、みたいなのを感じさせて良き。

 

(詩人だから当たり前だけど)感性が瑞々しい人なんだなぁと思う。

 

恋の詩をもっとずっと読んでみたい。

 

難解に作ることで思いをひた隠す感じも、知的であり、いたずら心もあって良いな。

 

女という奴は本当に解せない。どこまでも望むし、何をしても満たされない。

 

永遠に渇いているのに、思いや仕草がずっと瑞々しいのは何故なんだろう。

 

自分の中の女の部分がいつも動いているからかもしれない。この男の鈍感さたるや。

 

平凡でいることはつまらない。全てを瑞々しく思う心があれば、どんなところでも美しく見ることが出来るだろう。

 

ただ口を開けて、ぼけぇ~と生きているのは何と勿体ないことか。

 

現代人の生き方をしていると詩的な瞬間を感じない気もする。

 

便利さを手に入れたことで、生活は快適になっても、それは美しく生きることではないと思う。かといって昔にも戻れないので、こうして先人たちが残した美しさを探求し、心を過去に飛ばすことで愉悦を得るのだと思う。