柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

水原秋桜子

高嶺星蚕飼の村は寝づまり

 

蚕飼の村の高い山の上には星が光り、今は朝夕の忙しさも忘れ寝静まっているという句か。

 

昔、母が学校の授業の一環で蚕を飼っていたことがあったらしいのだが、近代化が進んだ現代を生きる僕たちはそういう経験はしてこなかった。

 

母の時代はまだ貧しかったのだろうということが考えられる。貧しい方が世界をもっと感じられたかと考えた時、いや、それよりかは貧しいことに喘いで世界を感じる余裕などなかったのではないかと考えつく。

 

貧しいとは自分よりも裕福に暮らしている者がいるからこそ起きる嫉妬だろうか。

 

梅沢富雄さんの俳句にもたびたび貧しかったころのことが題材に使われる。

 

それもどうしようもない貧困ということではない。自分が自分の生きる道を選んだからこそ成功のために下積んだ貧しさ。

 

本当に貧困だったら、それが風化しない限りは表現する気力も起きないだろう。貧困のままで表現を続け、成功したという人をを聞いたことがない。

 

中にはそういう人もいるのかもしれないが、31年生きていて、貧しさを振り返れるものだけが、それを表現できる余裕を得るのだと思う。

 

僕は現時点で貧困ではないが、そうなってもおかしくない立場にある。

 

障害年金がいつまで出るかわからないし、失業手当は来月で切れる。

 

余裕がなくなった時に人の本性は表れると言うが、この日本という国で、生きていく中で、全く食べれなくて餓死するということは無いように思う。

 

つまりファッション貧乏しか存在しないんじゃないか?

 

最低限のインフラとして通信料が加味されたら、誰もが考えられさえすれば貧困にならずに済むようになる。

 

ただ要は考えさえすればいいというのは、馬鹿には生きられないということにもなる。

 

800万人もいる障碍者、弱者がいる日本で、それらを救出するには、今のシステム自体が古いモデムになっていると思う。

 

精神病を患う人もどんどん増えている。そういう人が生きていくのに、もう蚕を育てて金を得るという小さな商売ですら成り立たない現状に、貧しくはなくても生きづらい世の中になった気がしてならない。

 

誰もが俳句を楽しむ世の中になってもおかしくないはずなのに、どこか逼迫した感じが付きまとい、文化は発展していかない。

 

新しい生き方が求められている。それがベーシックインカムなのかなんなのか、おバカな僕にはわからないが、今できている勉強だけはずっと続けていたいと思う。

 

こんな僕を怠け者だというリョウ君になにか成果を伝えられたら、リョウ君にとって、僕が必要な人間と再認識させられるかもしれないが、そんなの無理だ。

 

自分の身体を第一に考えるなら、関わらないことを決断すべきだし、そんな酷い事を言う人が友達なのかと言われたら自分でも疑問だ。貧しいのは悪なのかもしれない。

 

そうであったら、僕はいつのまにか悪者になっていたんだな。

 

 

冬菊のまとふはおのがひかりのみ

 

 

カッコいい句!纏う光か。

 

冬菊じゃなくてもっと神々しいものだったら良かったのになとちょっぴり思ってしまうのもあるが、冬菊がどこか神々しい形をしているのもあって、この句はこれで完成している。

 

水原秋桜子は何処か天を感じる世界観があるな。

 

自分の色を見つけたらそれを突き進むがいいと思うが、僕にとっての武器は中7に三つの言葉を入れるテクニックがある。

 

そういう武器を何個も持っている方が良いが、自分の武器を何個増やせるかは、気づきや運、巡り合わせしかない。

 

そのために勉強することを止めないし、一句でも多く作ることが求められるが、創作活動というものは先細りになっていくもので、だんだんと自分の足場がなくなっていく。

 

新しいことへの挑戦が出来なくなっていくからだ。自分の武器を持つということは、それにすがるということだ。それは諸刃の剣だし、広く創作をする上では妨げになる。

 

自分の色を見つけた時は、星や星座を見つけたようにラッキーに思うだけにして、それよりも広大に拡がる宇宙を旅することが出来れば、楽しみは続くかもしれない。

 

もうずいぶん前からスランプに入ってしまって、すっかり創作が苦しいものになってしまった。普通に生きている分には、

 

なんら障害に思うことのないもののはずなのに、こうして苦しんでいるのは、自分から苦しみに突き進んでいる気がしてならない。

 

その先に、またあの日のような楽園が待っているなら、辛抱して藪を掻き分けていきたいが、その保証は全くない。

 

日に日に才能というものがなくなっていくなら、(その実感もあるし)僕はいずれ、いや、もう創作が出来なくなっているのかもしれない。

 

かつての偉人達も、その時々に精一杯を出し尽くし、創作に励んでいたから書けていたのだとしたら、怠惰で不真面目で臆病でいれば書けなくなるのも仕方がない。

 

努力をし続けられる人だけが、いっぱしの創作人となれるのだろう。

 

機を待っているようじゃ何も掴めやしない。僕の中のリョウ君が、そんなんじゃダメだと言い続けている。

 

それでもつまらないことは書けないし、書けないと分かるあの瞬間に恐怖しかない。

 

大したものを書いているわけではないはずなのに、自分の中では人生に影響するくらいの大事件で、それを他人にどうこう言われたくはないし、でも自分にストレスをかけることも出来ないでいる。

 

スランプに入ったら足掻いただけ成長が待っているという人がいるが、それほどのものを自分に課せられる自信がない。

 

誰かの指図で創作活動をするのが一番つまらないことだと知っているからだ。

 

冬菊が纏うのが己が光りのみというように、輝ける自分の光でなくては暗い海は渡れない。借り物の光に命を預けられないのだ。

 

最近、もうこのまま書けないのなら、いっそ心中する思いで、何でもやってみる気になってきた。元々持っているものはないのだ。

 

発光する蛍のように、頼りない光でも、この光が灯せる限りは、頑張ってみたいと思う。

 

 

滝落ちて群青世界とどろけり

 

自分では作れもしないのに、句を詠んだ瞬間、やられたと思うのは何故だろう。

 

読めない漢字の答えを書くしていて、考えるのが辛くなって思わず答えを見てしまった時の感覚に似ている。

 

自分の中にあるはずの言葉なのに、それを形にすることが出来なかった悔しさ。

 

それに手が届きそうだったのにと思う自惚れがあるからだ。これくらいの句、自分でも作れる。これくらいの作品、自分でも書ける。ただ巡り合わせが良くなかったんだ。

 

自分には縁がなかっただけで、実力は相違ないはずなんだと思う何と傲り高ぶった考えは、はたしてプラスに働くことはあるのだろうか。

 

僕は作品を書く時のモチベーションの多くに、面白くない作品を読んだ時に、こんなつまらないものが世に出て、自分も含めて金を払う人がいるのかという憤りがある。

 

人間はたとえ自分が面白いものが書けなくても、他人の作品を観た時に、面白くないと思ってしまう自意識がすこぶる高い生き物だし、そういう時、損をした気分になってしまう。

 

僕は長年オタクをやっているから、一般の人より多くの作品に触れる機会があるが、年を追うごとに、自分の見たい作品であるかないかで、作品の評価が決まってしまうときがある。

 

これだよこれを観たかったんだ。そう思う瞬間を求めるのが日に日に強くなり、まどマギやシュタゲを観た時に、

 

これだ!と思う感覚が自分の中に沸き上がり、自分が求めているのは自分が想像だにしなかった結末に行き着くことだと感じた。

 

創作活動をしている時は、まずパソコンの前に座って、真っ白な原稿に向かい、想像を膨らます。

 

自分の書きたい文、書かなくてはならない文を探して、指をタイプしたいままに動かす。

 

そうして白い闇の中を進んでいくことが、何より遣り甲斐を持って、物語を綴る力にする。

 

このキャラは本当はどう動きたいのか。キャラクターが勝手に物語を進行させてくれるような、オカルトはあり得ない。

 

ただ言うべき台詞、起こるべき展開、納まりどころが良い終点があると信じている。

 

これは信仰に近いかもしれない。物語に必要なのは、必然性だけだといっても過言ではない気がする。

 

そういう見えない何かに導かれて僕は創作をしている。ただしその影を見るには、真っ白な原稿を前にしなくてはならない。これは非常に勇気のいることだ。

 

楽しい時は感じなかったが、創作から離れた今、実に勇気のいる作業だということが克明に分かってしまった。

 

自分の中が空っぽなのだと自覚することは、今までの人生の否定になる。

 

今まで積み重ねてきた、困難もあり喜びもあった人生が全く意味のないものだったとはっきりと分かってしまう恐怖。

 

滝落ちて群青世界とどろけり、程度のことも思いつかない自分が情けない。

 

恥ずかしい。恥ずかしさを知ること。それは厳しい創作の道を進むためには必要な気がする。

 

自分の中の自分でも知らない世界を描くために、僕は創作に生涯を捧げたいと思う。