柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

村上鬼城

冬蜂の死にどころなく歩きけり

 

 

冬の蜂の死に場所はないのに歩き回っている様子を句にしたんだな。

 

本来、蜂には死に場所なんて考える感情はないが、それを逆説的な視点でもって見て敢えてそれを表すという手法が使われているのだろう。

 

弱ってもう歩くしか気力がないのか、それでもここが死に場所なんだと決めてしまえる人間性みたいのもない虫の憐れでもあるし、生命や本能のまま生きるものの性を表しているようで、なかなか良い句だと思う。

 

ただ子規や虚子のような圧倒的な感じはあまりしない。

 

それは単に村上鬼城の名前を知らないだけというのもあるし、この句に本当に力が宿っている気がしないからでもある。

 

二人の圧倒的な部分ではなく、村上鬼城の武器はテーマだと思う。

 

生と死を題材にするそれだけで句は一段階上の格に上がる。

 

プレバトで立川志らくさんが一番調子が良かった時、飛ぶ鳥を落とす勢いで書いた「桜隠しキリストめける干したシャツ」を詠んだ時、

 

この人の勢いは何処までも登っていくんだと思ったが、ここで渾身の句を夏井先生にダメ出しをされたことで、一気に才能がしぼんでしまった印象が強い。

 

夏井先生は愛の鞭もあるし、番組として公平に扱わなければならない手前、志らくさんの伸びてきた鼻をポキッと折ってしまったが、志らくさんはトラウマを抱えたに違いない。

 

志らくさんは未だそこから脱しきれず、迷走している。

 

ただ志らくさんの技術は足りないのに上り調子だったのにストップがかかるのは必然だっただろう。

 

勉強しなければならない重圧から、その時に比べて今は格段に出演数が減った。

 

それに比べて口はうるさいが、毎週必ず出てくる梅沢さんのタフネスさと言ったら凄い。

 

結果を出すまで、結果を出しても尚、番組の看板として、出演し続けるのは、東国原英夫さんでも出来ないことだし、最早プレバトが梅沢富雄で持っている番組になってしまった。

 

そんなおっちゃんもたまにはテーマの際立った俳句を作ってほしいものだ。

 

今はまだ我欲が俳句にもろに出ているので、見るに堪えないもの量産している。

 

澄ませるのか、巧みにするのか、高みに行くのか、これらが出来て初めて子規や虚子と並ぶような名人になれると思うが、番組を見ている限りは、足掻き続けて土に塗れた勝利しか道はない気がする。

 

夏井先生の俳句は技術面での指摘が多く、その分強調されてしまってはいるが、ここで写生句や一物仕立ての俳句をポーンと出されたら誰もが驚くだろうし、視聴者はそういう物が見たいと思っている。

 

あとは、「や」や「ごと」ばかりでなく、「けり」とか「なり」みたいな助動詞を使った句を見てみたい。

 

俳句の勉強となると必ずそこは通らなければならないし、番組としては説明するのが難しいところかもしれないが、そこが分かったらもっと俳句は楽しくなると思う。

 

 

鷹のつらきびしく老いて哀れなり

 

 

やっぱりテーマどりが良いな。老いても鷹はカッコいいよね。

 

鷹のカッコよさがあるからこそ、老いてや哀れなんかのマイナスな言葉が入っても、句にシュッとしたカッコよさ、それに老いた鷹という老獪な感じも出て良いと思う。

 

鷹が老いていくのにも常に狩りをして、厳しい弱肉強食の世界を生き抜かなければならない。そこで易くは老えず、自分に厳しく生きたものだけが生き残れる、

 

それでも老いていくしかない哀れな部分を切り取って出来た、子規と虚子の良い所を併せ持つかのような凄みがある。

 

自分や傍目に見た老いを感じなければスルッと出てくる言葉じゃないし、だからこそまぐれではない気がする。

 

俳句は若い頃より、年がいっている方が良い句が書ける気がする。

 

それでも、瑞々しい若さを売りにした句は、若いうちにしか作れないし、若いうちから背伸びして老いを感じる句を書いても白々しくなってしまう。

 

その時に一番思っていることを表すのが一番自然なんだろうな。

 

そうなったら、自分というものをもっと明確にしていかねばならない。

 

何が好きで、何に惹かれ、何を思ったのか。そのために表現することを止めない。

 

自分のありのままを映せなくても、それが5・7・5の17音で形にする方式に乗っ取り、少しでも表現する。

 

その少しが積み重なって、自分なりの句集が出来たり、足跡が残せるのは、自分が生きた証や意味を世界に問うことが出来る。

 

何者かになれない人がほとんどだ。それでも、少しでも良さが宿っているなら、誰かの心に残るような、そんな魂の欠片を分けてあげられる。

 

自分の存在意義を今問われている僕にとっては、作品を残すことだけが、自分がこの世界で生きていることを外に発信できる術だ。

 

調子が悪くなった時には、自分は生きている意味はないんだとまで落ち込ませる創作活動に励むことで、自分は生きている意味がある存在なんだと思わせることは、なんとも危ういところに追いやっている気がする。

 

もっとフラットに自然に取り組めてたらいいと思うのだが、なかなかそれは難しく、こうしてダラダラとブログを書くことで紛らわしている。

 

生きていれば波や谷は必ずやってくるものだ。自分からそれを乗りこなすようになるのは、まだまだ先のように思える。

 

哀れ「なり」と断定する言い方をすることで、自分の意見をしっかり持っているのは、強く自分の個性を出すことにも繋がり、鷹にも負けない強い感想になっている。

 

そういう表現をたった二文字で出来る俳句の奥深さと多様性に、同志として励んでいきたい。

 

 

闘鶏の眼つむれて飼はれけり

 

 

闘鶏とは野蛮な感じがするが、人間が作った文化の一つであるとともに、闘わされているにもかかわらずそこに気高さも感じてしまうヒューマニズムな句だ。

 

闘鶏で闘い、眼の傷ついた軍鶏が、その後も飼い主に飼われているという句だけど、なかなかに荒々しい句で、その前の二句と同様に、生き物の盛りを過ぎて、哀れさを感じる句だ。

 

闘鶏や闘犬をする人に対して、僕みたいな普通の人は、可哀想と思ってしまうのだが、それにはそれの矜持があるのだろうか。

 

自分を鍛えて、格闘技などの大会に出るのではなく、飼っている大事な鶏や犬を闘わせて、負けることもあるだろうに、怪我をして帰ってきたのを見て、心が痛まないんだろうか。

 

ヒューマニズムとは人間のためならその他の全ては消費されるものだと、岡田斗司夫が解説をしていた。

 

そうなったら僕はヒューマニズムを尊重しているのではない位置にいるんだと思う。

 

しかしだったら、人間以外のものに対して愛情を注がなければならないとするのであれば、牛肉や豚肉は食べられなくなる理屈がある。

 

岡田斗司夫はその辺を突っ込まれたくないから自分の理屈を通して、自分はヒューマニズムであるとすると思うのだが、そこまできっぱり割り切れない。

 

甲斐甲斐しく育てた豚や牛の命を断って、肉にして販売してくれる畜産業の皆さんに本当はありがとうございますを言わなければならないが、

 

そういう感傷もなく、ただ精肉コーナーにあるお肉を買って、旨い旨いと言って食べているのは、なんとも世界を当たり前のものとして見ている気がする。

 

せめて、「いただきます」「ごちそうさまでした」をしっかり言って、奪った生命に感謝しなくてはならないのだが、それもする時としない時がある。

 

日々そういう面倒なことを意識しながら生きるべきなのだろうが、そういう機会にも恵まれず、僕はいただきますを言わないで肉を食べ続けるだろう。

 

むしろ、いただきますより乾杯の方が、優先順位が高くなっている気がする。

 

そういう点はヒューマニズムを尊重しているし、結局自分の自己都合によってコロコロと意見を変えているのだろう。

 

主義主張がはっきりしている人に比べ、なんと堕落した生き方だが、これが普通に生きることだと思うし、その反面、僕は普通に生きたかったのだろうかという疑問も生まれてくる。

 

今更手を合わせていただきますというのは気恥ずかしさが勝ってしまって出来ない。

 

自分の主義主張があるわけでもない。ただこういう問題を前にすると、漫然とそのままで良いんだとはいえない違和感も浮かんでくる。

 

ただ、それはその時そう思うだけであって、単にそういうアトラクションに乗っただけなのだということも分かっている。

 

自分が人を躾けるようになったら違うのだろうか。でも、そうなった時、そこから自分の主義を変えていくのではなんとも説得力のない話になってしまう。

 

いただきますを言うのは恋人を前にして、彼女に自分がそう躾けられた良い子なんですと見せつけるためだけのものになるのなら、利得が得られて習慣づくかもしれない。

 

いただきますを言うのに、今のままでは気恥ずかしさから損を感じてしまう。

 

いただきますを言うことで良い子になれたと利得を感じられる良い子であったら、僕はいただきますを言う子になっただろう。

 

しかし、今の時代、いただきますやごちそうさまをしっかりきっちり言う人を見たら、何となく宗教臭く感じてしまう。

 

自分の中に宗教を持つことは、持っていない人に比べて、一段バフをかけた生き方が出来るというのも聞いたことがある。

 

善く生きることを信じるのならば、それは通った方が良い道だと思うし、普通から離れるチャンスでもあると思う。