柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

子規句集(3) 正岡子規

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朝顔にわれ恙なきあした哉

 

恙(つつが)なきとは、無事に、問題なくという意味だ。

 

普通の人が恙ない明日としたら、特に問題も起きない朗らかな落ち着いた一日が始まったとするだろうが、子規が書くと、今日は無事朝顔と共に起きることが出来て良かったという意味に捉えることが出来る。

 

昔の恙ないの意味は病気がないという意味でもあったらしい。朝を告げる花、朝顔と一日の始まりに自分の無事を噛みしめている情感たっぷりな良い俳句だ。

 

昔の人は草木と近かったのが分かる。

 

少し前の勉強で、山里に生きる村民と、その対岸にある大量生産の畑を営む農家との間で時間の価値観が違うという勉強をしたが、現代人は時間に追われ過ぎて大事なものをいくつも失くしてきた。

 

その一つに草木を愛でることがあるが、現代人というのは時間が有限なことに強迫観念を持っている。

 

いついつまでにこれをやらなければ、これの次はあれをやって、ああこんなことをしてまた時間を無駄にしてしまった、と考える人は多いのではないだろうか。

 

僕自身勉強は2時間、家にいる時のご飯は簡単に済ませて、母が帰るまでに夕飯の準備をしてと、

 

時間時間でやることを区切っているが、その際は音楽や岡田斗司夫の話を聞きながら作業をして、時間というものをなるべく忘れるようにしている。

 

しかし、それは退屈に殺されないための工夫だ。結局無為な時間を過ごしたくないという強迫観念から、時間を味付けして、一定の濃度を保とうとしている。

 

だから時間に追われていることには変わりがない。子規の俳句にはそういう重力を感じない。何か大事な器とか価値観とか、生きるということ自体に意味を持たせようとし過ぎている気がする。強迫観念の正体は不安だ。

 

生きていく中で、自分の存在がなにか世界に意味をもたらすものであって欲しい、そうでなければ生きている意味がないと不安に思うからこそ追い立てられてつい行動をしてしまう。

 

時間というものに時給という価値がついてしまったおかげで、無為な時間を過ごすと、無駄なことをしてしまったと感じるようになってしまった。

 

正確にはこれだけの時間があれば、これくらいのお金が稼げて、そのお金で好きなことが出来たから、となって余計に無駄を感じてしまうのだろう。

 

その辺に悟りが開けたらもっと時間の感覚が変わってくるのかもしれない。そうなるには、無駄なことをたくさんする方が良いかもしれない。

 

といっても何の役にも立たない無駄なことではなく、お金にはならないが徳を積むことが出来る、何かの手伝いや奉仕をすることで、時間よりも自身に価値を見出すことが出来ると思う。

 

今は気持ちが焦ってしまって体がついて行っていない状態だが、心身ともに整ったらボランティアにも参加してみたい。

 

ニートの身として、金銭の問題がまず念頭にくるが、現代人としては、時間感覚も問題視していきたい。

 

時間を充実させることばかり考えてきたが、一緒にいて時間が進むのがゆっくりな気がすると言ってもらえるようなひとになるというのも美点だと思う。

 

僕は誰かと一緒にいる時、なにかしかそこで意味のあるものを見出すことに必死になっている気がする。

 

もしかしたら、時間を充実させていく方が得意なのかもしれないが、正直カロリーは使うし、疲弊してしまう。散歩とかした方が良いのかな。

 

バイク買ったらもっと自然と近くなれるだろうか。でもどこもコンクリートが走っていて、電線が繋がっているから情緒を感じないという言い訳が立ってしまう。

 

やっぱり始めるべきはカメラなのだろうか。う~ん。

 

 

鶯や山いづれば誕生寺

 

 

子規が房総旅行した時の句なので日蓮宗大本山小湊山の誕生寺のことを詠った句だ。

 

鶯が山を下りて出た先に誕生寺があるという句で動きはあるが写生句になる。

 

誕生寺は日蓮の誕生を記念して出身である小湊山(の麓?)に建てられた寺らしい。

 

仏教もキリスト教もそうだが、弟子たちに寺院やお経を残さないでくれと言ったのに、張り切ってお言葉を世に広めてしまったのはギャグでしかない。

 

そう考えると、ブッダもキリストもプラトン的な考えを持っていたのだろうか。

 

何を言ったかではなく誰が言ったかが重視され、言の葉だけが残ることは忌み嫌った。

 

あまりにも世の人に認められた二人だったから、自分存在があった証を残す必要性を感じなかったから、そういう考えに至ったのだろうか。

 

自分の死んだ後のことまで考えるのは凡人なのだろうか。

 

自分の生きている間に、自分が何をするかだけを考える太く短い生き方は、確かに憧れはあるし、多くの人がそれを望んでいる気がする。

 

それは表から見ても裏から見ても正真正銘のエゴの塊だが、もし自分の子孫のためにと自分が死んだ後のことまで考えることもまたエゴなんじゃないのだろうか。

 

後に残すものの代表例に、没後70年続く著作権があるが、もし僕が書いた小説が本になって、僕に出来た子供にも著作権による印税が入るようになったら、僕は良いなと思ってしまう。

 

お金に不自由することは不幸なことだと思うからだ。

 

しかし、お金という人生で最大の問題が解消された時、遣り甲斐を持つことは出来るのだろうか。

 

今は何をしても満たされない渇望があるが、渇望が満たされてしまったら、もっと人生に満足することは難しくなるのではないだろうか。

 

困難を克服していくのが人生だと思う。それは呪いで在り祝福でもあると思う。

 

この困難が克服できないでいる限り、僕は満足しようと足掻き続けることが出来る。

 

もしそれが満たされてしまったら、何をするんだろう。それでも倫理を勉強していると、著名な学者たちは、大体が家が裕福で、そこから自分で独立していく。

 

結局親から受けた恩恵があっても、個人がしっかりしていたら、自分で自分の道を切り開くのだろう。ただその時、

 

切り開くための初めの力が、家の裕福さや教養だとしたら、やっぱり満たされているものが更にその先にいけるような気もする。

 

満たされているというが、多分違う渇望がその子供にはあるのだろう。

 

芸能人の二世がどうしようもない人ばかりなのと、海外の哲学者たちとでは何の差があるのだろう。

 

どうしようもない二世芸能人といっても、僕以上の生活をしていることには変わりない。

 

人間の中身が何で出来ているのかは、その人がその人生の中で、何を考えてきたかによると思う。

 

考えることが多ければ多いほど、その人の問題も多く大きくなり、問題があれば人は越えたり壊したり逃げたり見ないふりをしたりする。そういう態度をとることで人格は形成されていく。

 

しかし、満たされない世界だったからこそ、偉大な人が世に出てきたとも言える。今は飽食の時代だし、芸能人は出てきても、偉大な力を持った人は、いないように思う。

 

歴史に名を残す人も、どんな力を持っていたかよりも、何をやったか何の役割を持っていたかというだけのような気がする。

 

力とは抽象的なものだが、最近ではオバマさんにはそれがあったように思う。ドナルド・トランプには力というより暴力があるように思う。

 

力とは正しい信念のもとに宿ると思う。だからそれがない釈迦やキリストの弟子たちは正しく世界を導くことが出来なかったのだと思う。

 

 

山々は萌黄浅黄やほととぎず

 

 

これも写生句。子規は写生句が多いな。こうなってくると子規の一物仕立てが見たくなってくる。

 

ほととぎすが入ると一段と春らしいと思ったけど、ちゃんと調べてみたら、初夏の季語だった。

 

ほととぎすといえば有名な三代将軍、織田信長豊臣秀吉徳川家康の句があるが、そういうメジャーでミーハーなイメージがあると、普段使いがしにくくなる。

 

ほととぎすをメジャーにした句はそれであっても、ほととぎすを使う句を作る時には、イメージが邪魔になってくる。

 

子規を一気にメジャーに押し上げた句で言えば「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」だが、この句がどうメジャー層に響いたのかは知らない。

 

子規句集を勉強していればいずれは行き着くものだと思うが、子規のイメージが「柿」となったのもこの句だろう。

 

今別で勉強している高校の現国の教科書で、子規の柿を使った別の句が紹介された。

 

以前にブログでも書いた「三千の俳句を閲し柿二つ」という句だ。

 

甘く熟れた柿をこよなく愛していた子規ならではの、柿がいつも隣にあるのんびりとした句。

 

一度メジャーに出るとそれ以外の作品に目がいかなくなることが多い。

 

子規にはもっと良い句があるんだよということを知りたいがために、句集を教材に取り上げたのだが、メジャーな作品はそれを知っているだけでその人の一部を知った気になる。

 

どういう敬意でそれが書かれたのか、その人はいったいどんな人物なのか、それを想像するのが勉強だと思うし、それをせずして知った気になるのは、最も恥ずべき行為だ。

 

でもそれも自分に関わるものだからこそ勉強したくなるものだし、自分と関りがなければ捨て置いて構わない。

 

結局縁のあるものしか、人間勉強すらできないのである。

 

人が生きていく中で、たくさんのものを勉強するが、その勉強出来た成果はあまりに少なく、世の中にはもっと知っておかなければならないことに溢れている。

 

例えば政治を勉強して、自分の選挙権である一票の価値を考えに考えて投票するというのがある。

 

しかし、現実僕は選挙にも興味がなければ、投票に行ったことすら少ない。

 

本来なら国民としての義務とまではいわないが、どんな政党があってどんな公約を掲げているかくらいは知らなければならない。

 

自分というものに対する核がないのだ。こんな世の中にしてほしいというより、自分が選んだ候補者が何か問題を起こした時に責任を感じたくないと思ってしまう。

 

ネット選挙だったらある程度やるかもわからないが、投票に行くスタイルが続くなら今後も選挙には参加しないだろう。

 

選挙をして生活が変わる実感が欲しいが、そんな即物的な効果は誰が選ばれたとしてもなされないだろう。

 

総理大臣のレベルだったらそれは可能かもしれないが、総理大臣を選ぶのは国民ではなく国会議員だ。その時点で手の届かないところにある。

 

僕は自分の気風をほととぎすに例える将軍より、浅黄色萌黄色に染まる山々を見ながらほととぎすの声を聞くような世に流されない人になりたいが、それはどうも言い訳臭くて子規とはかけ離れた価値観にあるように思う。