山口誓子
つきぬけて天上の紺曼殊沙華
この句で知ったこと。まず天上の紺と来たら夜の闇をイメージしたが、この句で使われている紺色は昼の青空の紺色だということ。それと曼殊沙華が彼岸花だということ。
この句は紺色の(青)空の下に、曼殊沙華が突き抜けるように上向きに咲いているという句だ。
まず突き抜けて、と上五で始まる清々しい感じがいい。突き抜け感というか、真っ先にすっと真っすぐな何かが前方に向かって素早く伸びていくのを感じる。
次にそれは空に向かっていることが分かり、更にその空は青く紺色をしていて、それと対比した真っ赤な曼殊沙華が良いギャップになっている。
曼殊沙華は彼岸の時期に咲く花で、どこか霊にまつわる感じがして、暗いイメージだが、僕としては真っ赤であの独特の派手な花弁の形に、好感を覚えている。
いつもなんであんなに綺麗に咲いているのに、お墓に備えないのだろうと思っている。
この句はそんな暗いイメージを払拭するような、曼殊沙華の生き生きとしたところを描いている。
世の中統一したイメージだけで出来ているわけではないというところが深い所だ。
暗いイメージの彼岸花と捉える人もいれば、天に向かって突き抜けるように生えるこれは曼殊沙華なんだという人もいる。
僕がもし亡くなって、その時子孫がお墓参りしてくれるなら、供える花は彼岸花でいい。
あの赤にどこか生命の力を感じるし、そういう何か腑に落ちない理由や、思わず目がいってしまうデザインといい、しみじみと良い花だなと思う。
それでも文化という奴で、実際に具えてくれる花はその辺りのスーパーで安売りしている花束なんだろうが。
それより花を供えてくれる人がいるのか問題があるが、自分のせいで家の家系が途絶えると心配するような昔気質の人間でもないし、いや、待てよ。一番年下の自分が最後まで墓の面倒を見ることになるのではないか?
現時点でもお墓参りに行くことなんて、お盆にあるかないかくらいしかないのに、墓の管理なんてできるのだろうか。
お墓を大事に出来る人ってのも特権階級だけだよなぁ。時間に追われる現代人には向かない文化だし、廃れて行ってしまうのも仕方ない気がする。待て待て。それをしないように大切にしていくのが、俳句の世界に繋がるんじゃないのか?
文化を大事にしなかったら、あっという間に年を取って、何も残さず孤独で死んでしまう。
そうならないように今のうちからお墓を大事にするような習慣を身に着けておいた方が良い気がする。
それでもまず住む家を大事に出来る資金がない問題もあるし、問題は山積みだし解決できる気もしない。
人生に余裕のある奴だけが文化を楽しめるなら、僕には難しいことかもしれないが、夏井先生のように介護や離婚や事故にも負けず、俳句を作っている人もいるので、なるようになるさ的な思いもあるにはある。
全然突き抜けた生き方をしていないが、多分こうやって迷いながら右往左往しつつ、行っては引き返し、進んでは引きずり降ろされ、ほんの少しだけ残った余力でわずかに進んでいくのが僕の人生なんだろう。
こんなことを書いて、読んでくれる人がいても全然だから生きているんだと胸も張れないが、見守っていくれる人が少しでもいるのは心強い。
海に出て木枯帰るところなし
この人の句は捉えやすいな。情景が分かりやすくて、その割に味わいがある。
山から町へ、町から道へ、道から原っぱへ、川を下り、海町に着き、浜辺へたどり着き、最後は海に行く木枯らしは帰るところなくまた世界を巡っていく。
風は海から生まれてくるものだから、帰る所は海のような気もするが、海に帰って一休みをするわけでもなく、世界中を巡っていく風に帰る場所はないのかもしれない。
風のように軽やかだったらと思うことがある。僕には重力があり過ぎる。
こうでなければいけないこうしなければならないこれは出来ないあれはやったことがない。
そういう壁の中に僕はいて、それを気にせずにはいられない。やりたいことがあるならやった方がいい。
やりたいことをやるために生きていると言っても過言ではない。
人生でこれだけはやっておきたいことが幾つもある。例えばクジラを見ること。
例えばドイツでビールを飲むこと。例えばNBAの試合を見ること。どれもお金を払って勇気さえあれば叶う夢だ。
それが出来ないでいるのは、僕を縛る重力のせいだと言ってしまいたい。夢を持つことは生き甲斐を持つことだ。それを叶えるために今を頑張れる。
でも、それが叶ってしまったら。自分の中に何にもやりたいことが生まれてこないんじゃないかって不安になる。
小説を書いていても、急に書けなくなる。書いても書いてもこれじゃないと思ってしまって、消しては直し結局は消してしまう。
書けなくなった時、自分には何もできないんじゃないかって無力感に苛まれる。
書いている時が一番楽しいから、書けなくなった時は水の中で息が出来なくなる程苦しくなる。
このまま書けないまま死んでいくのかと思うと、形にしてやれなかった自分の物語の登場人物たちに申し訳ない気持ちがする。
この子たちを産まれてこさせるには自分の手、力でしか成し得ないのに、それが出来ない無力感。
出来ることなら完全な形で生み出してやりたいと思うあまりに、その時をただただ待って、自分の中に確かなものが下りてくるのを待って、そうしている内に向き合うのが恐くなる。
何を一端の作家気取りをしているんだと思うが、自分が作家なんだと思い込まなければ、一つ10万文字を越えるような作るのに何カ月何年とかかるものなどやってられない。
ハイデッガーは死が間近になるから生を感じられると言っている。
こうして苦しんでいるのは生きている証なんだろうか。自分の本当に書きたいものを書ける瞬間は、イデアに触れるような神聖な行為な気がする。
物語には必然性が必要だ。でも、物語である限り、それは現実と一致せず矛盾し続ける。
それでも自分の中に物語を落とし込むことが出来るから、人は物事を理解できる。
自分の物語を形にすることが出来たら、自分という人間の存在を証明できるような気がする。僕は最後まで足掻いてそれをしようと思う。
炎天の遠き帆やわがこころの帆
5・5・7の句か。中七の五音目で「や」を使うことで、5・5の調べをきっちりする方法もあるのかと新発見。
9文字使って自分の言いたいことをまとめてやで区切るなんて方法があるんだなぁ。感心。
大海原に出て夏の炎天の中、見上げた帆船の帆を自分の心の在り様と重ねている句か。
炎天の溌溂さ、暑さ、熱さと自分より遥か遠くにある真っ白な帆に、自分も負けじと大きく白い心の帆を広げている情景。
破調ではあるけど、きっちり数が5と7になっているところに技術を垣間見え、手心が加わっているにもかかわらず、流れに勢いがあり律している。
海なし県の栃木に住んでいると否応なしに海への憧れがある。でもそれも子供の頃に比べたら小さくなってしまった気もする。
今はただ、海が近くにあったら海の俳句が作れるのにと、たらればの発想に落ちてしまい、
実際の所、海が近ければ津波の心配もあるし、潮風はべたついているし、シーズンには込み合うので、海のない穏やかな土地に生まれて良かったとも思っている。
憧れがあるなら憧れを句にするしかない。したり顔で海を語るよりも、純粋に海への憧れを言葉にする方が、栃木人らしいし私らしい。
海産物の新鮮さには心惹かれるが、たまに行くくらいの方がちょうどいいのかもしれない。船には何度か乗ったことがある。
船酔いをしたことは無かったが、だだっぴろい海の上をプカプカと浮かぶ(高速船にも乗ったが)のは不思議な感じがした。
水族館に行っても魚というのは何か感触がないと実感がわかない。かといって釣りに行って魚を触ると凄く気持ちが悪くなる。
端から見れば美しい海だが、実際は怖いところだと思う。人間一人呑み込むにはわけないくらい広いし深い。
だから行くとき(中に入る)は誰かと一緒でなければ行きたくないと思ってしまう。
以前あまんちゅというアニメでスキューバダイビングをしているのを見て、当然のように俺たちもあれをやろうと言ったが、仲間たちの反応は鈍かった。
ハードル高かったんだと思うし、実際は怖かったんだと疑っている。
その後にぐらんぶるというまたスキューバのアニメがやった時でさえ、行きたいと言ったものはいなかった。
あれだけ死を間近に感じたいと言っていたのに、随分と腰の引けたものだと思った。
人間怠けたら終わりだと思う。突っ走っている時は、息は苦しくても心は踊っているものだ。
そうして突っ走る先に危険信号を感じたから、だんだんと仲間たちのノリが悪くなっていったんだと思う。
攻めの姿勢をいったん解いてしまうと、戦う筋肉が落ちてしまって、堪も鈍る。
いつの間にか守るものが出来たんだなぁと思う。そういうことを考えると、やっぱりリョウ君が引っ張ってきたからラクタリウス・インディゴはあったのであって、
それがなくなった今は、グループとしてやっていけないのは当たり前のことだ。
昔気質の熱く濃く交わるのはもうトレンドじゃないんだろうな。そうなってくると、今の感覚の人達に合わせられるか心配である。
またかつてのように活動的になるには資金も体力も足りなすぎるので、そうなる心配はないんだろうけど、やっぱりあの頃は楽しかったなぁって言っているような過去の栄光にすがる男にはなりたくない。