島木赤彦
ひたぶるに我をみたまふみ顔より涎を垂らし給ふ尊さ
〔一生懸命に私を見るその人の、お顔からは涎が垂れている。それでも尚、私に乞うてくる何にも代えがたい姿よ〕
餌を待っている犬猫の顔が浮かんだが、実はこれ年老いた父母のことらしい。
犬猫だったらなんとも愛らしい一場面を切り取った詩だが、父母となってくると、少しゾッとするものがある。
その姿を想像するに、とてもやりきれない思いが込み上げてくる。
元気だった姿を知っているだけに、それが耄碌して最早人間性をも失って、ただただ本能だけの動物となって、それでも何かしかの好意だけは残っていて、
自分を頼りにしている、いや頼りにしていると思いたいと願っているのかもしれない。
そんな風になった親のことを死にゆくその日まで世話し続ける介護生活は、自分が思っているより過酷だろう。
すぐ近くにいるのに、とても寂しい詩だ。
きっとこの人は、父母が糞を漏らしたり、口もきけず言っていることが理解出来なくて反発されたり、自分の言うことなんて何一つ聞いてくれない厄介な存在になってしまうのだろうけど、
自分を育ててくれた恩から面倒を見る、最後まで一緒にいるという選択をしたんだろうな。偉いと思うし真似できないとも思う。
しかし、うちの両親がそうなった時に、施設に預ける金はないので、この人と同じ目に合うかも知れない。
僕自身その生活に耐えていくことが出来るのだろうか。母ならまだしも、父だけが残された時、それをしなければならないのはきっと僕の役目になる。
そうなった時、この詩のように父に対する尊敬を保ったまま愛すことは出来ないと思う。夫婦が愛し合い、子を残した時、その子供たちが親の面倒を見切らないといけないというのは、大変な負債を背負わせることになる。
僕は金銭的にも子供を残せるか正直微妙なところにいるが、自分の愛する子供に自分の最後まで面倒を見させたいとは思わない。
それでも見ると言ってしまうのが家族なのだとしたら、自分の始末を自分でつけられないのだとしたら、子供なんてただのエゴになってしまう。
だとしたら、もし子供を作ってしまった場合は、さっさと自立してもらって、遠くで家庭を築いて幸せに生きてほしいと思う。
ただ望んで面倒を見てほしいと思うことは悪だと決めつけているが、子供はそうは思わないかもしれない。子供が出来たら愛したいと思うし、敬愛されたいと思う。
仲のいい親子だからこそ、最後得も言われぬ寂しさを味わわせるなら、最初から愛さない、子供なんか作らないという考えに行き着く。
だがそういう業を背負わせるのが家族なのかもしれない。
みづうみの氷は解けてなお寒し三日月の影波にうつろふ
俳句だったら、季重なりが4つはあるが、これは短歌なので自分の入れたいだけ季節を表す語句が入れられる。
調子もいいし、情景も綺麗だ。三日月の影、という辺りが良い。湖の穏やかな波も想像出来る。
冬の終わりの詩で、それが欠けた月の不完全さと相まっている。俳句や短歌はこの句(詩)が良いんです、この句のここが良いんです、というのが分からなかったので、
今まで分かる人にしか分からない良さだったが、プレバトで夏井先生の添削や評価をしているのを見て、指摘されればああなるほど、とその良さを納得することが出来る。
プレバトの文化的な功績は大きいと思う。俳句というものがメジャーなものになるために、ゴールデン番組で堂々とそれをやるのは、良いことだと思う。
文化に焦点を当てることが、必要だったと思う。お茶の間に笑いはもちろん必要だし、プレバトでも梅澤さんが笑い者になっているが、それよりも自分を豊かにしてくれる教養の方が、大事だと思っている人も多いと思う。
テレビはこれまで笑いを突き詰めてきたが、それよりも学生の頃分からなかった勉強をもう一度テレビがやり直させる、という方がこれからは伸びてくると思う。
クイズ番組ではなく、それでいてバラエティーの要素もあって、視聴者が参加できる番組。
しかし、テレビを見ている20%の人たちは楽しみを追求したいわけではないと思う。
そういう胆力はないと思うし、結局その時が楽しければ、あとは忘れてしまって構わないと思っているだろう。
ならテレビを見ていないその他の人はどうか。
きっと自分の興味関心の向かう方向に沿って、進んでいるのだと思うが、そうなってくると生態は各個人個人に分かれてしまって、追いきれなくなる。
僕は全家庭が食卓でテレビを見ていたのを知る最後の世代だが、その時は見たテレビを学校で話すなど、共通の意識、共通の会話が可能になったが、今の子供たちはどんな生活をしているのだろうか。
岡田斗司夫の発言から考えると、僕達のような、自分の所属するグループの中で、共通の話題を持ち、その中だけで知識を共有していくのではなく、
自分の知り得た情報やコンテンツを、常に複数のグループと共有し、運営していく新しいコミュニケーションの形があるのではないか。
それは一塊になって、話題の密度を濃くしていくのではなく、皆が広く薄く繋がっていく世界。超情報化社会での新しいコミュニティの形。
当然ジェネレーションギャップは生まれてくるだろうな。人間はどんどん進化していく。広く薄くとはいったが、自分の興味をどこまでも突き詰めることも出来る社会で、情報を手に入れられる人とそうでない人では格差が生まれる。
それは僕はこの詩からこんな感想しか抱けないが、この詩の良さをもっとわかる子供も生まれてくるということだ。
隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり
寺子屋で子供たちが勉強しているのを隣の部屋でしみじみと聞いている男の詩かな。
語調や語順から何となく男の詩のような感じを受けてしまう。
心に沁みて生きたいと思うというところが男泣きをしているように思えるからだ。実に健やかな精神をお持ちの人物だなと思う。
子供の成長を見守ることを生き甲斐にしている、元教師なのか、病人なのか。若い頃は子供の勉強する声など、なんとも思わなかったのかもしれない。
自分のこの先の未来がないのか、未来ある子供たちの元気な声が沁みてくるんだろうなぁ。もしかしたら悪人なのかもしれない。
今まで怠けていた勉学を、子供たちは実に楽しそうにやっていて、それが出来なかった自分を責めているのかもとも取れる。
勉強は今は好きなったが、学生の頃は嫌で嫌で仕方なかった。学ぶことが面白いと思えず、何の為に勉強なんてものがあるのかわからなかったから、必要と思えなかった。
岡田斗司夫の影響が大きいが、人間勉強している時が一番充実していると思う。克服する瞬間が一番達成感があり、自分が価値のある人間なんだと錯覚できる。
そういう錯覚の積み重ねが自信になるのだと思う。テストなどでそれが数値化されると優劣がはっきりと分かり、自分が他の人よりも有能な人間なのだと評価される。
有能な人間が評価され可愛がられるのは、子供の頃から眼にしているはずなのに、それが平等でないと憤慨してしまう愚かなことよ。
自分だって自分のためにしてくれる人がいれば、それを可愛がるのだろうが、僕の場合自分が可愛がられたいと思うばかりで、他人を従えたいと思ったことは無かった。
今も昔も後輩と上手くいったことはないし、年下の人でも自分と対等と思うようにしているので、先輩後輩の関係になったことがない。
仲良くする年下の子らが、自分より格下な存在だと思えないし、むしろ自分より遥かに人格者であると思うので、蔑むよりも前に尊敬してしまう。
子供(自分より下の者)の成長をしみじみ喜べるようになったら、年を取った証だよな。
多分追い抜かれる心配がないとか、逆に追い抜かれても当たり前だと思うから喜べてしまうんだと思う。
温かい目で見られるっていうのはある種見下しているとよりも遥かに高いとこから見下ろされているんだよな。